学習通信040616
◎億万長者……ぞくぞくと。
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すべての富のうち
6人が59%をもっていて
みんなアメリカ合衆国の人です
74人が39%を
20人が、たったの2%を
わけあっています
(「世界がもし100人の村だったら」マガジンハウス)
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億万長者 世界中に770万人 米国で125人に1人
世界で百万ドル(約一億一千万円)以上の金融資産を持つ富裕層人口が昨年一年間で前年比七・五%増え、七百七十万人となったことが分かった。特に米国では同一四%増の二百二十七万人に達し、米国民の百二十五人に一人が億万長者≠ナあることになる。
米証券大手メリルリンチなどが十五日発表した。世界的な景気回復による株価の上昇が富裕層拡大の要因。米国では株式配当への減税なども寄与した。
億万長者の数はアジア・太平洋地域では前年比八・四%増加。高成長を続ける中国では同一一・八%増の二十三万六千人、インドでも同二一・九%増の六万一千人と急増した。欧州は二・四%増の二百六十万人と緩やかな増加にとどまった。日本については触れていない。 (ニューヨーク=共同)
(日経新聞 040615)
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所得格差が拡がるだけでなく、仕事の量でも差が生まれる
日本の社会はここ10年、20年で急速に変わってきている。それは新階級社会の到来を予感させる大きな変化だった。
私が大学に入学した1976年、国立大学の年間授業料は3万6000円だった。それが2003年度からは、52万800円になる。14・5倍である。この間、物価は1・7倍にしかなっていないから、いかに負担が増えたか分かるだろう。
家が貧しくても能力があって努力を惜しまない若者を救う日本的な仕組みがどんどん失われてきたのである。
日本社会に、いつの間にか新たな二重構造ができあがってしまったのだ。 日本では、昭利20年代、30年代まで社会の二重構造が大きな問題だと言われていた。それは給料が高くて雇用の安定している大企業の社員と、そうではない中小企業社員の間の格差を示していた。
この二重構造を解決することが、戦後の長い間、日本の最大の政策課題だと言われてきたのである。
その後、高度経済成長の過程で人手不足が起こり、中小企業の労働条件が改善されていった。そうしないと人が採れなくなったからだ。その結果、中小企業だからと言って、とんでもなく給料が低かったり、長時聞労働だったりするということはだんだんなくなっていった。そうして二重構造が解消に向かっていったのである。
ところが、このところまったく形を変えた新しい二重構造が出現している。
それは企業規模間というより、個人間の所得格差の拡大である。
その原因の一つは、不況になると弱者が最初に切り捨てられるという法則のためであり、もう一つは、経済の知的創造社会化、あるいは経済のサービス産業化のためである。
経済のサービス産業化がなぜ所得格差の拡大を招くのか。
例えば、次のような例を考えると分かりやすいかもしれない。
第一次産業の商品であるお米を生産したり、第二次産業の商品であるお豆腐を作る場合、作る人の才能によって、それほど生産額に違いはない。同じ土地や同じ原材料を使っていたら、付加価値の差は、作る人によってせいぜい数割だろう。
ところが、第三次産業の商品、例えば、デザインを描く、映画を作る、小説を書くなどの知的創造物となると、それこそ一銭にもならない人から何億円稼ぐ人まで、生み出す付加価値に途方もない格差がついてくる。
いま産業構造は、確実にサービス産業化してきている。ということは、放っておいても所得格差は拡大する方向になっていくということなのだ。
知的創造社会化、あるいはサービス産業化が進めば進むほど、個人個人が仕事をして生み出す付加価値が人によって大きく違ってくる。個人が生み出す付加価値によって構造的に格差は広がってゆくのだ。
知的創造化でおそろしいのは、単に時間当たりの報酬格差が拡大するというだけでなく、仕事の量も時給の高い方へと集中していくということだ。
例えば、いま日本で一番売れているタレントのみのもんた氏のギャラは、3時間番組で600万円だそうだ。ラジオ番組でおすぎさんがそう言っていた。ところが、そのギャラの高いみのもんた氏のスケジュールは、寝る間もないくらいびっしりなのである。
ある地方都市の文化ホールのマネージャーがこんなことを言っていた。
それは、講演会をやるときにギャラが100万円以下の講演者を依頼することは難しいということだった。100万円のタレントを呼べば、ホールが満席になって採算が合うが、それ以下のギャラのタレントだと空席ばかりになって、かえって赤字になってしまうのだそうだ。
