学習通信040620
◎言葉には常に、「権力性」がつきまといます。

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男らしく女らしく

 そうなると、あとはもちろんソフトの問題、つまり教育である。いまの状況を見ると、これにはいささか思い当たる節がないではない。

 いまの男子が元気がないという、身近な例を二つ挙げる。
 わが家には、ときどき学生たちがやってくる。平均して、十人中三人は男子である。あるとき学生一行が帰ってから、お手伝いのおばさんが私に尋ねた。なぜ女の子ばかり来るのですかねえ。いや、男の子もいたよ。あら、そうですか、いっこうに気づきませんでした。

 その大学に行く途中、今朝はタクシーに乗った。運転手は女性である。近ごろは女性の運転手さんが増えたねえ。そう会話の水を向けると、そうですよ、私は働き出して何年目です、と答えた。続いてこの女性との問答は、以下のとおり。

 中年の男の運転手さんたちは、どうでもいい、細かいことを、ずいぶん気にしてますねえ。私たち女性仲間では、まるでオバさんみたいねえ、と悪口をいってるんですよ。いちおう班長なんて決まりがあって、べつになにも実質は変わりはしないのに、班長になったら急に態度が変に堅くなったりして。

 運転手さん、それをいうなら「オバさんみたい」じゃあなくて、「オジさんみたい」というほうが、むしろ正確じゃないの。あら、そうですねえ。

 いったい、教育のどこを誤ったのか。かつては周知のように、男の子は男らしく、女の子は女らしくと育てた。これはもちろん封建的だというので、戦後はまったく人気がなくなった。しかし「しつけ」や教育というものは、もともと放っておけばそうなるものを、わざわざ教え込むものではなかろう。子どもを放っておいたら、そうはならないからこそ、わざわざしつけ、教育する。そうに決まっているではないか。

 もともと女の子は、放っておけば「元気で活発でよいお嬢さん」になってしまう。だから女らしく、おしとやかにと、しつけ、教育する。男の子を放置すれば「大人しくて、よく他人のいうことを聞く、よいお坊ちゃん」になる。だから男らしく勇敢に、元気であれとしつけ、かつ教育する。それが本来のしつけであり、教育であろう。

 長いあいだ、男らしく、女らしくと教育したのは、それが作られるもの、すなわち文化だったからである。それを生まれた性質そのままで伸ばそうとする。それにはわれわれの社会がよい実験台だったわけである。そのまま「自然に」育てた結果が、女がやたらに元気で、男がいっこうに元気がない社会になった。それはそれで結構だが、それはおそらく「文化的」ではない。そこにはなんの「手入れ」も存在しないからである。それはすなわち「自然そのまま」ではないか。

 わが国の文化的伝統とは、自然に対する手入れの思想だと、私は考えている。自然を放置すれば、アメリカ流の自然、つまり手付かずの自然となる。アメリカ人は考え方が極端だから、人の手がまったく入らない自然こそ、「真の自然」だと考える。

 しかし、人の手がまったく入らない自然とは、じつは人とは無関係の自然ではないか。そんなものは、あってもなくても、定義により人間とは関係がない。それなら、それについて考える必要すらないのである。

 私の考えでは、自然とは、人が意識的に作り出さなかったものである。その定義に従えば、われわれの身体は自然である。意識的に構築されたものではないからである。身体が自然であるからこそ、都市ではそれに「手を入れる」ことが自然への管理責任を果たすことだと見なされる。

 私の身体、すなわち裸体がいかなる様相を示そうと、それを私が意図的に設計したわけではない以上、その様相そのものについて、私は責任をとる必要などない。責任がとれるわけがない。しかし私がその自然を社会に露呈するなら、猥褻物陳列罪で逮捕されるであろう。その場合、私は自分の「身体という自然」について、その管理責任を問われているのである。その背景には、身体という自然は徹底的に隠蔽されなければならないという、都市社会の暗黙の要請が存在する。その隠蔽責任は私にある。

 これは屁理屈のようだが、かなり長年月のあいだ考えた挙げ句の果てに、私が得た結論である。どうせ私は、このていどのことしか、考えられないのである。したがって露出してかまわない部分は「手入れ」を要求される。だからこそ床屋があり、マニキュアがあり、最近では写真の陰画のような化粧があるのであろう。あの手の化粧を最初に見たとき、私はあれは写真をとるための化粧にちがいないと思ってしまった。そのネガを見れば、ふつうの顔に見えるはずだからである。

野蛮と文化

 ともあれこうして、男と女という問題は、いまでは文化ではなく、自然に戻った。実態がそうなったのである。それが純粋の自然自体になったとすれば、もはやそれを論じる必要すらない。定義により、純粋の自然とは、人とはかかおりがない中立の存在だからである。

