学習通信040617
◎産業革命とは……。
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多くの歴史書では、われわれが機械革命とよぶもの、つまり組織的科学の発達から生まれる人類経験上のまったく新たな事態であり、農業の発明や金属の発見と同じような新たな一歩であったものと、それとは別ものであって、その起源を異にしており、またすでに歴史的先例をもつもの、すなわち産業革命とよばれている社会的および財政的発展とを、混同する傾向がある。
この二つの過程はいっしょに進行し、たえず相互に作用しあっていたが、しかし根本的に別ものであった。石炭や蒸気や機械がなかったとしても一種の産業革命のようなものはあったであろう。だが、その場合の産業革命ならば、おそらくローマ共和国の晩年の社会的および財政的発展の線上にもっと密接して継続していたことであろう。
それは、土地をうばわれた自由耕作者や、集団労働や、大領地や、大財産や、社会を破壊する財政方策やの物語の繰返しだったであろう。工場的生産方法でさえ、動力や機械が現われる以前にあらわれた。工場は機械の産物ではなくて「分業」の産物であった。
訓練された低賃銀の労働者たちが、まだ水車さえ産業目的に使用されない以前から、婦人帽、紙箱、家具など、また着色地図や書物の挿絵などのようなものを作っていた。ローマにはアウグストゥス時代に工場があった。たとえば新しい書籍は書籍商の工場で筆耕たちに書取らせたのであった。
デフオーの著作やフィールディングの政治的パンフレットの注意深い研究者たちは、貧民たちを設備内に集めて生計のため集団的に労働させるという考えがイギリスではすでに十七世紀末以前に広くおこなわれていたことに気づくであろう。これを暗示するものはすでにモーアの「ユートピア」(一五一六年)の昔からある。それは社会的発展であって機械的発展ではなかった。
十八世紀の半ばすぎまで、西ヨーロッパの社会・経済史は、事実上、紀元前の最後の三世紀間にローマがたどった道のうえをたどっていた。しかし、ヨーロッパの政治的分裂や、君主制に抗する政治的動乱や、民衆の反乱や、それからおそらくはまた西ヨーロッパ人の知性が機械的な観念や発明をひじょうに受けいれやすかったことなどによって、その経路がまったく新奇な方向に転じられた。
新ヨーロッパ世界では、人類共存の観念がキリスト教のおかげでローマにおけるよりもはるかに広く普及しており、政治権力もそのローマほどに集中しておらず、金もうけのしたい精力家たちはひじょうにいさぎよく、奴隷や集団労働の思いつきを捨てて機械的動力や機械の思つきのほうに心をむけ変えたのである。
機械革命すなわち機械の発明および発見の過程は、人類の経験における新事態であった。そしてそれは、それによって生み出さるべき社会的、政治的、経済的、および産業的諸結果にはおかまいなしに進行した。その一方で産業革命は、他のたいていの人間界の出来事と同じように、機械革命によってひきおこされた人間の状態の絶えざる変化によって、ますます深刻に変化し偏向させられてきたのであり、それはまだ今日もつづいている。
そして、あの昔のローマ共和国の後期における富の蓄積、小農業家や小実業家の滅亡、および巨大財政の様相と、それにたいする十八、九世紀における非常によく似た資本集中との間の、本質的な相違は、機械革命によってもたらされた労働の性格の深刻な相違のうちに横たわっているのである。旧世界の動力は人間のカであって、万事が結局は人間──無知で屈従する人間の筋肉の推進力に依存していた。
ただしウシやウマその他の牽引などによって少しは動物の筋肉も役には立った。重い物をもちあげねばならぬ場合にも人間がもちあげ、岩を切り出さねばならぬ場合にも人間が切り出し、畑を耕さねばならぬ場合にも人間やウシが耕した。ローマで汽船に相当するものは、数層の流汗する漕手群によるガリー船であった。初期の文明国では人類の大部分が純機械的な苦役に使用された。
動力で動かされる機械も、最初には、そのような動物的な骨折りから人間を解放しそうには思われなかった。労働者の大集団が、運河の開発や鉄道の切通しや築堤などに使用された。坑夫の数はおそろしく増加した。しかし、利器の使用範囲や商品の産額ははるかに多く増加した。そして十九世紀の進行につれて、新事態の明白な論理がいっそうはっきりと現われてきた。