報酬の単価で差が生まれるだけでなく、仕事の量でも差が生まれる。だから、知的創造社会化は、半端ではない所得格差を生み出すのである。
ちなみに、その所得格差が才能だとか努力によって生み出されるのかと言えば、私は必ずしもそうではないと思っている。
知的創造分野では、才能があっても、努力してもまったく報われない人はたくさんいる。むしろその方が圧倒的に多い。それでは、所得格差を規定する要因は何なのかといえば、私は「運」だと思う。
日本で一番売れているタレントの一人みのもんた氏も、ラジオ局の文化放送を退職した後、10年間にわたる空白期間がある。水道メーターの営業をしていたのである。あれだけの才能がありながら、チャンスが巡ってこなければ一銭も稼げない。それが知的創造社会の最大の特徴なのだ。
だから、知的創造社会化が進むなかで社会の安定を保つためには、高額所得者から一般庶民への所得の再分配を強力に仕掛けなければならない。
金持ちから思い切り税金を取って、それを一般市民に分配しなければ、社会の平等が確保できないのだ。
ところが、これまでにみてきたように、いま日本政府はまったく逆の分配政策を取り始めている。金持ちに減税して、一般庶民に増税していこうとしているのだ。
もし政府が所得の再分配機能を放棄したら何が起こるのか。それは、知的創造社会の所得格差拡大がそのまま国民の生活に牙をむくようになるということなのである。
残念ながら日本社会は、格差の拡大と新しい二重構造への道を、後戻りできないところまで歩みを進めてしまったようである。
構造改革の行き着く先が「新階級社会」なのである。いったい日本はどんな姿になるのか―。
(森永卓郎著「年収300万円時代を生き抜く経済学」光文社 p129-133)
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貧乏と失業の原因
国民の大部分のものを貧乏においこみ、まじめにはたらく幾千万の人々の労働力を搾取して国の富をひとりじめにしてしまって特権階級としての浪費と享楽にあけくれしている資本家の存在というものは、どう考えてみても道徳的に正しいありかたとはいえない。このような資本家やその資本家の出す資金の上にのって日本の政治を動かしている人々の行動の中にわれわれ貧しい国民の立場からみてなっとくのゆかない数々の現象が現われてくることは、ある意味では必然といってもよいであろう。
たしかに、今日の政治や経済のうらをのぞいて見ると、全くただあきれるというよりほかはないようなひどいありさまである。彼らが国民にとって真の味方でないことは、事情をくわしく知ればしるほどなんびとといえどもみとめざるを得ないであろうが、そうであるからといって人間をとりかえてみたらそれでよくなるかというとそういうわけではない。
特別に悪い人間が資本家になるというわけでもなければ、また特別に下劣な人間が政治家になるというわけでもあるまい。ある意味からすれば彼らは有能な人間であり、普通以上に何らかの才能をもっている場合さえ少なくないのである。人は生まれつきかならずしも善人でもなければ悪人でもない。
ただ一定の社会関係の下におかれると、そのあるものはいくらはたらいても飯のくえないようになり、あるものは多くの人を搾取しないと自分の事業を経営してゆくことができないという地位におかれる。善悪はそれから後のことなのである。だから人間としての公正な眼から見れば、かならずしも資本家が悪人で労働者が善人ときまったわけではない。こういう問題を単なる道徳の問題として考えることはまちがっている。
資本家の心がまえということも決して無意味なことではないが、そんな観念的な方法でこの問題を解決することができるなどと考えてはならない。社会関係の全体がかわらないかぎり、一人や二人の心がけのよい「資本家」が出たぐらいで解決のつく問題ではない。食うか食われるかという自由競争の社会におかれている限り、労働者は生きようとする限りこの資本主義を支配している法則にしたがって勝利のためにたたかうのほかはないのである。
しからば資本主義社会を支配する法則とは何か。そこには何よりもまず第一に資本集中の原則がある。資本主義は発展すればするほどいままで分散して多人数の手ににぎられていた資本が少数の個人企業家、会社の手に集中されてゆく。マーニファクチュア(工場制手工業)から機械工業への道は、中小企業から大企業、高度の固定資本による大工場的機械生産への道であり、ついにはオートメーションにまで向かって進むことを歴史的必然とする道である。
