学習通信040627
◎資本主義……
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資本主義的生産様式は、もうその始まりからこれに内在している矛盾の、この二つの現象形態のなかを運動している。すでにフーリエがこの生産様式について発見したあの「悪循環」を描くのであって、それはここから抜けだすことができない。もっとも、フーリエには当時まだ看取できないことがあった。
それは、〈この循環はしだいにせばまっていく〉、ということ、〈この運動は、むしろ一つの螺旋を描くものであって、惑星たちの運動のように、ついにはその中心体との衝突で終わりを告げずにはすまない〉、ということであった。
生産の社会的無政府状態という推進力のせいで、大多数の人間がますますプロレタリアに変わるのであり、そして、やはりこのプロレタリア大衆が、この生産の無政府状態をついに終わらせるであろう。
生産の社会的無政府状態というこの推進力が、大工業の機械の限りなく改良されていく能力を、それぞれの産業資本家にとっての、〈没落したくなければ、君の機械の改良をますます推し進めよ〉、という強制命令に変えるのである。
しかし、機械を改良するということは、とりもなおさず、人間労働を要らなくするということである。
機械が導入されふやされるということは、数百万人の手作業労働者が少数の機械労働者に駆逐されることを意味するが、その機械が改良されるということは、機械労働者自身がますます駆逐されていくことを意味し、結局は、資本の平均的な雇用需要を超える或る数の自由に利用できる賃金労働者──私がすでに一八四五年に使った名前で言えば、或る完全な〈産業予備軍〉──がつくりだされることを意味する。
この産業予備軍は、産業が大車輪で仕事をする時期には自由に利用でき、続いて必ずやってくる恐慌によって街頭にほうりだされるのである。それは、労働者階級の資本との生存闘争においてつねにその足にまとわりつく鉛の錘(おもり)であり、労賃を資本家の必要=欲求にかなった低い水準に抑えるための調節器である。
そこで、〈機械が、マルクスのことばを借りて言えば、労働者階級とたたかうための資本の最も強力な武器となり、労働手段が、労働者の手から絶えず生活手段をたたき落とし、労働者自身の生産物が、労働者を隷属させるための道具に変わる〉、ということになるのである。
その結果は、〈労働手段における節約が、はじめから、同時に労働力のまったく容赦のない浪費となり、労働の機能の正常な諸前提の強奪となる〉、ということであり、〈労働時間を短縮するための最も強力な手段である機械が、労働者とその家族との全生涯を資本の価値増殖のために利用できる労働時間に変えるための、最も確実な手段に急転する〉、ということである。
こうして、〈或る人びとの過度の労働が他の人びとの失業の前提となり、新しい消費者を求めて全地球上を駆けめぐる大工業が、国内では大衆の消費を飢餓的な最低限に制限し、それによって自分の国内市場を掘リくずす〉、ということになる。
「相対的過剰人口または産業予備軍を資本蓄積の範囲と活力とに絶えず均衡させる法則のために、労働者は、ヘファイストスの楔(くさび)がプロメテウスを岩に固定したよりもしっかり資本に固定される。この法則は、資本の蓄積に見あった貧困の蓄積を引き起こす。
一方の極での富の蓄積は、つまり、同時に、反対の極での、すなわち、自分自身の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困・労働苦・奴隷状態・無知・野獣化・道徳的堕落の蓄積なのである」。
そして、資本主義的生産様式に生産物のこれとは別の分配の仕方を期待することは、或る電池の電極が電池とつながれているあいだ、〈この電極に水を分解させないように、陽極に酸素を、陰極に水素を、発生させないように〉、と要求するようなものである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p146-148)
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さきにあげた工業の三つの基本的形態は、なによりもまず、技術構造の相違によって区別される。小商品生産は、太古からほとんど不変のままであった、まったく原始的な手工的技術を特徴としている。
