学習通信040629
◎「生産の膨張と……市場の膨張……」
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すでに見たように、現代の機械の極度に高まった改良可能性は、社会における生産の無政府状態のせいで一人一人の産業資本家にとって、〈君の機械を絶えず改良して生産力を絶えず高めよ〉、という強制命令に変わる。
自分の生産の範囲を拡げることができるという、ただの事実上の可能性も、彼にとって同じような強制命令に変わる。
大工業の巨大な膨張力──これに比べれば、気体の膨張力などまったくの児戯に等しい──は、いま、どんな抵抗をもものともせず質的にも量的にも膨張していこうとする欲求となって、われわれの目の前に現われてきている。
そういう抵抗になっているのは、大工業の生産物にとっての消費・販路・市場である。
しかし、市場の膨張能力は、外延的なそれであれ内包的なそれであれ、さしあたっては、まったく別のずっと弱い力で作用する諸法則に支配されている。
生産の膨張と歩調を合わせることは、市場の膨張にはできないのである。〔そこで、〕衝突は避けられなくなる。そして、この衝突は、資本主義的生産様式そのものを爆破しない限り解決を生み出すことが自分にできないので、周期的にくりかえされる。資本主義的生産は、一つの新しい「悪循環」を生み出す。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p148)
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産業革命期の諸発明は、それを必要とした情勢と発明を可能にした社会のうえに立って評価されるべきで、偶然的な発明を強調しすぎるのは危険であるが、諸発明が産業革命を導き、前進させたのも事実である。
綿織物工業に関係する主な発明は別表の如くであるが、初期には、毛織物工業で用いられたオランダの織機や飛枝(ひさ)の実用化(五・六〇年代)により、織布工程が進歩し、糸飢饉がおこった。
そのため紡績(製糸)工程の諸発明がみられ、織布が追いつかなくなり、力織機が現われた。
最後に、全工程のあい路になっていた原棉の繰り分け工程が機械化されていくのである。これらにより、イギリスの綿工業は先進のインドを抜き、また、毛織物工業の工場制機械生産を促進させる役割を果たしたのであるが、一九世紀の三〇年代に入ると、毛織物工業を追いこし、イギリス経済の主力となるのである。
工場制機械生産が確立されるためには動力の革命が必要であった。人力や風力に頼っていたのが、水力を中心とするようになり、やがてJ・ワット(一七三六〜一八一九)が一七六五年、蒸気機関をつくり、八一年までに改良を重ねて、実用に耐えうるものにした。
ワットの蒸気機関はT.ニューコメン(一六六三〜一七二九)が炭坑の排水用に発明していたのを改良したものであったが、これによって高度の動力が可能になったばかりでなく、水力使用による設置条件から解放された工場の設立という画期的な変化を生みだし、一九世紀になると、蒸気機関の普及とともに、新しい工場都市が原料地や交通の便を考慮しながら誕生し、社会問題をひきおこしてくる。
また、蒸気力の応用は、単に織物業だけにとどまらず、産業革命の幅を製鉄・採炭・金属工業などの重工業にもひろげ、輸送の革命にもおよんでいった。
産業革命の進展には機械や燃料を確保するため、製鉄・採炭業のよりいっそうの開発が必須であったことは言をまたない。一七〇九年、A・ダービーはコークスを用いて鉄を熔解するのに成功した。熔鉱に石炭を使用するのは百年近く前から考えられていたが、硫黄分が多く使いものにならなかった。
ダービーは石炭の使用と強力な送風装置、高い熔鉱炉で成功し、彼の子供は精錬にコークスを用いた。ハンツマンのルツボ法による鋼鉄は武器となる鋳鋼に使われ、ナポレオンとの戦争がそれを普及させた。製鉄・鋼法は一九世紀になってますます改善され、今日においても改良がつづけられている。そして、石炭を燃料にするようになったことが、鉄工業を石炭地帯にまねきよせる結果となった。
石炭の需要が増大すると、石炭地帯が工業地域になっていき、採炭技術の改良がみられた。ワットの蒸気機関のもとになったニューコメンのものも、元来炭坑の排水用につくられていたのであるが、その後も送風装置や安全灯の発明がみられ、一七八〇年代には、年間約一〇三〇万トンの石炭が掘られ、百年前に比べて三・五倍に達した。ただし、狭い炭坑内での労働条件は劣悪で、婦人や子供を長時間、就業させ、社会的批判をあびた。
