学習通信040624
◎資本主義制度のくびきを投げすて……。
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真理の使徒としてのプロレタリアート
科学はその発生のはじめから深く生活とむすびついている。自然科学も社会科学も、われわれの生活目的をはなれては根本的にその意味をうしなうほかはない。ブルジョア階級は自然科学をその経済的生産力の発展のために尊重し、これによって自己を発展させてきたが、今やこの生産力が資本主義体制の下ではただ過剰生産の原因にすぎないというような時代となるに至っては、もはや彼らは平和産業のためにこれ以上の科学技術の発展をのぞむことができなくなる。
また社会科学にたいしても、彼らがのぞむところは現存社会秩序の維持と安全であるのに、今日の社会科学的真理はこの彼らの要求に必ずしも忠実にこたえようとはしない。彼らが社会科学にたいしてのぞむところは、資本主義は階級的搾取にあらず、労資は協調すべきであるというごとき理論、有色人種は白色人種に隷属してその保護をうくべきであるというごとき理論、また、資本主義の祖国をまもるためには軍備の無限の拡張も原爆使用もやむなしというごとき理論のみである。
つまり国民大衆や世界の植民地諸民族の理性をくらまし、その自由と解放への自覚とを妨害しこれをぎまんしごまかすことのできる虚偽の理論だけが、彼らの最後の支柱としてその生活目的に役だつというわけである。われわれが今日のいかなるブルジョア御用学者にたいしても、その一言一句をすら信用しえないのも決して偶然のことではない。
これに対して無産階級はブルジョア階級とは異なった生活目的をもって科学をもとめる。彼らは自己を貧乏から救いだすために、およびその被抑圧と被搾取との状態から自己の人間的自由を解放するために、また世界資本主義の植民地政策による隷属状態から脱して、真の独立と平和とをうちたてるために科学とその真理とを求める。
これがためにはブルジョア階級の思想善導用のごまかしの理論は何の役にも立たないばかりか、むしろその生活目的にもっとも有害な障害物にすぎないことをしる。彼らがその実践的目的を達成するためには、いかなるうそもごまかしもない客観的真理をしるのほかはない。
自然を征服するためには自然の科学的法則を認識して、これにしたがって行動するよりほかはないように、社会を変革して人民大衆の真実の幸福を創造するためには社会を動かす科学的法則を探求して、その原理にしたがって歴史的に実践するよりほかにみちはない。
つまりブルジョアジーが虚偽にたよるよりほかに生きるみちを失っているのにたいして、プロレタリアートは真理にたよるよりほかには自己を解放するいかなるみちも存在しないのである。
かくてブルジョアジーは真理をおそれ、現実をそのあるがままに正視してそこから当然生じ来る結論を見いだすことを拒否しようとするが、プロレタリアートは、この現実の正確な科学的分析によって、資本主義社会の必然的崩壊ということや、この崩壊過程の前後を通じて社会変革の主動力となり新しい社会を創造する中心エネルギーとなるものがほかならぬプロレタリアート自身であるということの必然性をしったとしても、それによって何らのおそれをも感じないばかりか、むしろ遂に無限の勇気の源泉と実践的生命の躍動を見いだす。
自然科学においても社会科学においても、これからの社会創造過程のなかにあって真理をおそれず、その担持者として強く行動的でありうるものが、プロレタリア階級であることは多言をまたずして明らかであろう。
かくて現代の社会にあって真理の学を学ぼうとするものにとって、何よりもさきに必要かくべからざる条件とたることは、彼らが自覚的に身をプロレタリアートの側におき、その真理探究の目的を明確に無産階級の解放という生活目的に従属せしめるということでなくてはならない。
もしそうでないならば、彼らは学問の課題そのものを正しくとらえることができないであろう。「真理のための真理」とか「学問のための学問」とかいうような、今日アカデミズムの世界になお残存するブルジョア自由主義の余影は、プロレタリアートの立場からは、払いのけられなければならない。
