学習通信040619
◎仕事が「自分のもの」にならない……
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本気で目をしっかり見開いて
あなた方の中で、基礎科学の研究を一生かけてやろうという人がはたして一人いるのか二人いるのか知りません。基礎科学でなくても事情は同じだと思います。工学部で研究をやる、あるいは生物の研究をやる、脳の研究をやる、どの分野でもとても面白いものです。
自然というのは、われわれの思いもつかないようなことを隠しております。ただ、よほど本気になって目を見張らないと、面白いところが見えない。そこにあるのに見えないということが、よくあります。
どうぞ、自分のやっている仕事を本気で目をしっかり見開いて、なにが起きているのか、なにか予測とはずれたことが起きているのではなかろうかというのを、しっかり見取る目をやしなってください。それが私の、先輩として、あなた方に期待したいことです。
いちばん大事なことは
それからもう一つだけ。
私ね、アメリカのロチェスター大学に大学院学生として入学して、向こうで学位を取ったと言いましたけれども、アメリカで物理学の教育を受けたことで、一つだけ、よかったなと思うことがあります。
それは何かというと、日本では先生あるいは年上の人の言うこと、やったことが、たとえ間違っていると思っても、人前で、
「先生、それ、間違っていますよ」
という発言をしないのですね。
考えてみると、日本は昔から、たとえば、よその人に自分の子のことを紹介するときも、
「愚息です。うちの子はできが悪いです」
というかっこうで紹介するでしょ。
「うちの子は本当にいい子です」
と人に紹介する日本人は、あまりいないですね。そういう習慣がありますから、人前では先生の言うことが間違っても、はっきりそれを指摘しないという風潮があります。
ところが私がアメリカヘ行って最初に学んだことは、たとえノーベル賞をもらった先生でも、講演していて間違えると、若い大学院の学生が立ち上がって、
「先生、いまのは間違っているんじゃないですか。これこれこういう理由で先生はおかしい」
ということを平気で言うのです。言われた先生のほうも、
「まてよ、そうだったかな。うーん……そうだ。おまえのほうが正しい」 ということが平気で起こるのです。
私が日本に帰ってきて、国内でいろいろ学会がありました。そのとき私の教わった先生とか全国の先生が講演で間違えたことを私が指摘すると、大変なひんしゅくを買って、そのためにずいぶん困ったことがあります。
科学でいちばん大事なことは何でしょうか。
あの人は教授だから、あの人は博士だから、あの人の言うことに反対しないのだという態度をしていたら、科学は進まない。そういうのは別の問題です。本当かどうかということがいちばん大切なのです。
だから偉い人の話を聞いても、間違っていると思ったら、手をあげて、
「それは間違っている」
と、平気で言わないといけないのです(拍手)。
このくらいでよろしいですか(笑)。
じゃ、どうもありがとう(拍手)。
(小柴昌俊著「心に夢のタマゴを持とう」講談社文庫 p44-48)
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「基本」に気がつく
「写生文の重要」は、そのまま、「人に説明することの重要」を語る。それだけのことである。作家というのは、「文章で人になにかを説明する職業」なのだから、「語るべきことを相手の理解に届くように語る」は、作家の基本である。それができての「作家」で、「えらそうなことを言うから作家はえらい」ではないのである。
ところがしかし、いつの間にかそのことは困難になる。志賀直哉の時代は、「瓦の上に落ちて死んでいる蜂」を語るだけで「人生の比喩」にもなったが、そうそういつまでも「蜂の死骸」ばかり描写しているわけにもいかないからである。
人というものは、時々とんでもない誤解をする。「写生文の重要」だけを理解して、「なにを写生すれば、説明≠ニいう基本能力のアップにつながるのか」ということを考えつかないのである。「いまさら蜂の死骸≠描写しても……」と思って、リンゴやハチミツを窓辺に置いて写生文を書いてもしょうがない。
