学習通信040626
◎「思想は石鹸のようには使えません」……資本論を読もう。

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 人類の遺産とマルクス

 12月号の会計特集を読んで、アメリカ型株式資本主義、「投機家のための会計」ではなく、労働者とともに歩む会計の必要を感じた。角瀬氏のインタビューから、『資本論』など人類の知的遺産から学びつづけようという会計学者がアメリカにもいることを知り、たのもしく思った。批判的精神というとき、角瀬氏がいう「マルクスやレーニンの言説に依拠すれば解けるということはありませんが、彼らが資本主義と向き合い格闘した遺産から学ぶ」ことがどれだけ大切なことか。

いまどきマルクスやレーニンを読むのははやらない。ましてそんな理論を根拠にする党は枯れていく≠ニ言う人がいる。でも、そんな人は一度でも『資本論』を読んだことがあるのだろうか。アインシュタインの本を読んでしょうもないことを論じている≠ニ、理性ある人はいわない。

理性ある人ならば『資本論』を読んですごい分析だ≠ニなるだろう。マルクスたちを枯れ木扱いする人は、結局のところ、″人類の知的遺産なんてどうでもいい、もうけのたしにならない≠ニいってるように聞こえる。(大阪・荒木亨・62)
(月刊「経済」04年1月号 読者の声 p182)

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 自分を発見するために古典を読む

 たとえば日本を理解するために、論語と仏教の経典、日本の古典文学のいくつか、また西洋を理解するために聖書とプラトンを、できるだけおそく読むことが、おそらく「急がば回れ」の理にかない、「読書百遍」の祖先の知恵を今日に生かす道にも通じるだろうと思われます。しかし、そもそも日本を理解し、世界を理解する必要があるのでしょうか。できるならば、それに越したことはありません。

しかし私は、かならずしも、それが人生のいちばん大事なことであるかどうかは、疑わしいと思います。たとえば、論語、仏典、聖書、プラトンーいくらそれをゆっくり読んでみても、その四つをほんとうに自分のものにすることは、おそらくだれにもむずかしいのではないでしょうか。

 この世の中に生きていれば、私たちのひとりひとりが考え悩むこともあり、どうしても解きたいと思う問題もあります。あるときには、その大きな問題を忘れるように努め、あるときには、それにもかかわらず、その問題につきあたりながら、なんとか暮らしつづけているのが人生でしょう。その私たちがつきあたっている問題、考えあぐねている事柄は、人によって違います。

そのことと関連して、論語はそれなりに、仏典はそれなりに、また聖書やプラトンもそれなりに、答えを与えてくれるかもしれませんし、与えてくれないかもしれません。しかし、その四つの本は、手あたりしだいに並んでいるのではなく、こちら側の問題の性質によって、四つのなかの特別な一つが、他の三つよりも、おそらく、その問題を考えるうえには役立つだろうと感じられる場合が少なくないでしょう。

自分の問題がこうであり、そのことについては、この古典が役立ちそうだという予感があり、したがってそれを読む、自分の体験と照らしあわせながら、ゆっくり、たぶん繰り返して読む、という古典の読み方もあるはずです。その場合には、その古典が日本の思想史、または世界の思想史を理解するうえに、大切であるかないかということは、どっちでもよいことになりましょう。

たとえば、愛する者を失った悲しみとか、人生今後の方針について大きな岐路に立って迷っているとか、あるいは生きていることが無意味に見えてはりあいを感じられなくなったとか、それぞれの場合に応じて古典を読めば、それが道をひらくきっかけになるかもしれません。そういう期待をもって本を読む、これが古典の読み方のほんとうの筋かもしれません。なぜなら、およそ本を読むときには、だれでもその本のなかに自分を読むものだからです。

思想は石鹸のようには使えません

 はじめに「読書は旅に似ている」といいました。旅から帰ってきた人の話を聞いてごらんなさい。同じ北海道へ行っても、同じ九州へ行っても、行った人によってその印象は違うでしょう。見た人それぞれの性格が、その旅先での印象にはっきりと出ているからです。どこへ行っても、人は自分を発見します。

同じように、どんな本を読んでも、人はみな自分をその中に発見するのです。読む側であらかじめ切実な問題を自分自身のなかに持っていて、しかも、その問題が同時に、読む本の問題であるという場合でなければ、そもそも書物をほんとうに理解することができるかどうか疑わしい。聖書を理解するためには、それが西洋史のなかで、歴史的に見て大事な書物であるという知識だけでは足りません。