何となればかかる抽象的立場からでは、今日の歴史的課題が何であり、それぞれの学問の問題の焦点がどこにしぼられることによってその使命を果たしうるかが理解されず、単にそれぞれの学者の個人的趣味や偏向にしたがって、問題にもならぬ問題がとりあげられ、せっかくそれが解決されたとしても、時代には何の歴史的実践的意義もないスコラ的解釈におわるであろうからである。
このようなブルジョア科学はきわめて難解であるのが常であり、人々はそこにこの学問の「高遠さ」や「深遠さ」を感じ、「人間的教養をたかめるために」かかる学問の洗礼をうけることが、精神的知的に高貴な存在となるための必要な条件であるとさえ考えるようになる。
しかし現代のプロレタリアートにとっては、このようなことはおよそ何の意味もないことである。プロレタリアートは学問を単なる装飾のために学ぶいとまをもたない。わかりもしない観念の論理によって人を煙にまくようなことは、プロレタリアートにとってはまことに無用なことである。彼らにはもっともっとさしせまった現実の課題が生死の運命をもってその直前にせまっている。
実践をはなれて理論なし、プロレタリアートにとっては、理論はもはや単に抽象的な人間的教養をうるためでもなく、高貴な精神的存在として他人から仰がれるためでもなくて、彼ら自身の生活実践にとってなくてはならない指導原理をうるためである。観念論哲学は現実をさまざまに解釈することで満足するが、プロレタリアートは世界を変革するための理論的武装として唯物論哲学と科学とを要求する。
革命理論なくして革命的実践なし、理論はもはやいかなる装身具でもなくて、その生活の戦いになくてはならない最高の武器である。人は武器なしに素手で戦うことができないように、理論なしに盲目的に行動することはできない。
真理の大衆化
ところが、現代プロンタリアートの社会的実践におけるこの武器はだれか一人がもってさえいれば、他のものは非武装のままで戦えるというのではない。武器は前線にたつものの一人一人が残らずこれをたずさえるのでなくてはならない。
かかる意味において現代社会科学の真理は少数の指導者だけの独占物となってはならず、どこまでも全人民大衆の共同財産として大衆の間にひろく所有されるのでなければならぬ。かくてさきにものべたように「理論はそれが大衆を把握するや否や物質力となる」──真理が大衆をつかみ、大衆が真理をつかむ、ただその時にのみプロレタリアートは歴史を動かす物質力として現実的エネルギーを獲得する。
プロレタリアートは世界の心臓であり、哲学は歴史の頭脳である。心臓は頭脳によってその方向が規定されるのでなければならぬ。頭脳は心臓によってその生命力を現実化するのでなければならぬ。今までのアカデミズム哲学のような孤高をほこる学問は、もはや歴史を規定する力として現実的エネルギーをもつことはできない。
真理はあくまでも生活の真理、街頭の真理として、生き生きと無産者大衆の行動を支配するところまで社会化されるのでなければならない。かくのごときことは従来の観念論の立場からは真理の卑俗化、浅薄化として、軽べつの対象とさえなったかもしれない「彼らはむしろ何人もが理解しえざる難解の真理をひとり独占するところに、学者としての、知識人としての特権的な誇りをすら感じていたのである。しかしそのような真理は実は高閣に死蔵された真理の形骸にすぎない。
生きた真理はむしろ現実の生活のなかに動いている。かかる真理は有閑階級が書籍の山のなかで探しもとめられるものではなく、むしろ生活の現実の苦悩と闘うプロレタリアートの実践的経験を媒介として、きわめて生き生きとした姿においてつかみとられる。唯物弁証法がアカデミズム学者にはついに理解されず、きべんの論理のごとくにしかうけとられないのにたいして、労働者階級の間には一点の疑惑もなくうけとられてゆく、それは決して偶然のことではない。
ここに労働者階級の大衆的学習運動の重大な歴史的意義がある。ベーコソが「知識は力なり」といったあの有名なことばは、今日労働者階級の社会科学的知識の学習にたいしても、新しい歴史的意義をもつものとして新しくよみがえりつつある。真実の知識によって武装された労働者のみが百折不撓(ひゃくせつふとう)の勇気と行動力とをもつ。
