学習通信040630
◎「その集積が意外に大きな力……」。

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 ぼくはその話が興味深かった。それがワケの力なのだ。自分でさえも気が付かないところでワケありのワケを観察している。もちろん言葉でなんて説明できないだろう。だけどわずかに漏れ出るワケありのワケを感知して、いつの間にかそういう子にばかり近づいている。

 目利きの目というのが、こんなところにあるんだと思った。本人は無意識なのに、ホンネのところを見抜いている。意識の理屈を超えた力で、人の背後にある奥深い関係を透視している。

 ぼくは彼の気が付かぬ話に、感動した。人間というのは大変なものを見ているものだ。見て、見分けて、接近している。

 本当は誰にでも、そういう気が付かぬ何かがあるのだろう。自分の感覚、自分のおこない、自分では運命とでも思えるようなめぐり合いにも、そういうものの背後関係が、自分の無意識のところで見えていて、自分でも知らずに動いているのかもしれない。

 たぶんそういう細かい動きの集積の方が多いのではないかと思う。何ごとも理知的に、科学的に判断して動いていると自分では思っているけど、それは自分に説明できる部分に過ぎないわけで、その陰にはきっと無数の感覚反応がひしめいている。

 まあそういうふうに大げさに考えなくても、人を見て、いい人なんだけどどうも虫が好かぬとか、怪しいけど何となく興味があるとか、そういう感覚はあるものだ。

 腐れ縁というのがあって、理屈の上ではもう付き合いたくないという関係なのに、いつまでもずるずるとつづいている。これもワケありのワケみたいな、ゲンダイの科学では説明できない、できないというか、説明しにくい因子が含まれてのことなんだろう。

 ワケありと似ている感覚に、デキてる、というのがあるのだ。先にもちょっと書いたが、これは主として男女関係に関わることだ。人間というのは男女いずれかに分かれて、デキるために生れてきているのだが、これがいつ、どこで、どうデキるのかわからない。

 異性に出会うたびにさんざん努力をするのにいつまでたってもデキなかったものが、ふとしたとんでもない偶然で、ひょいとデキてしまったりする。

 むしろ男女関係はだいたいがそういうもので、あまりにも計画的に綿密に考え抜かれた交際は、何だか見えすいてしまってデキず、という結果になりやすい。それよりも思わぬ突発的な出会いの方がむしろ地が出て、肩の力が抜けて、するりとデキた、という結果が多いようだ。

 男女関係に限らず、文章にしても絵にしても写真にしてもそうで、あまり周到に計画された表現は作為的になってしまって、先が読めてしまって、表現力を失う。それよりも突然というか偶然というか、突発の力で作為のヒマなくコトをなしたものの方が、不思議な魅力をたたえている。

 で、デキてる、ということだけど、これがちらりと漏れることがあって、これも無意識の目利きの瞬間である。

 別にそんなことばかり見てるわけじゃないのだけど、職場とか、学校とか、何かのサークルとか、そういう定常的な集まりの中に異性が分布している。それでもって仕事したり、勉学したり、たまにみんなで飲みにいったり、ハイキングしたり、そのたびに男女の位置がいろいろと揺れ動いている。

 別に深い意味じゃなく、たんに気が合うとか、都合がいいとか、まだましだとか、しょうがないからとか、まあいろいろの引力、重力、電磁力、強い力、弱い力、という宇宙の四つの力みたいなものによって人間も結びついたり離れたりしている。

 それがある日、ひょいと妙なタイミングを感じる。ある男女の間に妙なリズムというか、妙なニュアンスというか、何か妙な、何か、何というか、ゲンダイの科学では説明のできないあれを感じて(おや?)と思う。
 ほかにも同じように(おや?)と感じたらしい人がいて、つい目が合う。で、つい口に出して、

 「あの二人、デキてるね」
 と確認し合ってしまうのだ。
 別に証拠といって大したものはない。その男女の間のちょっとしたニュアンスである。センサーで測ったとしても、他のノイズと紛れてしまうような針の揺れである。でもやはりおかしい。データは抽出できなくても、感覚がそれを捕えてしまっている。別にそんなことばかり見ているわけじゃないのだけど、その瞬間、人は目利きになっているのだ。

 いや本当はその瞬間だけじゃない。ふだんからその定常的な男女の群の中にいて、ふつうに飛び交う波長を見ている。まあこんなもんだと、どんなものか知らないけれど、平均値というものを体感している。それが一瞬ひょいとズレて、あれ? と思う。

 もうちょっと具体的なものでいうと、たとえば床板のズレだ。水平に広がっている床を歩いていて、ほんのわずか斜めに落ちた部分を、いつもは鈍感に見える足の裏が、あれ? と感知している。別にだからどうということはないのだけど、人間は大して役に立たないどころで物凄く敏感である。じつはその集積が意外に大きな力となって、世の中は呼吸して動いているのではないだろうか。
(赤瀬川原平著「目利きのヒミツ」知恵の森文庫 p16-19)