おそらく、そういう知識は読みはじめる動機にはなるかもしれないけれども、ほんとうに聖書を理解するためには、まったく役に立たないかもしれません。しかし家族を失ったあとで、ただひとり、どうして生きてゆこうか、どんな心のよりどころがあるだろうかということを捜し求めているときに、聖書に近づいてゆくとすれば、なんとかして道を捜そうとするその気持は、理解の大きな助けになるでしょう。

 私は、ゆっくり読むことのできる古典として、たとえば、論語と聖書とプラトンと仏典を数えましたが、それはけっしてそのすべてを読むことが望ましいという意味ではありません。そのなかのどれか一つを読むことのほうが、おそらくその四つを一通り試みるより、はるかに適切でしょう。その結果は、一面的な考え方にかたむくかもしれません。しかし一面的でないどんな深い思想もなかったのです。

たとえばキリスト自身は極端に一面的でした。おそらく、孔子もそうだったでしょう。そうでなければ、孔子が反政府運動の疑いで国外追放の憂き目にあい、荒野を放浪すること何年にも及ぶというような事態は起こらなかったはずです。肌ざわりがよく、だれにも便利な石鹸というものはありますが、円満でだれにも便利な思想というものは、いままでにもなかったし、いまでもないし、また将来もないでしょう。それが石鹸と思想の違いです。

 世界を知るための最小限の条件

 しかし古典というものは、なにも二千年以上も前の本でなければいけないというわけではありません。もう少し新しい本が古典であってもいっこうにさしつかえない。現に世界の人口のたいへん大きな部分は、比較的最近の本を古典として扱っていました。

私が言いたいのは、マルクス(一八一八―八三)とエングルス(一八二〇−九五)とレーニン(一八七〇ー一九二四)の書いた本のことです。二〇世紀の世界は長い間二つに分かれ、その一方が「自由な」資本主義世界で、他方が「民主的な」社会主義的世界ということになっていました。

その、それぞれの世界の頭にどういう形容詞をつけるかは、趣味の問題で、ロの悪い人は、たとえば「好戦的で腐敗し、近いうちに自滅するであろう」資本主義世界というでしょうし、また「神なく自由なき悲惨な」社会主義世界ということでしょう。

しかし、大切なことは、どういう形容詞を選ぶかということではなくて、世界が二つに(または、いわゆる中立国を含めて三つに)分かれていたということであり、その一方の世界のなかでは、一九世紀に書かれたマルクス・エンゲルスの本が古典として通用していたということです。その事実を無視すると、世の中の根本のことがわかりにくくなってきます。

もし、いま私たちが生きている世界の全体を、あまり大きな偏見なしに、あまり大きな誤解もなしに、どうにかわかろうと思えば、最小限度の条件の一つとして、少なくともマルクスの本のなかで大切な部分を、いくらかていねいに読んでみることが必要だろうということになります。そういう必要が、二つに分かれていた世界のこちら側、つまり社会主義ではなかった側にあるのです。そして、その必要をみたすために、私たちの日本はたいへん便利な国であるといってよいようです。

 第一に、まだ社会主義国が一つしかなくて、しかもそれほど強大でなかった第一次大戦のころから、早くも日本ではマルクスの本が紹介され、翻訳され、研究されてきました。マルクスの全集をはじめ、その系統の学者の本がたくさん翻訳されて、それを日本語で読むことができるようになっていたのです。

けれども、それを読むことは、明治憲法と治安維持法の下では、おまわりさんにつけまわされ、時と場合によっては牢屋にぶちこまれ、踏んだり蹴ったりされる危険を意味しました。

しかし、第二次大戦のあとで、明治憲法が廃止され、いまの憲法ができました。また憲法の人権尊重の趣旨にのっとって、治安維持法も廃止されましたから、いまでは、だれがどんな本を読んでも、それだけでおまわりさんにつけまわされるはずはないということになっています。

 これは私たちが日本人として世界を客観的に公平に理解してゆくために大切なことの一つでしょう。とにかくマルクスの本、またマルクスはたびたびエンゲルスといっしょに書いたから、その二人の書いた本、また、そのあとでレーニンの書いたいくつかの本、そういうものも、これは百ぺん読まなければ意味の通じないほどむずかしいものではないけれども、できるだけおそく読むべき本のなかにはいるのではないかと思います。
(加藤周一著「読書術」岩波現代文庫 p50-56)

