学習通信040628
◎貨幣はどのように生まれるか……。

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 分業がひとたび完全に確立すると、人が自分自身の労働の生産物によって満たすことのできるのは、かれの欲望のうちのごく小さい部分にすぎなくなる。かれは、自分自身の労働の生産物のうち自分自身の消費を上回る余剰部分を、他人の労働の生産物のうち自分が必要とする部分と交換することによって、自分の欲望の大部分を満たす。

このようにして、だれでも、交換することによって生活し、いいかえると、ある程度商人となり、そして社会そのものも、まさしく商業的社会とよべるようなものに成長するのである。

 しかし、分業が発生しはじめた当初は、こうした交換の力はしばしばその作用を大いに妨害され阻止されたにちがいない。ある人がある商品を自分で必要とする以上にもっているのに、他の人はそれをもっていない、と仮定しよう。すると前者は、この余剰物の一部をよろこんで手放すだろうし、後者もそれをよろこんで購買するだろう。

ところがもしこの後者が、前者が必要とするものをたまたまなにももっていないなら、かれらのあいだにはどんな交換も行なわれるはずはない。肉屋はその店に自分が消費する以上に多くの肉をもっており、酒屋とパン屋はその肉の一部をそれぞれ購買したいと思っている。

ところが、かれらはそれぞれの職業の生産物のほかには、交換に提供するものをもっていないし、また肉屋にはすでに、かれがさしあたり必要とするパンとビールはすべて手持ちがあるとしよう。この場合には、かれらのあいだにはどんな交換も行なわれない。肉屋は、かれらの商人になることができないし、またかれらも肉屋の顧客となることができない。

こういうわけで、この人たちは、すべておたがいに相互の役に立つことが少ないのである。このような事態の不便を避けるために、社会のあらゆる時代の世事にたけた人たちは、分業がはじめて確立されたあと、おのずから事態を次のようなやり方で処理しようとつとめたにちがいない。

すなわち、世事にたけた人は、自分自身の勤労の特定の産物のほかにほとんどの人がかれらの勤労の生産物と交換するのを拒否しないだろうと考えられるような、なんらか特定の商品の一定量を、いつも手元にもっているというやり方である。

 おそらくこの目的のために、さまざまな商品がつぎつぎと考えられ、また使用されてきたようだ。社会の未開時代には、家畜が交易の共通の用具であったといわれている。家畜はそのような用具としてはたいへん不便なものだったにちがいないが、それでも昔は、物の価値が、それと交換される家畜の頭数にしたがって示された場合が多い。ディオメデスの鎧は牡牛九頭にしか値しないが、グラウクスのそれは、牡牛百頭に値する、とホメロスはいっている。

アピシニアでは、塩が商業と交換の共通の用具であったといわれる。インドの海岸のある地方ではある種の貝殻が、ニューファウンドランドでは干鱈が、ヴァージニアでは煙草が、わが西インド植民地のあるところでは砂糖が、また他の国々では生皮またはなめし皮が、共通の用具だといわれている。そして私の聞くところでは、今日スコットランドのある村では、職人が貨幣の代りに釘をもってパン屋や居酒屋にでかけることもめずらしくないという話である。

 しかしながら、どこの国においても人々は、反対しようのない理由から、貨幣として用いるために、他のあらゆる商品に勝るものとして最終的に金属類を選ぶことにきめたように思われる。金属類ほどもちのよいものは他にないのであって、金属は他のどんな商品にくらべても保存による損耗が少ないばかりか、なんの損失もなしに任意の数の部分に分割できるし、またこの分割部分は、損耗なしに鎔解によってふたたび容易にひとつにすることもできる。

この性質こそ、同じように耐久性のある他のどんな商品にもないものであり、そしてこの性質が、他のどんな性質にも勝って、金属類を商業と流通の用具に適するものにしているのである。たとえば、塩を買いたいと思うのに、それと交換に与えるものを家畜しかもっていない人は、牡牛まる一頭分、または羊まる一頭分の価値で、塩をいちどきに、やむなく買ってしまわなければならないにちがいない。

かれが塩と引換えに与えるはずのものは、損耗なしに分割されることはまずありえないから、かれがこれよりも少量を買うことは滅多にできないことだろう。また、もしかれがもっと多量に買おうという気になったとすれば、同じ理由で、かれは二、三倍の量、すなわち二、三頭の牛、または二、三頭の羊の価値分の塩をやむなく買ってしまわなければならないにちがいない。

これに反して、もしかれが羊または牡牛の代りに、塩と引換えに与えるべき金属類をもっていたなら、かれはこの金属の量を、さしあたり必要としている商品の正確な量に、容易に釣り合わせることができたであろう。

 さまざまな金属類が、こうした目的のためにさまざまな国民によって使用されてきた。鉄は、古代のスパルタ人のあいだで、商業にとっての共通の用具であった。銅は古代ローマ人のあいだで、また金銀はすべての富裕で商業的な国民のあいだで、共通の用具であった。