営業者は依然として農民であって、彼らは原料の加工方法を伝統によって踏襲している。マニュファクチュアは、分業をもちこむが、この分業は、技術の本質的な変革をもたらし、農民を職人に、「部分労働者」に転化させる。しかし、手工的生産は依然として存続している。
そしてそれを土台としているかぎり、不可避的に、生産様式の進歩は非常に緩慢なことを特徴とする。分業は自然発生的に作りあげられ、農民の仕事と同じように、伝統によって踏襲される。
機械制大工業だけが根本的な変化をもたらし、手工的技巧を投げすてて、生産を新しい合理的な原理にもとづいて改造し、いろいろの科学を生産に組織的に応用する。
資本主義がロシアで機械制大工業を組織しないうちは、また、機械制大工業がまだ組織されていない産業部門では、われわれはほとんど完全な技術の停滞を見うけるし、また、数世紀もまえに生産に用いられていたのと同じ手織機や同じ水車または風車を見る。
反対に、工場に従属している産業部門では、われわれは完全な技術的変革と、機械生産様式のきわめて急速な進歩とを見るのである。
技術構造の相違と関連して、われわれは、資本主義の種種異なる発展段階をみる。小商品生産とマニュファクチュアとは小企業経営の支配ということを特徴としており、そして、このなかからわずかに少数の大企業経営が分離してくるだけである。
機械制大工業は、終局的に小企業経営を駆逐する。資本主義的諸関係は小経営のなかにも形成されるが(賃労働と商業資本とをもつ仕事の形で)、しかしここでは、それらの関係はまだ発展が微弱で、生産に参加している人びとの諸群のあいだにおける鋭い対立のうちに固定されてはいない。
ここではまだ大資本もなく、プロレタリアートの広範な層もない。だがマニュファクチュアにおいてはわれわれはそのどちらもが形成されるのを見る。生産手段の所有者と働き手とのあいだの溝は、すでにかなりの規模に達する。
「豊かな」工業町が成長してくるが、そこでは大部分の住民はまったく無産の働き手となっている。原料の購買と生産物の販売とで、巨額の金をうごかしている少数の商人と、その日ぐらしの生活をしている部分労働者、これがマニュファクチュアの一般的な光景である。
しかし多数の小企業経営の存在、土地との結びつきの存続、生産および全生活構造のなかでの伝統の存続、すべてこれらのことは、マニュファクチュアの両極のあいだに多くの仲介者的分子をつくりだし、これらの両極の発展を阻止する。機械制大工業にあっては、すべてこれらの阻止的要因はなくなる。
社会的対立の両極は最高の発展を遂げる。資本主義のすべての暗黒面があたかも一ヵ所に集積されているかのようになる。機械は、周知のように、労働日の法外な延長に大きな刺激をあたえる。婦人と子供が生産にひきいれられる。
失業者の予備軍が形成される(また工場制生産の諸条件からして形成されないわけにはいかない)等々。しかし、工場によって巨大な規模でおこなわれる労働の社会化と、工場で働く住民の感情および観念の改造(とくに、家父長制的および小ブルジョア的な伝統の破壊)とは、反動を呼びおこす。機械制大工業は、それ以前の段階とは違って、計画に則した生産の規制と生産にたいする社会的統制とを、緊切に要求する(この傾向の現れの一つは工場立法である)。
生産の発展の性格そのものは、資本主義の種々の発展段階で変化す。小営業においては、その発展は農民経営の発展のあとにしたがってすすむ。市場はきわめて狭く、生産者と消費者との距離は大きくなく、とるに足りない生産規模は、ほとんど増減しない地方的需要にたやすく順応する。
だから、最大の安定性ということがこの段階における工業の特徴であるが、しかしこの安定性とは、技術の停滞、および、中世的な伝統のあらゆる遺物によってしばられた家父長制的社会関係の保存と、同じことである。
マニュファクチュアは大きな市場めあてに、ときには全国民をめあてに作業する。これに応じて、生産は資本主義に固有の、不安定な性格をおびるが、この性格は、工場にあっては最大の強さに達する。機械制大工業の発展は、飛躍によるよりほかには、また繁栄の時期と恐慌の時期との周期的交代によるよりほかには、すすむことができない。
小生産者たちの零落は、工場のこの飛躍的成長によって、いちじるしく強められる。労働者は、熱狂期には大量に工場に吸引されるかとおもうと、ほかのときには押しだされる。機械制大工業の存在と発展との条件となるものは、失業者と、どんな仕事でもやろうとまちかまえている人びとの膨大な予備軍の形成である。