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 すぐれた読者になるためには、本にせよ、論文にせよ、無差別に読んでいたのではいけない。楽に読める本ばかり読んでいたのでは、読者としては成長しないだろう。自分の力以上の難解な本に取り組まねばならない。こういう本こそ読者の心を広く豊かにしてくれるのである。心が豊かにならなければ学んだとは言えない。

 こういうわけで、単によく読む能力だけでなく、読書能力を向上させてくれるような本を見きわめる目を養うことが、とくに大事になってくる。読んで楽しい本も暇つぶしにはいいが、娯楽以上のものを期待することはできない。娯楽書がいけないわけではないが、そういうものは読書技術を向上させてはくれない。情報を伝えるだけの本もまた理解を深めるのに役立つとは言えない。この種の本は読者を情報通にはしてくれるが、心を本当に豊かにし、読者を向上させてくれはしない。読書技術の向上にも役立たない。

 何度も言ったが、すぐれた読者は、自分に多くを求め積極的に努力して読むものだ。いや、むしろ、読書、とくに分析読書に値するような本は、読者に多くを求めるものである。このような本は、はじめは自分には手に負えないと思えるかもしれないが、気おくれすることはない。この読書法の効果を、ただちに期待するのは無理だとしても、いままで述べたきまりを適用してもなお理解することのできない本など、まずないと考えられるからだ。どんなにすぐれた読者にも、精神を啓発してくれる本はあるはずである。こういうものこそ、さがし求めて読むにふさわしい本である。

 読書術の習得に適した本といえば、自分になじみのない分野の本のことだと思い違いをする読者もいるようだ。それも、科学書、哲学書に限られると思いこんでいる人も多い。すぐれた科学書は、たしかに読みやすい。科学書の場合は、折り合いをつけ、名辞、命題、論証を見きわめやすいように、著者が手を貸すのがふつうである。詩人は読者に対してこういうサービスはしないから、詩を読む読者の負担は大きく、理解もむずかしい。ニュートンより、ホメロスの方がはるかに理解しにくい。ホメロスの主題は、そもそも書きあらわすことが困難なものだからである。

 こういうむずかしさは、悪い本を読むときのむずかしさとはまったく違う。悪い本は、内容をとらえたかと思うそばから指のあいだをすり抜けてしまい、とても分析に耐えるものではない。悪い本には、とらえるに値する内容などないから、分析すること自体が無駄なのである。

 すぐれた書物ほど、読者の努力に応えてくれる。むずかしいすぐれた本は読書術を進歩させてくれ、世界や読者自身について多くを教えてくれるからである。単に知識をふやすだけの、情報を伝える本とは違って、読者にとってむずかしいすぐれた本は、永遠の真実を深く認識できるようになるという意味で読者を賢くしてくれる。

 ところで、人生には一朝一タには解決できない永遠の問題もいくつかある。男と女、親と子、人間と神というような、人間と人間、または外界との関係についての問題である。また科学や哲学には自然とその法則、また存在や生成の問題がある。すぐれた書物は、このような永遠の問題を考えるときのよい手引きとなるものである。それは、こういう問題に対する深い思索によって支えられているからである。

 本のピラミッド

 西欧に限っても、これまでに出版された本の数は数百万冊に達する。だが、その大部分が、読書の技術を磨くのにふさわしい本とは言えない。誇張に聞こえるかもしれないが、実際、九十九パーセントまではそういう本だと言っても過言ではない。つまり大部分の本は娯楽または情報のための本である。娯楽や情報もけっこうだが、ただこの種の書物は、何かを教えてくれるものではないから、拾い読みだけで十分である。

 だが、本当に読書法や人間の生きかたを教えてくれるような本もたしかにある。一〇〇冊に一冊、いや一万冊に一冊しかないかもしれないが、著者が精魂こめて書いたすぐれた本である。人間の永遠の問題に関する重要な洞察を与えてくれる本である。おそらく、こういう本は、全部合わせても二、三千冊にも満たないだろう。こういうものこそ、読者に多くを求める本で、一度は分析読書を試みるに値するものである。読書技術を心得ていれば、一度熟読するだけで、その本が与えてくれるものを残らず吸収することもできるだろう。こういう場合は再読の必要はないから、読書を終えて本棚におさめておけばよいわけである。

 再読の必要がないということは、本を読んでいるときの感じでわかるものだ。その本を読むことによって精神が向上し、理解が深まるにつれて、その本から吸収するものはもうないということが、勘でわかるのである。