その後に、《窓辺に一つ残ったリンゴを見る事は淋しかった。然しそれは如何にも静かだった。》と続ければ志賀直哉になるが、それは志賀直哉がやればいいことで、そんな「写生文の勉強」と「説明=作家の基本能力のアップ」とは結びつかないのである。
「もう蜂ではない、リンゴでもない、ハチミツでもない。自分の生き方をあらわして仮託してくれるものはそうそうない」ということになってしまえば、「写生文は古い」になる。「写生するより自分の言いたいことを言う方が重要だ」と思えば、「対象を書く」を抜きにして、ただ「自分の思うままを書く」が作家の仕事の主流になる。
「これをよくご覧なさい、ここにはなにか重要なことが隠されていますよ」なんてことをやられても、「まだるっこしい」と思う人にはまだるっこしい。「そのこれをご覧なさい≠抜きにして、さっさと重要なこと≠セけ言ってください」が時代の主流になってしまえば、その先、「作家の基本」なんてものはどっかに行ってしまう。
「自分の思うことをそのまま書く」がOKになったら、その先には、「読み手≠ニいう相手を想定して、それに対して説明をする」という必要も見えなくなる。ところがしかし、「説明」は必要なのである。「人に対して語る」という能力は、「説明する」の能力と共にあるものだからである。
説明は必要である。「説明する」は、作家であることの基本である。私は「そうか……」と気がついた。「こんなわかりきったこと書かなきゃいけないのかよ!」と思う私の目の前にあった「編み方のプロセスを教える絵」は、「城崎温泉の旅館の陰にある蜂の巣」であり「そこでブンブン飛び回る蜂の姿」なのである。だからそれを、いやがらず、きちんと書かなければならない。私は、自分のことを「単調な説明が大っ嫌い」と考えていたが、実はそうではなかった。ただ「説明の必要」を理解しないでいただけなのである。
「セーターの本」を書く私は、「あー退屈だ」の中で、やっとその「必要」に気づく。「あ、これが俺の写生文だったわけね」と思って、その「必要」に気づいた私は、その後は文句も言わず、「単純な説明」を単純なまま、ただ黙々と続けることになるのである。
これが私の捕まえた「二羽目のウサギ」である。
困った人と困った時代
私が「セーターの本」を書くに至ったきっかけは、「作家として壁にぶつかっていた」である。当人はそれを、「活字離れ」という出版状況のせいだと解釈してしまうが、しかしこの作家は、「写生文の必要」をまったく理解していなかったのである。「壁」にぶつかっても不思議はないだろう。なにしろ、「そこに壁がありうる」という発想を平気で欠落させているからである。
昔だったら、こんな人間はさっさと活字の世界から消えていただろう。ところがしかし、今となっては、私のような人間は珍しくない。「就職するまで働く≠ニいうことを考えたことのない人間」なんか、いくらでもいるからである。
目標は「大学に行く」で、「大学に行けたら就職はできるはず」と考えていた若者達は、バブル以後の不況前まで、いくらでもいた。その「目標」を達成するためには、「したくもない勉強」や「好きでもない状況」に我慢をする──そして、「俺はこれだけ我慢したんだから、目標以後≠ヘ好きにさせろ」という図々しさが、いつの間にか育ってしまう。つまり、「就職する」までは頭にあるが、その先にある「働く」がまったく見えなくなるのである。
「働く」と「就職する」とがイコールになっているのだから、「就職できた俺に仕事ができるのは当たり前だ」という錯覚が宿る。結婚する≠ニ結婚生活を持続させる≠ヘまったく別だ」が常識となる前、多くの男女は、「結婚した以上、幸福な結婚生活は自動的に続く」と錯覚していたが、「就職した以上は仕事もできる」だって、それと同じ錯覚なのである。
「できるはず」と思い込んでいる人間が壁にぶつかると、厄介なことになる。「できる」と思い込んでいる人間は、「自分の無能」を理解せず、「自分を不適合にする状況が悪い」という、とんでもない判断をしてしまうからである。
仕事が「自分のもの」にならないのは、その仕事の中に隠されている「基本」が見えず、マスターできなくなっているからである。教えられた通りのことを教えられた通りにやっていたって、その先はない。薄っぺらな自分が薄っぺらに見た程度のことだけを「仕事」と勘違いしていたら、すぐに壁にぶつかってしまう。ただそればかりのことである。