 フェミニズムとはおそらく、徹底的な自然主義か、徹底的な人工主義とならざるを得ないであろう。徹底的な自然主義であれば、男女差を突き詰めた挙げ句の果てに、その差を純粋の自然として、つまりは人間世界の外に放逐する。俗に表現するなら、男女の違いなんて、ぜんぜん関係ないだろ、ということであろう。それが問題になること自体がおかしいんだよ、と。男女差が問題になること自体、まだそれが純粋の自然に還元されていないことを意味するからである。

 他方、徹底的な人工主義であれば、すべての差異を人工的に操作可能なものに変換しようとするであろう。問題があるなら、男女差を操作してしまえばいいのである。たとえばいまのところ男は妊娠不能だが、それなら人工子宮を完成すればいい。人工子宮でクローンを育てるなら、女性は要らない。それが可能になれば、自分の意志だけで子どもを持つことについて、はじめて男は「開放」されるであろう。女がギャアギャアいうなら、俺は自分だけで子どもを作るからいい。そう男がいうようになる。

 男に元気がないのは、この点も本質的に関係しているように思う。たとえば英国の進化学者リチャード・ドーキンスは「利己的遺伝子」説を主張した。個体は遺伝子の運搬手段に過ぎない、と。個体は滅びるが、遺伝子は永続すると考えたからである。そうした思潮が現れる世界では、男はさらに萎縮する。どう考えても、男はまさに遺伝子の運搬手段に過ぎないからである。女は遺伝子とともに、細胞質をも与える。

 ドーキンスが忘れたのは、永続するのはべつに遺伝子だけではない、ということである。十九世紀ドイツの病理学者ルドルフ・ウィルヒョウはいった。「すべての細胞は細胞から」と。この言明は二十世紀を通じて、破れることはなかった。細胞というシステムもまた、永続するのである。それを担うのは、卵子を持つ女性である。

 なぜ女が強いか、それはもはや自明であろう。免疫学者の多田富雄氏は喝破した。「男は現象だが、女は実体だ」と。しかし実体のみが力を持つ世界を、私は文化とは呼ばない。それはじつは野蛮な世界である。人間が裸で暮らすから野蛮なのではない。実体がロマンに優先する世界が野蛮なのである。金がすべて、力がすべてという世界が、つまり野蛮だということは、かつては常識だった。いまやその常識も疑わしい。女が強いのは喜ばしいことか、私に解答はない。(二〇〇〇年十二月)
(養老孟司著「「都市主義」の限界」中公叢書 p235-240)

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 言葉には常に、「権力性」(どちらが偉いか、偉くないかということ)がつきまといます。残念ながら、日本語は、まだまだ封建時代の名残を多く残していて、同じ内容を表現しても、男性が女性に対して言うときの方が、その逆よりも、あるいは年上の人が年下の人に言うときの方が、その逆よりも、説得力があり、正しい内容のように聞こえてしまう言語になっています。

 社会の急速な変化の中で、男女や年齢による言葉の差は薄れてきています。そして、それを乱れと感じる人も多くいます。また言葉には、ただ単に意味を伝える機能だけではなく、美しさや醜さ、その他の感情も伴いますから、変化に対して拒否反応を示す人が出てくるのも当然のことです。

 しかし、時代は否応なしに変化していきます。ならば私たちは、明治の人々が血の滲むような努力をして新しい日本語を作ったように、いま、新しい社会の到来の中で、人間として対等な関係に立った、新しい「対話」の言葉を作っていくべきなのではないでしょうか。
(「NHK 日本語なるほど塾 今月のゲスト 平田オリザ」日本放送出版協会 p22)

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女性の社会的平等が、いまや世界の共通課題になってきた

 次に、現在の世界と日本で、女性の権利確立、差別打破の運動がどこまで進んできたかを考えてみたい、と思います。

 まず世界です。
 法律上の平等という点では、二十世紀はたいへんな躍進を記録した時代でした。二十世紀のはじめには、女性が参政権をもっていたのは、国としては、ニュージーランド一国だけでした。しかしいまでは、世界中で、女性が参政権をもたない国はほとんど見当たりません。それだけの大変化が起きました。

 それにくわえて重要なことは、世界の大部分はまだ資本主義の段階にあるのに、エンゲルスが問題にした社会的平等の実現が、いまや世界的な課題になってきた、ということです。

 一九七九年、いまから二十三年前に、女性差別撤廃条約というものが、国連総会で採択されました。この条約のなかには、百二十年前に、女性の社会的平等のためにこれが必要だとエンゲルスが強調した目標が、国際条約の取り決めとして、うたわれているのです。

──子どもを育てることには、男も女も、社会全体がともに責任を負う必要がある。

──社会と家庭で、男が伝統的にになってきた役割を、女性の役割とあわせて変更することが、男女の完全な平等のためには必要である。

──親が家庭への責任(家事・育児)と、職業上の責任および社会活動への参加とを両立できるように、必要な社会的サービスの提供、たとえば保育施設のネットワークの設置などを、国が促進してゆく必要がある。