 読むに値する数千冊のうち、本当に分析読書に値する正真正銘の良書となると、一〇〇冊にも満たないだろう。最高の読書術を駆使しても、完全には理解できないような本である。精いっぱい取り組んでも、何かまだ自分に読みとることのできなかったものが残っているような気がする本である。このときも、まだここでは、気がするとしか言いようがない。何かあるらしいという気がするだけなのである。そして、そのことがいつまでも頭のどこかにひっかかって、もう一度読み直したとき不思議なことに気づくのである。

 二流の本は、再読したとき、奇妙に色あせてみえるものである。それは、読者の方がいつの間にか成長し、本の背丈を追いこしてしまったのである。精神が啓発され理解が深まったのである。変わったのは本ではなく、読者の方である。本とこういう再会をすると、失望を味わうのはやむを得ない。

 もっとすぐれた本の場合は、再会したとき、本もまた読者とともに成長したようにみえるものだ。読者は前には気づかなかった、まったく新しい事実を数多く発見する。これは最初の読みかたが悪かったのではなく、最初に見すごしていた別の真実が見えてきたのである。最初の読書で発見した事実は、読み返しても、やはり真実であることに変わりはない。

 本が読者とともに成長するなどということは、もちろんあり得ないことである。本というものはいったん書いて出版されてしまえば、変わることはない。しかし読者の理解を上回るすぐれた本は、読者にはなかなか乗りこえることができないものであり、またそういう本には、読者の能力に応じた読みかたというものがある。

したがって、再読によって読みが深まることもあり得るのである。本が読者をそこまで引き上げたと言ってもよいだろう。すぐれた本には賢くなった読者をさらに向上させるだけのものがあるから、おそらく読者は一生のあいだ、その本を読むことによって成長していくことになるだろう。

 だが、さきにも述べたように、読者をどこまでも成長させてくれる本は、それほど多いものではない。せいぜい一〇〇冊にも満たないだろう。人によっては、そういうものは、もっと限られた少数の本になるだろう。たとえば、再読の必要もないほどニュートンに精通しているか、あるいは逆に、数学的なものの考えかたにあまり関心がなければ、ニュートンよりはシェイクスピアの方に心ひかれるだろう。しかし、数学的なものの考えかたに関心があるなら、シェイクスピアではなく、ニュートンがその読者の座右の書に加えられるだろう。

 生きることと精神の成長

 いまたったひとり無人島に流されることになって、もっていきたい本を十冊選べと言われたら、いったい何を選ぶだろうか。これはひと昔前に流行した一つのテストである。

 この選択は、自分にとって何度も読み返したい本は何か、ということをあらためて考えさせてくれる興味深いテストである。さらにまた、これは、娯楽、情報、知識から完全に隔離されたとき、人間はどういうふうに生きるものなのか、そういう状態におかれたとき、自分がどうするだろうかということをよく考えてみるきっかけにもなる。とにかく、ラジオもテレビも図書館もない無人島に、あるのは十冊の本だけなのだから。

 こういう状況設定そのものが、いかにも非現実的で、つまらないことのように思われる。だが、果たしてこれは、それほど現実離れした設定と言えるだろうか。われわれはみな、多かれ少なかれ孤島に流された人間である。自分の内なる可能性をどこまで引き出し、よく生きられるかという点では、無人島にいるのと少しも変わらないのである。

 ところで、人間の精神には一つ不思議なはたらきがある。それはどこまでも成長しつづけることである。このことは、肉体と精神のきわだった違いである。肉体にはさまざまの限界があるが、精神に限界はない。人間の肉体は、ふつう三十歳位をピークにしだいに下降線をたどるものだが、精神は、ある年齢を境に成長が止まるということはない。老衰で脳が衰えたときはじめて、精神の活動も低下する。

 精神の成長は人間の偉大な特質であり、ホモ・サピエンスと他の動物とが大きく違っているのもこの点である。動物にはこのような精神の成長はみられない。だが人間にだけ与えられたこのすぐれた精神も、筋肉と同じで、使わないと萎縮してしまうおそれがある。精神の鍛錬を怠ると、精神萎縮≠ニいう代償が待っている。

それは精神の死滅を意味する恐ろしい病である。多忙な生活を送っていた人が、引退すると急に衰えがくることが多いのもこのためである。仕事一筋に生きてきたが、それは外側から人為的に支えられていたのである。その支えがなくなると、自分の中に精神的な貯えのない人は思考することをまったくやめ、やがて死がはじまる。