人間はもはや、何でもいいから力を出せばいいものとしては要求されるのでなかった。人間によって機械的になされえたことは、機械によっていっそう遠く、いっそう上手になされるのであった。人間は今や、選択力や知性を働かせねばならぬ場合にのみ必要とされた。人間は人間としてのみ要求されたのである。従来のすべての文明の土台でおった苦役者、たんに服従するばかりの動物、頭を使わない人間、そんなものは人類の福祉にとって不要となった。
このことは最近の冶金業について正しかったのと同様に、農業や鉱山業のような昔ながらの産業についても正しかった。耕転や播種や収穫のためにも快速機械が現われて数十人分の仕事をしている。ローマの文明は安価な下積みの人間たちを土台にして築かれたが、現代の文明は安価な機械力を土台にしてうち建てられつつある。
この百年間、動力はますます安価となり、労働はますます高価となってきた。鉱山では機械の採用が一世代ばかり遅れたとしても、それはただしばらく人間が機械よりも安価だったからにすぎない。
ここにおいて、人間生活上きわめて重大な変化が起った。旧文明国の富者や支配者の主要関心事は、苦役者の供給を維持することであった。十九世紀の進行につれて、職者にとっては、民衆は今や苦役者以上のものとならねばならぬということがますます明らかになった。
民衆は、──「産業能率」を確保するためにすぎなかったとしても──教育されねばならなかった。民衆は自分のやっていることを理解せねばならなかった。すでに最初のキリスト教宣布時代以来ヨーロッパでは民衆教育はささやかながら行なわれた。またアジアでも回教が根をおろしたところならいたるところでそうであったが、それは、信者に、彼が救われている信仰を少しでも理解させるという、また信者に、彼に信仰を伝える聖典を少しでも読めるようにしてやるという必要のためであった。
帰依者を獲得するための競争をともなったキリスト教の論争は、民衆教育という収穫をあげるための地ならしをした。たとえばイングランドでは、すでに十九世紀の三〇−四〇年代に、諸宗派の論争や若い帰依者をとらえる必要によって、競争的にぞくぞくと児童教育機関が──国教派の「国民」学校や、非国教派の「プリティヅシュ」学校や、ローマ・カトリック派の初等学校までもが、設けられた。十九世紀の後半は、西洋化された世界全体を通じて民衆教育の急進時代であった。
上流階級の教育上にはこれに匹敵する進歩はなかった──もちろん多少の進歩はあったが、対応するほどの進歩はなかった。したがって、これまで世界を読書できる人々と読書できない大衆とに分かっていた大きな割れ目は、教育の程度の上でわずかに認められる相違以上のものではなくなった。この経過の背後には機械革命、すなわち、社会的身分ということを建てまえでは無視して、現実に世界中のまったく文盲な階級を完全になくすことをあくまで強要する機械革命があったのである。
ローマ共和国の経済革命は、ローマの庶民によっては結局はっきりと認識されることはなかった。普通のローマ市民は、ついに、彼らの経験した諸変化をわれわれが観察するように明白かつ包括的には観察しなかった。しかし産業革命は、十九世紀の終りに近づくにつれて、その影響をこうむった民衆によって、一つの全過程としてますます明確に観察されたのであるが、それはつまり、すでに彼らが読書したり議論したり通信したりできたからであり、また、彼らが昔の民衆がかつてしたことのないような旅行や見学をしたからである。
(H.Gウェルズ著「世界史概観 -下-」岩波新書 p82-86)
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工業の発展とか機械的技術の改善といった現代における偉大な奇跡のすべては、富裕な人にとっては相対的にあまり大きな意味をもっていなかった。たとえば古代ギリシャにおける富裕な人にとっては、現代の水道システムから利益を得ることはほとんど何もなかった。水道システムのおかげで水が自由に出るようになったということは、そのために召使いを使う必要がなくなったというだけのことだ。
テレビやラジオもそうだ。古代ローマの貴族は、一流の音楽家や俳優を自分のうちで観ることができた。いや、それどころか、一流の芸術家を自分の家臣として自宅に置いておくことさえできたのだ。既製服とかスーパーマーケットとか、この種のすべてのことやその他現代の発展によってもたらされたことは、彼らの生活にほとんど何ものも加えなかった。
古代ローマの貴族が、交通や医術における改善を歓迎しただろうことは間違いない。これらを除けば、西欧の資本主義が達成した偉大な業績は、一般の人びとの利益のためにこそ主として寄与してきたのだ。これらの偉大な業績は、以前の『時代には富裕な人や権力をもった人にとってだけの独占的な特権であった生活上のいろいろな便利や便宜を、一般大衆の手に入るようにさせてきたのだ。