 こういうことが、条約のなかに、明文で書きこまれているのです。
 前にお話ししたように、エンゲルスは、そういう社会的仕組みの実現は、資本主義の段階では無理だろう、社会主義になってこそ見通しが開ける、という考えを述べていました。ところが、女性差別撤廃条約では、その課題が、すでに資本主義の段階で世界の共通課題として打ち出されるにいたったのです。

 私は、この条約が結ばれたとき、女性解放の運動が、社会の変革の運動を追い越した、そう言ってよいほどの意味があると思って、条約の内容を読みました。

日本では女性問題でも「ルールなき資本主義」の現実がある

 では、日本ではどうでしょう。日本でも、実際の生活のなかでは、いろいろな分野で、女性の活躍が目立つようになってきました。社会生活の各方面でもそうですし、スポーツでも女性が参加する種目が広がっています。こういう変化は、日本の社会の多くの方面で静かに進行しています。

 私は、それぞれの努力で女性の活動分野をさらに広げてゆくことと同時に、社会的な規模でそれを可能にする条件をかちとること、このことがいま非常に大事だと思っています。

 では、社会的な条件づくりというこの面で、日本の現状はどうでしょうか。率直に言って、日本は大変遅れているのです。

 私たちは、経済生活のいろいろな側面について、日本はヨーロッパにくらべても、国民の権利やくらしを守るルールが弱い、ルールなき資本主義≠セと言ってきましたが、女性の差別と平等の分野でも、同じ現実があります。

 日本も、一九八五年には女性差別撤廃条約を批准しました。法律の上では、いろいろな前進があります。しかし、そこでもテンポが遅いこと、つまり進歩のたどたどしさがあります。また、差別解消を、たとえば母性保護を切り捨てるロ実にするといった逆行的な現実もあります。

母となる女性の力と権利を尊重し、母性の保護の面で社会がその役割を果たすことは、人間社会が将来の世代にたいして負うべき重大な責任です。この責任を、「差別解消」の名によって投げ捨てるなどは、絶対にあってはならないことです。

 このような法律上の遅れや逆行とあわせて、社会の現実の立ち遅れには、さらにはなはだしいものがあります。
 みなさん。この問題で、女性差別に関連する多くの国際機関から、日本にどんな批判が寄せられているか、ご存じでしょうか。

 最近の八年間をとっても、女性差別撤廃委員会(一九九四年)、労働関係でのILO条約の専門委員会(一九九六年)、自由権規約委員会(一九九八年)などなどから、「日本では女性差別の問題が解決されていない」という批判が相次いで寄せられています。

 なかでも重要なのは、昨年(二〇〇一年)八月、国連の人権規約委員会が日本政府の報告を審査して発表した「最終見解」です。そこでは、次のように、日本の女性差別の現状について、根本的な「懸念」が表明されています。

──日本では、議会、公務部門、行政及び民間部門(つまり全部門ということです)で、女性を専門的な地位や政策決定にかかわる地位につけないという女性差別が広範にあり、また事実上の不平等が依然として存在していることに懸念を有する。

──日本では、同じ労働をしていても男女の賃金に事実上の不平等があること、また多くの企業では、女性には専門的な仕事に昇進する機会がほとんどないという雇用慣行が続いていることに懸念を有する。

 条約を批准して十何年たっても、日本では、条約の規定に反する女性差別が解決されないまま残っている、社会の全分野にある、こういう重大な批判が、国連の関連委員会から、こういう形で寄せられているのです。

 私は、ほかの国はどうかと思って、この委員会が他のサミット諸国についてのべた「見解」を調べてみました。そのなかには、いろいろな問題点を指摘されている国もありますが、それらは、個々の部分的な問題をとりあげての注意でした。日本のように、社会全体の根本問題として、正面からの批判を受けている国は、ほかにはないのです。

 ルールなき資本主義≠ニいうのは、女性差別の問題でも、まぎれもない日本の現実であります。

 そして私は、この現状を打開し、変えてゆくことは、女性だけの問題ではない、と思います。これは、日本社会全体の課題であって、この問題そのものが、男女共同で取り組まれるべきだということを、ここでとくに強調したいと思います。(大きな拍手)
(不破哲三著「ふたたび「科学の目」を語る」新日本出版社 p117-121)
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◎「母となる女性の力と権利を尊重し、母性の保護の面で社会がその役割を果たすことは、人間社会が将来の世代にたいして負うべき重大な責任です。この責任を、「差別解消」の名によって投げ捨てるなどは、絶対にあってはならないこと」と。

◎「もともと女の子は、放っておけば「元気で活発でよいお嬢さん」になってしまう。だから女らしく、おしとやかにと、しつけ、教育する。……そのまま「自然に」育てた結果が、女がやたらに元気で、男がいっこうに元気がない社会になった」……と。そしてこういう社会は「文化的」でないと。「バカの壁」の作者の言い分です。