われわれは第二章で、この予備軍が農民のどのような層から徴集されるかを示したが、それに続く諸章では、資本によって予備軍が用意されているその職業の、最も重要な種類を指摘した。
機械制大工業の「不安定性」は、この「不安定性」こそが従来の停滞を生産様式およびすべての社会関係の急速な改造によっておきかえたのだということを忘れて、依然として小生産者の目で事物をながめている人びとの反動的な泣きごとを、つねに呼びおこしてきたし、いまでも呼びおこしている。
この改造の一つの現れは、農業からの工業の分離、農業経済のうえにのしかかっている農奴制的および家父長制的構造の伝続からの、工業における社会関係の解放である。
小商品生産にあっては営業者はまだ農民の殼から完全にはぬけだしていなかった。たいていの場合は、彼は依然として農耕者である。そして小工業と小農業とのこの結びつきは非常に根深いので、われわれは、工業と農業とにおける小生産者の並行的分解という興味ある法則を見るほどである。
小ブルジョアジーと賃金労働者との分離は、国民経済の二つの分野において手に手をとって進行し、まさにそのことによって、分解の両極で、農業からの営業者の絶縁が準備される。マニュファクチュアでは、この絶縁はすでにきわめて顕著である。
農業に従事しない一連の工業中心地が形成される。工業の主要な代表者は、もはや農民ではなくて、一方では商人とマニュファクチュア経営主であり、他方では「職人」である。工業および、ほかの世界との比較的発展した商業的交流は、住民の生活水準とその文化性とを高める。
マニュファクチュアの働き手は、農耕農民をすでに見くだすようになる。機械制大工業はこの改造を完了し、工業を農業から終局的に分離し、われわれが見たように、住民の特殊な階級をつくりだす。
この階級は、古い農民層とはまったく無縁なものであり、別の生活構造、家族関係の別の構造によって、また物質的および精神的欲望のより高い水準によって、農民層と異なっている。小営業やマニュファクチュアでは、われわれはつねに、家父長制的関係とさまざまな形態の人格的隷属との遺物を見る。
そして、これらの遺物は、資本主義経済の一般的環境のもとでは、勤労者の状態を極度に悪化させ、彼らを下品にし、堕落させる。国のすみずみから集まってくることもまれではない数多くの労働者をひとまとめに集中する機械制大工業は、家父長制の遺物や人格的隷属の遺物とはもはや絶対に和解しないのであって、「過去にたいする真に軽蔑的な態度」を特色とする。
そして、古くなった伝統とのこの絶縁こそ、生産の調整と生産にたいする社会的統制との可能性をつくりだし、その必要性を呼びおこした、社会的諸条件の一つであった。とくに、工場による住民の生活条件の改造について述べる場合、婦人と未成年者との生産への吸収が、その根本において進歩的な現象であることを、指摘しなければならない。
もちろん、資本主義的工場が労働人口のこれらの部類をとくに苦難な状態におくこと、彼らにたいしては労働日の短縮と調整、衛生的な作業条件の保障その他が、とくに必要であることは、争う余地がない。
だが婦人や未成年者の工業労働をまったく禁止しようとしたり、このような労働を排除していた家父長制的な生活構造を維持しようとする志向は、反動的であり空想的であろう。
機械制大工業は、以前は家内的、家族的関係の狭い枠から出たこともなかったこの部類の人口の家父長制的封鎖性を破壊し、彼らを社会的生産に直接に参加させながら、彼らの発展を前進させ、彼らの自立性を高める。すなわち、それは、前資本主義的関係の家父長制的な不動性とは比較にならないほど高い生活条件をつくりだすのである。
(「レーニン労働組合─理論と運動─上」大月書店 p349-397)
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エンゲルス=「この産業予備軍は、産業が大車輪で仕事をする時期には自由に利用でき、続いて必ずやってくる恐慌によって街頭にほうりだされる」
レーニン=「機械制大工業の存在と発展との条件となるものは、失業者と、どんな仕事でもやろうとまちかまえている人びとの膨大な予備軍の形成」
……「存在と発展の条件」としての失業者=産業予備軍。
「婦人や未成年者」「彼らの発展を前進させ、彼らの自立性を高める。すなわち、それは、前資本主義的関係の家父長制的な不動性とは比較にならないほど高い生活条件をつくりだす」と。