 われわれのまわりにあるテレビ、ラジオをはじめ、さまざまの娯楽や情報源も、すべて人為的な突っかい棒にすぎない。このような外からの刺激に反応していると、自分の精神も活動しているような錯覚におちいる。だが、外部からの刺激は麻薬と同じで、やがて効力を失い、人間の精神を麻痺させてしまうのだ。自分の中に精神的な貯えをもたなければ、知的にも、道徳的にも、精神的にも、われわれの成長は止まってしまう。そのとき、われわれの死がはじまるのである。

 積極的な読書は、それ自体価値のあるものであり、それが仕事のうえの成功につながることもあるだろう。しかしそれだけのものではない。すぐれた読書とは、われわれを励まし、どこまでも成長させてくれるものなのである。
(M.J.アドラー C.V.ドーレン著「本を読む本」講談社文庫 p247-255)
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「わたしのようなものでも、よめるでしょうか」

よむ気さえあれば、だれにでもよめる

 この表記のような問いかけをときどきうけます。表現はまことにひかえめなのですが、口調とか顔付きとかとなると、思いつめたようなものがあるということになっていることが多いようです。婦人からのことが多いということになっています。

 「わたしのようなものでも」というのは、全く余計なことではないでしょうか。本というものは、字がよめて、よもうとする意志さえあれば、どんな人にでもよめるものでしょう。その点では人はすべてイーヴン(同等)です。『資本論』のことでいえば、問題は「むつかしくみえる」という点だけです。全くわかりにくいような、そういうむつかしさではなくて、慣れていないことからくる問題です。

 つまりむつかしいかやさしいかということと、わかるかわからないかということとは、別の問題だということです。『資本論』は必ずわかります。なぜなら、わたしたちが現に生きいる世界、商品の世界、貨幣の世界、資本の世界のことが書かれてあるからです。全く知らない世界のことが書かれているわけではありません。

 必ずわかるという絶対の確信をもってのぞんで下さい。もしわからなければ、くりかえしてみるなり、助けを求めるなりして下さい。必ずわかります。そしてわかったときにおぼえる『資本論』の深さへの感動は、はかりしれないものがあります。その感動がどうもよわいということでしたら、それはよみ方、くりかえし方がまだ足らないということだと思っておいて下さい。頭の良し悪しとは別のことです。

 そしてわかってくるにしたがって、『資本論』の「むつかしさ」への評価がかわってきます。

これはむつかしいのではないのだ、マルクスはむつかしく書いたのではないのだ、もっとも必要なこと──つまり本質的なことを、ぜい肉をこそぎおとして、余計なことを言わずに、妥協することなく、ここに書いておこうということで書いたのだ、なるほどこのとおりだ、これこそが本当のことだ、むつかしいと思っていたのは、自分のつかみ方が表面的だったからだ、表面でばかりものをつかませようとするマスコミなどの作用に、かぶれていた、その「祟り」のようなものだったのだ、卑俗というのは人を高くしないのだ、卑俗というのは人を高めることにはならないのだというようなことになっていきます。

自分の精神が高揚していくのをおぼえることでしょう。学ぶよろこびというものの本当の味を知ることになるでしょう。思わず立ち上がって「やったあ」と叫びたくなることがあります。きっとあります。

 科学というものは、人間の理性──考える力の、その時点での最高の所産の一つです。人間社会に関する今日までの科学の最高峰の一つが『資本論』です。『資本論』を学べば学ぶほど、本当の社会科学の本当の深さを思い知る過程がすすんでいきます。それとともに考える力をもった存在としての自分たち人間の知ることのできる、本当のよろこび、しあわせをおぼえることになるでしょう。自分が本当の人間へむかっていることを感じるでしょう。

 わたしたちは、すこしでも『資本論』を本当に知るところまで近づこうとしないで、社会にかかわって生きるというのは、社会への働きかけにある本当のよろこび、いやむしろ最高のよろこびの一つを知らないままでいることになるのではないかと思えてなりません。
(吉井清文著「どうやって「資本論」をよんでいくか」清風堂書店 p27-30)

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◎「むつかしいと思っていたのは、自分のつかみ方が表面的だったからだ、表面でばかりものをつかませようとするマスコミなどの作用に、かぶれていた、その「祟り」のようなものだ」と。