 そのような金属は、もともとは刻印も鋳造もされないで粗製の延べ棒のままで、この目的のために使用されていたらしい。たとえば、プリニーが古代の歴史家ティメウスを典拠にして語るところによると、セルウィウス・トゥリウスの時代まで、ローマ人は鋳造貨幣をもたないで、刻印のない銅の延べ棒を、かれらの必要とするどんなものの購買にも使用していた。それゆえ、この当時には、こうした粗製の延べ棒が貨幣の機能を果していたのである。

 こうした粗製の状態のままで金属を使用することには、二つのたいへん大きい不便がともなった。第一は、それらの重さをはかるうえの煩雑さであり、第二は、それらの純度をはかるうえの煩雑さである。貴金属の場合は、量が少しちがっても、価値に大きい差異が生じるから、重さをはかるという仕事でも正確を期するのには、少なくとも精密な錘と秤とを必要とする。

とくに金の重さをはかるのは、微妙な識別力のいる操作である。もっと粗悪な金属類の場合は、実のところ、わずかな誤差もたいしたことにならないだろうから、金の場合ほど正確である必要はもちろんないだろう。それにしても、もし貧しい人が、一ファージングの価値の財貨を売買する必要のあるたびに、この一ファージングの重さをはからなければならないとすれば、われわれは、それがおそろしく煩雑であることに気づくであろう。純度をはかる操作となると、なおいっそうむずかしく、なおいっそう手間がかかる。

しかも金属の一部が、適切な溶剤といっしょに、坩堝(るつぼ)のなかでうまいぐあいに溶けあわないかぎり、そこからひきだされるどんな結果もいちじるしく不確かである。けれども鋳造貨幣が制度化されるまえは、人人はこの手間のかかるむずかしい操作をやりとおすのでなければ、とんでもない詐欺やごまかしにいつも出あうおそれがあったにちがいない。

そしてかれらの財貨と引換えに、一封度(ポンド)の重量の純銀や純絹ではなく、外見上はそうした金属に似せて作られてはいるが、実は最も粗悪で最も安価な材料を混ぜあわせてできた合成物を受け取るかもしれない。そのような弊害を防いで、交換を容易にするために、またそれによってあらゆる種類の産業と商業を促進するために、改善にむかってかなりの前進をとげたすべての国では、その国で共通に財貨の購買に使用されていた特定の金属の一定量に、公的な刻印を押すことが必要だとわかってきた。

これが、鋳造貨幣の起源であり、造幣局とよばれる役所の起源である。これらはちょうど、毛織物や亜麻布についての毛織物検査官や亜麻布検査官と同じ性質の制度である。それらはすべて、公的な刻印によって、そうしたさまざまな商品が市場にもたらされるときに、その分量と、品質が一様であることをたしかめることをめざしているのである。
(スミス著「国富論@」中公文庫 p39-44)

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 直接的な生産物交換においては、どの商品もその所有者にとっては直接的に交換手段であり、その非所有者にとっては等価物である。

もっとも、その商品がその非所有者にとって使用価値である限りでのことであるが。

したがって、交換品は、それ自身の使用価値、または交換者の個人的欲求から独立した価値形態をまだ受け取ってはいない。

この形態の必然性は、交換過程にはいり込む商品の数と多様性との増大とともに発展する。

課題はその解決の手段と同時に生じる。

商品所有者が彼ら自身の物品を他のさまざまな物品と交換したり比較したりする交易は、さまざまな商品所有者のさまざまな商品がその交易の内部で同一の第三の種類の商品と交換され、価値として比較されることなしには、決して生じない。

このような第三の商品は、他のさまざまな商品にとっての等価物となることによって、直接的に──たとえ狭い限界内においてにせよ──一般的または社会的な等価形態を受け取る。

この一般的等価形態は、それを生み出す一時的な社会的接触とともに発生し、それとともに消滅する。この形態は、あれこれの商品に、かわるがわる、かつ一時的に帰属する。

しかし、それは、商品交換の発展につれて、もっぱら特殊な種類の商品に固着する。すなわち、貨幣形態に結晶する。それがどのような種類の商品に固着するかは、さしあたり偶然的である。

しかし、一般的には、二つの事情が決定的である。貨幣形態が固着するのは、外部からはいってくるもっとも重要な交易品──これは、事実上、内部の諸生産物がもつ交換価値の自然発生的な現象形態である──か、さもなければ、内部の譲渡されうる所有物の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものである。

遊牧諸民族が最初に貨幣形態を発展させるのであるが、それは、彼らの全財産が動かしうる、それゆえ直接的に譲渡されうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式が彼らを絶えず他の諸共同体と接触させ、それゆえ、生産物交換へと誘い込むからである。

人間はしばしば人間そのものを奴隷の姿態で原初的な貨幣材料としてきたが、土地をそうしたことはかつてなかった。このような観念は、すでに発展をとげたブルジョア社会においてのみ出現しえた。その始まりは一七世紀の最後の三分の一期のことであり、その実施が国民的規模で試みられるのは、それからやっと一世紀後、フランスのブルジョア革命のなかにおいてであった。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p151-152)

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◎「課題はその解決の手段と同時に生じる。」と。