その昔は、「まず基本」がその初めにあった。時代が進むにつれて、「基本」の上に厚い堆積物が積もった。「基本」が見えないまま、小器用な人間がテキトーにやれば、それでOKになった。そして、その二十世紀という便利な時代は、壁にぶつかるのである。「この自分のイージーさはなんかへんだなー」という自覚がない限り、その壁を越えるための「基本」は姿を現さないだろう。それくらいのシビアさはあるのである。
(橋本治著「「わからない」という方法」集英社新書 p140-144)
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本の読み方に二種類あるということ
これまで述べてきたことと深く関係ありそうな話が、内田義彦さんの『読書と社会科学』(岩波新書)に出てきます。本の読み方にはニ種類が──情報として読む読み方と、古典として読む読み方との二種類が──ある、というのです。
情報として読む読み方、というのは、必要な情報を得るために読む、という読み方です。
「情報」のなかには、アルバイト情報、暮らしの情報、投資にかんする情報、といったものもふくまれますし、学界情報、政界情報、労働組合運動情報、といったものもふくまれます。古典についても、必要な情報を求めて読むという場合がありえますし、そういう読み方が大事な意味をもつことがありうるのはいうまでもありません。
「ところが、これとはまったく違った本の読み方がある」と内田さんは書いていらっしゃいます。
「新しい情報を得るという意味では役立たないかもしれないが、情報を見る眼の構造を変え、情報の受けとり方、何がそもそも有益な情報か、有益なるものの考え方、求め方を──生き方をも含めて──変える。変えるといって悪ければ新しくする。新奇な情報は得られなくても、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景として身を囲み、せまってくる、というような読み=c…古くからの情報を、眼のも少し奥のところで受けとることによって、自分の眼の構造を変え、いままで眼に映っていた情報の受けとり方、つまりは生き方が変わる。そういうふうに読む読み方」−これが、内田さんのいう「古典として本を読む読み方」です。
このような、古典として本を読む読み方を忘れてはいけない、というのが、内田さんがそこで強調していらっしゃることです。「古典書をも含めて本を情報として℃謌オう合理的というか安易な風潮」が「このところ目立って強くなって」いる、と内田さんは警告していらっしゃいます。私も同感です。
このように警告しながら、同時にまた内田さんは、読書界におけるこのような「古典ばなれ」の傾向がある一方、暮らしの世界では情報誌をていねいに読んで、自分の暮らしと仕事ぶりをその読みのなかでふりかえってみるという──いわば情報誌を古典として読むという──新しい風潮も生じてきている、と指摘し、そのことのもつ意義を評価していらっしゃいます。
そして、そのうえでもう一度、次のように述べていらっしゃいます──
「本来いえば、こうした暮らしの情報を大切に読み深める操作は、古典書を正当に、古典として読む操作に習熟することでいっそう深められるはずと私は思うんですが、学界や読書界の風習がどうもそうなっていない。新旧さまざまな思想についての情報は、情報過多といっていいくらいあるけれども、さて、本は、どうすれば私の古典になるか、古典としての読み方如何ということになると、とたんに情報不足になる。
第一、小学校以来の教育が、一般に本を古典として深く読む態度と技術を教えるどころか、本とは合理的すなわち安直に読み捨てるべきものという観念と風習を身につけさせるように、事実上なっています。……」
同感です。「古典としての読書」と「考え方の学習」とは、内容的に深く結びついている、と思います。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p38-40)
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◎「なにが起きているのか、なにか予測とはずれたことが起きているのではなかろうかというのを、しっかり見取る目をやしなってください」と。
情報誌を古典として読む≠ニ古典を情報として読む=c…学習通信≠ヘどちらの読みをしていますか。