知見による明確な洞察力のみが、時代の暗さにたえて最後まで闘いぬく唯一の力の源泉である。権力に屈服して節をまげ転向して自ら敵陣営の列に身を投ずるごとき輩は、いずれも夜のくらさに迷わされて暁の近きをしることのできない人たちである。「里はまだ夜深し富士の朝ぼらけ」──地球上全人口の三分の一はすでに夜のやみを破って新しい暁の光をうけつつある。残りの三分の二も、もはや刻々を争う時の問題となっている。
今日の世界情勢を科学の光にてらして正しく知るものは、資本主義のファッショ化狂暴化が彼らの強さの表現ではなくて、むしろ明らかに弱さの表現であり、死に直面するものの最後のあがきにすぎないことを認識している。今こそ世界の人民、被抑圧階級と被抑圧民族のたちあがるべきときである。弁証法的唯物論の哲学は、その行動の指針として働くもの万人のものとなるのでなければならぬ。今日ほど労働者に哲学の必要が深く切実にせまっているときはいまだかつてないのである。
(柳田謙十郎著作集第8巻「人生論」創文社 p241-245)
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現代の社会科学近代労働者の新しい階級を発見したことの意義はどこにあるのだろうか。それはけっして、現代の科学的思考が、社会の中の抑圧された、「貧しき人々」にたいして、ヒューマニズム的に接近する道を見出した、ということにあるのではないだろう。
レーニンは「マルクスの学説の主要なものは、社会主義社会の創造者となるプロレタリアートの世界史的役割を解明したことにある」とのべている。労働者階級とは、資本主義社会の中で、搾取され、抑圧され、貧苦になやんでいる人々の集団、というだけの意味ではない。
労働者階級とは、資本主義的生産、とくに資本主義的大工業によって、「つくりだされ、組織され、結集され、教育され、啓蒙され、きたえられた、特定の歴史的階級である」。このようにしてきたえられた特定の歴史的階級であるプロレタリアートが、資本主義制度のくびきを投げすて、抑圧されたプロレタリア(このラテン語は、古代ローマの最下層細民をあらわす)であることをやめるとともに、その他の被搾取、被圧迫の勤労者大衆の解放をも同時になしとげ、社会をいっそう高次の合理的な社会経済構成にみちびいてゆくのである。
現代史の客観的な過程、地球上のあらゆる地域でおきている重要な事件のひとつひとつは、そこに、ほとんど例外なしに、現代の労働者階級の、政治的、思想的、経済的な影響力がますます大きくはたらいていることを示している。今日資本主義のくびきのもとで、単に、生活をまもるためにはたらき、苦しみ、悩み、たたかい、動揺しているだけにみえる労働者階級も、明日は勤労者大衆の先頭に立って、社会進歩の道を切りひらいてゆく有能で誠実な、推進的な力であることを示すだろう。そのことを理解しなければ、現代の歴史的過程の本質に近づくことはできない。
現代史を客観的にみると、その主要な内容は、資本家階級が生産手段を所有し、社会の支配階級になっている資本主義社会から、労働者階級がその他の勤労者とともに生産手段を所有し、支配階級として国家を指導する社会主義社会への移行にある、ということがあきらかになる。労働者階級の先頭部隊は、すでに、人間による人間の搾取を廃止し、階級のない美しい未来にむかって大きな歩みをすすめて、いるのである。
だが、もしそうだとすれば、労働者階級の急速な成長、階級的な成熟と、労働者階級の物質的・経済的状態との間に、どんな問題、どんな相互作用があるのか、という問題がわれわれの前に、新しく大きな意義をもって、提起されるわけである。
少くとも、われわれは、労働者階級の物質的状態が、資本主義社会の基本的な矛盾をあらわす指標であるとともに、資本主義の「墓ほり人」としての労働者階級の形成、その人口比率と勢力のたえざる増大、および革命的成熟のための現実的な土台であることを、考えていなければならぬであろう。
(堀江正規著「日本の労働者階級」岩波新書 p5-6)
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◎労働者の学習運動……その意義は今日にもつづいています。
京都学習会館の2F教室には、柳田先生から開館を祝って「学而闘 闘而学」の額が掛けられています。