この道を歩まないところには資本主義の発展というものはなり立つことができない。かくして、どこの国でも資本主義の発展は自由競争によって中小企業が没落し大企業を中心として資本が集中され独占化してゆく過程である。それはたしかに生産力の巨大な発展、したがってまた国の富の急激な増大を意味するとともに、これによって国民は金持になるのでもなければ、生活が楽になるのでもない。
増大した富の大部分は独占資本家の手中におちてしまって、勤労大衆はわずかに辛うじて生活をささえうるだけのお金が与えられるにすぎない。景気のよいときには多少のおこぼれもいただけるかもしれないが、長い目で見るとむしろ逆に資本主義は発展すればするほど国民は貧乏と生活の不安におちいってゆくばかりである。
しかもそれは偶然にそうなるのではない。そこには歴史の法則的必然性というものが(あらゆる個人の心がけのいかんをこえて)厳としてつらぬいて支配している。大工場的機械生産は労働者の数をできるだけへらして機械に大部分の仕事をさせる組織である。しかし資本主義の下では、それによって労働者の仕事がらくになるのでもなければ、労働時間が減少するのでもない。
むしろ機械を相手とする非人間的な労働の強化として労働の苦痛は高まるばかりである。しかも中小企業の没落や農民の貧困から労働力の供給はいよいよ増大してとどまるところをしらない。かくて労働予備軍はちまたにはんらんし、失業者や半失業者の数は資本主義の発展とともにますます増大する一方である。資本主義社会にあっては物の値段は需要供給の関係によって法則的に支配される。
供給が少なくて需要が多ければ物の値段は上がるが、その逆であれば下がる。労働力も資本主義社会にあっては市場で取りひきされる物であり商品の一種である。
資本主義的生産方法が発展するということは工場制大機械産業が発展するということであり、仕事の大部分を人間労働によらずに機械にやらせてしまう方向への発展であり、これに対して中小資本は、バタバタと打ちたおされ、国民の大部分は自己の労働力にたよる以外に生活の道を失ってゆくとすれば、労働力に対する需要は資本主義の発展とともに相対的に減少し(一時的な例外はあるにしても)労働力の供給の方はむしろ殺人的ともいってよいほど増大してゆく一方であるとすれば、労働力の商品価格が下がってゆくのは必然であるというのほかはない。
ほかの人が二万円で働いているなら、同じ仕事を私は一万五千円でも働きますという人がでてくる。あるいは一万円でもといい、また八千円でもという人間が出てくる。最低に賃金制でもきめて法律上のとりしまりでもやらないとどこまで下がってしまうかわからない。しまいには三千円とか二千五百円とかいわれてもそれではいやですとはいえない人間が出てくる。
そうなってくるともう男一人のはたらきでは家族四人なり五人なりをやしなうことができなくなる。一人の給金で自分一人の生活をささえることが精一ぱいということになれば、いきおい女も子供も老人も、働くことのできるものは何とかして働いて、どんな安月給でももらわないとくらしが立たないということになる。
私などの少年時代には夫婦共かせぎなどという現象はきわめてまれなことで、人の話題にのぼるほどであって、たいていの家ではたとえまずしくとも主人一人の月給でくらしをたててゆくことが原則であったのであるが、今日ではもう逆に主人一人だけの労働で一家の生活ができる家の方がめずらしい位になってしまっている。
しかしこれでは働く人たちは、お互いに競いあっていよいよはなはだしく貧乏線を走ることになる。一家一人の労働でさえも労働市場は求職者があふれていたというのに、さらにそれに数倍するその他の家族まで加わって低賃金を争うとすれば、さらでだに低い賃金はいよいよ低くなってゆき、しまいには家中総出ではたらいても月月の家計は赤字を出さないのが見つけものというようにさえなってしまう。働く人は自ら相ひきいて自分たちを貧乏と失業の群れの中においこんでゆくのである。今日の働く人々の家庭は現実にまさにそういう状況にまで追いこまれて来てしまっているのではあるまいか。
しかしこのことはやがてまた資本家の方にも反映しないわけにはいかなくなる。安い労働力がつかえるというようになるということは資本家にとってまことに有利なことであり、利潤率を高くするための最もよき条件となるわけであるが、しかし彼らはこれによって物を作り売らなければならない。売るためには買手の存在というものが必要であるが、その買手となるものはなによりもまず国民大衆である。
ところがこの国民大衆が大部分勤労生活者であり、しかもその賃金が安く購買力の少ない貧乏人になってしまっているとすれば、資本家はせっかく企業をおこして物を作ってみても売れ行きが悪いということになる。そこで彼らの方にもまた販売価格の競争がおこる。一万円のものが八千円になり、八千円のものが六千円、五千円となる。せっかく安い労賃で作ってみたものの商品の値段が下がってしまったのでは利潤は少なくならざるを得ない。