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目もなく、耳もなく、歯もなく、何もない……

 もう一つだけ、マルクスの文章を紹介させてください。ヴァイトリングと袂を分かったその二年あと、ヨーロッパ全土をまきこんだ革命の波のただなかで書かれたものです。

「彼らが革命の舵をとったのは、人民が彼らのうしろに従ったためではなく、人民がうしろから彼らをおしだしたためであった。彼らが先頭に立ったのは、新しい社会的時代の創意を代表していたからではなかった。……彼らは地震で新しい国家の地表にはじきだされたものだった。自分自身を信頼せず、人民を信頼せず、上にむかってはぶつぶついい、下にむかっては怖じおそれ、どちらにむかっても利己的で、しかも自分の利己主義を承知しており、保守派にたいしては革命的で、革命派にたいしては保守的で、自分のスローガンを自分で信ぜず、思想のかわりに空文句でまにあわせ、世界の嵐におびえ、世界の嵐をだしに使い──どの方面でも無気力で、あらゆる方面で剽窃し、独創を欠くゆえに下劣であり、下劣さにかけて独創的であり──自分の願望を自分で値ぎり、創意なく、自分自身を信頼せず、人民を信頼せず、世界史的使命をもたず──強健な人民のういういしい青春の流れを、自分自身の老衰した利益におうじて導いてわき道にそらすことが自分の宿命だと観じている、目もなく、耳もなく、歯もなく、何もない、いまいましい老いぼれ」(「ブルジョアジーと反革命」)

 マルクスが深く愛したシェークスピアの史劇の一節を読むような感じです。「老いぼれ」というのは差別用語ではないのか、などというやぼは、このさいなしにしましょう。

 これは誰のことをいっているのでしょうか。「彼ら」というのは、これまたドイツ・ブルジョアジーのこと──もっと限定していうと、プロイセンのブルジョアジーのことです。「これが、三月革命のあとでプロイセン国家の舵をとったプロイセン・ブルジョアジーの姿であった」と、マルクスは結んでいます。

 「ドイツのブルジョアジーは、ひどくだらだらと、おずおずと、またのろのろと発展してきたので、彼らが封建制度や絶対主義と対立して、これらをおびやかすようになったそのときには、プロレタリアートや、利害や思想の点でプロレタリアートに近いすべての市民諸層が、はやくも彼ら自身と対立して、彼らをおびやかすようになっていることに、彼らは気がついた。

……彼らは、王権にも人民にも同じように鋭く対立する一種の身分になりさがっていて、その双方にたいして敵意をもやしていたが、いつも腹背に二つの敵をひかえているため、この敵のそれぞれにむかっては決断を欠いていた」──これで「上にむかってはぶつぶついい、下にむかっては怖じおそれ」の意味もよくわかりますね。

 「目もなく、耳もなく……」というのは、その十九年後に書かれた「隠れ頭巾をまぶかにかぶって目をも耳をもかくす」というのにそのままつながるでしょう。

 私は、このシェークスピア史劇の一節を思わせるようなマルクスの文章が好きです。そして、読みかえすたび、思いだすたびに、「これは君のことをいってるんだよ!」「君たちのことをいってるんだよ!」というマルクスの声がそこからきこえてくるような気がします。

 世界史的使命をになっているはずの階級にふさわしい力を、おたがいのなかに育てねば、と思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p28-30)

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 ドイツのブルジョアジーは、ひどくだらだらと、おずおずと、またのろのろと発展してきたので、彼らが封建制度や絶対主義と対立して、これらを脅かすようになったそのときには、プロレタリアートや、利害や思想の点でプロレタリアートに近いすべての市民諸層が、はやくも彼ら自身と対立して、彼らを脅かすようになっていることに、彼らは気がついた。

しかも、ブルジョアジーは、彼らのうしろに立つ一階級だけでなく、彼らの前面にある全ヨーロッパも、彼らを敵視していることに気がついた。

ブロイセンのブルジョアジーは、一七八九年のフランス・ブルジョアジーとは違って、古い社会の代表者である王権や貴族に対抗して、近代社会全体を代表する階級ではなかった。

彼らは、王権にも人民にも同じように鋭く対立する一種の身分になりさがっていて、その双方にたいして敵意を燃やしていたが、いつも腹背に二つの敵を控えているため、この敵のそれぞれにむかっては決断を欠いていた。

彼らは、自分自身すでに古い社会に属していたため、はじめから、人民を裏切りやすく、古い社会の代表者である王権と妥協しやすい傾きがあった。

彼らは、古い社会に対抗して新しい社会の利益を代表するのではなく、老衰した社会の内部で、むしかえされた利益を代表していた。

彼らが革命の舵をとったのは、人民が彼らのうしろに従ったためではなく、人民がうしろから彼らを押しだしたためであった。

彼らが先頭に立ったのは、新しい社会的時代の創意を代表していたからではなく、古い社会的時代の怨みを代表していたからにすぎなかった。

彼らは、古い国家の下積みの層が、みずから表面に姿を現わしたのではなく、地震で新しい国家の地表にはじきだされたものだった。

自分自身を信頼せず、人民を信頼せず、上にむかってはぶつぶつ言い、下にむかっては怖じおそれ、どちらにむかっても利己的で、しかも自分の利己主義を承知しており、保守派にたいしては革命的で革命に対しては保守的で、自分の標語を自分で信ぜず、思想の代わりに空文句でまにあわせ、世界の嵐におびえ、世界の嵐をだしにつかい

──どの方面でも無気力で、あらゆる方面で剽窃し、独創を欠くゆえに下劣であり、下劣さにかけて独創的であり──

自分の願望を自分でねぎり、創意なく、自分自身を信頼せず、人民を信頼せず、世界史的使命をもたず

──強健な人民の初々しい青春の流れを、自分自身の老衰した利益におうじて導いてわき道にそらせることが自分の宿命だと観じている、いまいましい老いぼれ──

目もなく! 耳もなく! 歯もなく、なにもない──これが、三月革命のあとでプロイセン国家の舵をとったプロイセン・ブルジョアジーの姿であった。

(マルクス・エンゲルス全集 6巻「ブルジョアジーと反革命」大月書店 p104-105)

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◎「目もなく! 耳もなく! 歯もなく、なにもない」……。私たちの目も耳も、歯も……研ぎ澄まされているだろうか。「世界史的使命」をやりあげるために。