イギリスは、局地的市場を結ぶ道路が比較的早くから建設されていたが、産業革命の展開につれ、原料や商品の輸送が活発になり、交通手段の改善が望まれ、またそれが可能になってきた。
一八一四年、G・スティーヴンソン(一七八一〜一八四八)が機関車を発明し、二五年にストックトンとダーリントンの間に最初の鉄道がしかれたが、このことは、従来の木製レールに代わって、鉄製レールが作成されたことに大いに負っている。
船舶の利用も、運河の開さく、阿川の利用で進み、一八〇七年、アメリカ人フルトソ(一七六五〜一八一五)が汽船をハドソン河で動かし、一九年には大西洋を横断した。鉄道は国内の、汽船は海外の開拓を急速に進め、世界の工場をなるイギリス産業資本の征覇を助けたのである。
以上のように、市場の拡大が産業の発展をうながし、一産業の成長が他の産業の成長を刺激する好循環により、生産と流通がのび、世界に飛躍していった。フランス革命以後のフランスとの戦争は、この体制を維持、発展させようとするイギリスに対するフランスの挑戦ともいえ、フランスは産業革命に到達していたイギリスの総力の前に、ナポレオンの軍事的天才をもってしても、屈しなければならなかったのである。
(衣笠・茂田・中村他著「概説 西洋史」東京創元社 p333-335)
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私たちの生活スタイル
ところで、人類は、いつ頃から大量生産・大量消費・大量廃棄の経済スタイルになってしまったのだろうか。むろん、蒸気機関によって動力源を機械に置き換えた一八世紀半ばの産業革命がその端緒であり、以来連綿と大量生産の道を歩んできたのは事実である。しかし、動力源に電気が加わった二〇世紀において一気に加速し、現在につながっていると言うべきだろう。
「電気の二〇世紀」が重要な背景にあるのだ。
大量生産の端緒は、一九〇八年に発売を開始したT型フォードで代表される、いわゆる「フォーディズム」だろう。ヘンリー・フォードが、それまで金持ちだけのものであったクルマを良質で安く大量に生産して、大衆の手が届く輸送手段としたのだ。同じ部品を大量に生産し、ベルト・コンベアーを使った流れ作業とし、分業体制で組み立ててコストを下げる方式が「フォーディズム」である。
このような生産方式によって、フォーディズムは、大量生産・大量消費を象徴するとともに、効率的な物質文明や労働の非人間化の代名詞ともなった。チャップリンの名作「モダン・タイムス」は、見事にその本質を抉り出している。
さらに、大量生産を煽ったのがGMで、フォードが「できるだけ安い単一モデルを、より多くの人々に」としてT型フォード一車種だけの生産に固執したのに対し、「より多くの人々に、色々なクルマを」というキャッチフレーズで多車種の生産に乗り出した(米倉誠一郎著『経営革命の構造』岩波新書)。
それが、現在のような数年ごとのモデル・チェンジによって買い換えさせる先鞭となったのだ。その行き着く先は、在庫を徹底して減らすトヨタの「カンバン方式」(トヨティズム)であった。
多数の車種を大量生産するためには多数の異なった部品が必要だが、経費を節減するために部品の在庫はせず、カンバンに書いて下請けに即時に配達させる方式である。(今や、コンビニの商品調達にこの方式が行き渡っている。)二〇世紀は「クルマの世紀」でもあったが、その生産方式の変遷ぶりが、まさに現在の大量生産・大量消費の構造を反映しているようだ。
現在の大量生産・大量消費・大量廃棄構造を招いたもう一つの要因は、石油化学工業の発達である。液体である石油は、扱いやすい燃料資源として早くから利用されていたが、掘削技術の向上によって大量生産が可能になるや、それを原料とする石油化学工業が二〇世紀半ばから拡大していった。
これによって、ビニールやプラスチック、農薬や殺菌剤、合成洗剤やPCBなど、さまざまな人工化合物が作られ、私たちは石油を原料とする化学物質に取り囲まれる生活をおくるようになった。化学物質は、天然の物質に比べて、安価かつ大量生産が可能なので大量消費社会を側面から支える重要な要素となったのである。まさに、二〇世紀は「化学の二〇世紀」でもあったのだ。
(池内了著「私のエネルギー論」文春新書 p34-36)
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◎「資本主義的生産は、一つの新しい「悪循環」を生み出す」と。