それでも売れさえすればまだよいが、いくら安くしてもなかなか思うようにはお客が買ってくれない。そこで広告費に思い切って金をかける。生産費の何倍にもなるような広告費をつかってデカデカと新聞広告をやり、テレビやラジオを通じてあくどいまでに商魂たくましい宣伝戦をまきおこす、まことに狂乱のような火花が散らされるのである。
それでも思うようにうれないとなると今度は生産原価をわってまで破格大売出しをやったり、あるいは十ヵ月月賦販売をやってみたり、さてはテレビや電気冷蔵庫のあたる富くじ景品付から、温泉一泊旅行無料サービス券などという工夫に至るまであらゆる手段をつくして販売戦術をねってみるが、それもはじめのめずらしい間のうちならともかく、みんながそれをやり出すことになればきき目はだんだんとうすくなる。
いくらそんなことをしてみたところでサラリーマンの財布の中には彼ら資本家から貰った以上のお金は入っていないのだから、いくらどんな手段でお客の購買心をそそってみたところで、心だけでは物は買えない。ある限度以上は打ってもたたいてもほこり以上のものは何も出ない、無い袖はふりようがないのである。
かくて不況という現象がおこってくる。不況は資本家たちのもっともおそれるところであり、夢の間もわすれ得ないほど恐ろしいことなのであるが、自由競争でみんなが自分の個人判断でバラバラに物をつくっているかぎり、どんなにいやでもこれをさけることはできない。十年に一度、八年に一度と、周期的にきまったようにしてやってくる。しかも、それが資本主義が高度となるにつれてますますひどくなる。
そしてそのたびごとに操業短縮が行なわれ、中小企業はたおされ、労働者は街頭にほうり出されて餓死線上にさまよわされ、失業をまぬがれたものは低賃金の上その労働を強化される。そしてこの間に資本の集中化独占化はいよいよ進んでゆくものとなるのである。
かくて、今日世界資本主義発展の頂点を歩みつつあるアメリカにおいては、資本の独占化もまた最高度にすすみつつあり、アメリカ総人口の約一%がアメリカの国富(それは全世界の富を一国にあつめている)の五九%をにぎっている。つぎに中産階級は一二%であるが合計して国富の三三%をしめ、この両者以外の八七%は勤労諸階級に属し、約一億五千万の人々がこれにあたるわけであるが、これらの人々のもつ富は全部合わせてもわずかに国富の八%にすぎない。
かくてぼう大なアメリカの経済的生産力が産む大部分の利益はほとんど独占資本家の手に集中され、国民は生産力の発展から受ける利益をほんのわずかしか享有することができない。独占資本の利益は一九三八年の三三億ドルから一九五一年の四二九億ドルヘと十三倍もふえているというのに、国民の生活水準は決してそのわりには向上していないのであり、生産物中賃金のしめる割合はむしろはなはだしく低下して(約三分の一)いるのである。
ことに農民の購買力の低下はいちじるしく一九四七年〜一九五三年の六年間に三五%にも達し、その間に農家の破産したもの七〇〇万戸にも及ぶという。けだし弱肉強食の世界の必然的現象というべきであろう。アメリカが民主主義の本国のようにいわれながら、数十年間にわたって議会に一人の労働者代表の議員をさえ送ることができず、一九四八年に至ってはじめて一人の議員を出しえたというごときことも決して偶然のことではないのである。
(柳田謙十郎著作集8「人生哲学」創文社 p345-350)
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「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と云えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめたまうの趣意なり。
されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりて出来るものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と云うべし。
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。
諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも云えるとおり、人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
(福沢諭吉著「学問のすすめ」中公クラシックス p3-4)
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◎同じ現象も運≠ニして、社会の法則として……。
学ばなければ何事かもわからないのだ。