一八四八年にジョン・スチュアート・ミルは次のように書いた。
「これまでのところ、機械的な発達が人間の毎日の労働の苦労を果たして軽減してくれたかどうか疑問に思われる。それらの発明は、人口の大半の人びとを依然として骨折り仕事や監禁同様の生活に留まるようにしかさせていない。ただ、製造業者やこれに似た人びとにますます多くの財産をこしらえるようにさせてきただけのことだ。
機械的ないろいろな発明が、中産階級の安楽を増大させたことはたしかだ。しかしそれらの発明が、その性質からいっても、それが将来達成できる可能性からいっても、もたらすことができるようなよい影響を、人類の運命における大きな変化という形で現わし始めているとは、これまでのところまだいえない」と。
しかし今日では、誰もこのようなことを主張することはできない。工業化された今日の世界で、隅から隅まで旅行をしても、厳しい骨折り仕事に従事している人を発見することができるとすれば、大半の場合スポーツのためにやっている人でしかない。
それでもどうしても、毎日の勤労の苦労が機械的発明によって軽減化されていないような人をみつけたいというのであれば、非資本主義世界のソ連、中国、インド、バングラデシュ、ユーゴスラビアの特定の地域などへ行ってみなくてはならない。さもなければ、アフリカ、中近東、南米、またつい先ごろまでのスペインやイタリアといった、もっと後進的な資本主義諸国へ行かなくてはならない。
(M&R・フリードマン著「選択の自由」日本経済新聞社 p236-237)
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では、この衝突はどういうものか?
資本主義的生産以前には、つまり中世には、労働者が自分の生産手段を私有することを基礎とした小経営が、ひろく存在していた。すなわち、自由なまたは隷貧的な小農民の農耕と、都市の手工業とである。
労働手段──土地・農具・仕事場・手工用具──は、個々人の労働手段であり、もっぱら個人的使用を目あてとしたものであって、だから、必然的にちっぽけで矮小で限定されていた。
しかし、それゆえにこそ、通例、生産者自身のものであったのである。こうした分散した局限された生産手段を集積し拡大して、力づよく作用する現代の生産の梃子に変える、ということ、これこそ資本主義的生産様式とその担い手であるブルジョアジーとの歴史的役割なのであった。
この両者が、一五世紀このかた、単純協業とマニュファクチュアと大工業という三つの段階を通じて、歴史的にどのようにこのことをなしとげたかは、マルクスが『資本論』第四篇〔「相対的剰余価値の生産」〕で詳しく描いている。
しかし、同じくそこで論証されているように、ブルジョアジーには、生産手段を個々人の生産手段からただ人間の総体によってしか使用できない社会的な生産手段に変えること、ただこのことによってだけ、あの限定された手段を強大な生産力に変えることができた。
紡車・手織機・鍛冶用ハンマーに代わって、紡績機・力織機・蒸気ハンマーが現われ、個々人の仕事場に代わって、数百人また数千人の協働を必要とする工場が現われてきた。
そして、生産手段と同様に、生産そのものも、一巡の個人的行為から一巡の社会的行為に変わり、生産物も、個々人の生産物から社会的生産物に変わった。
いまでは工場から出てくる糸・織物・金属商品は、大ぜいの労働者の共同の生産物であって、完成されるまでにつぎつぎにその手をとおってこなければならなかったのである。
労働者のうちのだれ一人として、こうした生産物について、〈これは私がつくった〉、〈これは私の生産物だ〉、と言うことはできないのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p137-138)
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◎「ブルジョアジーには、生産手段を個々人の生産手段からただ人間の総体によってしか使用できない社会的な生産手段に変えること、ただこのことによってだけ、あの限定された手段を強大な生産力に変えることができた」……産業革命の内実がみえます。
それのしてもフリードマンの「厳しい骨折り仕事に従事している人を発見することができるとすれば、大半の場合スポーツのためにやっている人でしかない」と。ひどいものです。