学習通信040701
◎「何らかの先験的な真理としてひと口で呑みこんでしま」ってはいけない。

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 古典との対話
 前置きが長くなってしまいましたが、ここでようやく本題に入って、いま述べた古典と直接向きあうとはどういう事なのか、とくに思想的古典への直接の対面にどのような意味があるのか、を考える段になりました。そういう問題を抽象的に論じても、説教訓になるだけのことですので、以下、具体例に即しながら話を進めていきましょう。

 私がここにサンプルとして選んだ古典は福沢諭吉の『文明論之概略』です。この書物を選んだのは、もちろん私自身が戦前から何度もくりかえし読んだ書物の一つだからですが、それだけではないつもりです。なにより、福沢諭吉という人物は、現代日本の、それこそ「最新流行」の思潮から見ると、必ずしも評判のよくない思想家です。

それに『文明論之概略』という題名そのものが、現代から見るといかにも古色蒼然とした感じを与えます。「文明」というコトバはたんに古臭いだけでなく、科学技術の偏重とか、物質中心主義とか、公害源とかいうはなはだ芳しくない連想と結びついております。それだからこそ、私はあえてこの思想家とこの書物をとりあげるのです。

 古典を読み、古典から学ぶことの意味は──すくなくも意味の一つは、自分自身を現代から隔離することにあります。「隔離」というのはそれ自体が積極的な努力であって、「逃避」ではありません。むしろ逆です。私たちの住んでいる現代の雰囲気から意識的に自分を隔離することによって、まさにその現代の全体像を「距離を置いて」観察する目を養うことができます。

 私たちは、どんなに自分では「自由」に思考していると思っても、現代の精神的空気を肺の奥底まで吸いこみ、現代の思考範躊をメガネとして周囲の光景を眺め、手近なところでいえば、現代の流行語を十分な吟味なしに使って、物事を論じております。「反時代的考察」と称するものが、実はしばしば自ら意識しないで、時代の雰囲気にとっぷりと浸り、ステロ化された現代のイメージによりかかっているものです。

日本のマス・コミや「論壇」のようにトピックの集中性が強い場ほど、そうなりがちです。現代の問題を中心とすること自体はそういう媒体の当然の使命なのですが、話題が刻々の「いま」に集中するほど、さきほどのべた、昔から日本にある思考の底流に乗って水勢を増し、滔々(とうとう)として私たちを押し流します。そこで古典の古典たる所以をきわ立たせるためには、現代流行していない古典、もしくは不評判なテーマに関わる古典を例にとるのがかえって適切だ、というのが私の考えです。

 いうまでもなく、『文明論之概略』の学問的研究のためには、維新直後の時代的背景とか、福沢が依拠したT・バックルやF・ギゾーとの関連とか、さらに福沢の全生涯とその思想の歴史的変遷とかいう問題のなかで、この書物を位置づけることが必要です。けれどもここでは、あくまで古典から学ぶための一つのサンプルとしてこの書物をとりあげるわけで、したがってそういう歴史的背景のせんさくを一まずヌキにして、読者とともにじかに原典にぶつかって行くことにします。

 古典にたいするこうした「直接の」対面という仕方には、しばしば歴史学者の側からの強い抵抗があります。およそ時代の歴史的諸条件の十分な理解なしにどうして福沢の書物と思想とを語れるのか、という疑問が、歴史家のほとんど間髪をいれない反応です。商売柄もっともであり、また古典の歴史的理解のためにはもちろんのこと、古典の内容の解釈のためにもそうした知識があるに越したことはないでしょう。

 けれどもサンプルを変えて、たとえぱ『論語』とか、プラトンの『国家』といった思想的古典をとってみると、歴史的諸条件とか社会的基盤とか言っても、それほどはっきりしたものでないことが分ります。春秋戦国時代の中国とか、紀元前四世紀ごろのギリシャの都市国家について、現存の史料でどこまで経済的基盤とか支配関係の実態が解明されるでしょうか。孔子やプラトンの生涯さえ不明なことが多いのです。

にもかかわらず、『論語』にしろ、プラトンの対話篇にしろ、格別立入った歴史的基盤を問うことなしに何千年も読まれ、語りつがれ、そういう仕方で影響を与えてきたのは厳然たる事実です。アテネの民主政は奴隷制のうえに立っており、現代民主政とはまったく「歴史的条件」がちがうにもかかわらず、プラトンやアリストテレスは、ヨーロッパでもアメリカでも、デモクラシーを論ずる場合に相変らず引照基準になっています。

第一、「古典的」思想家自体が、彼らと時代を隔て、産地も異った古典と取り組むことで自分の考えを練り上げてきました。J・J・ルソーは彼より一世紀前のイギリスの歴史的=社会的条件などということをヌキにしてT・ホッブズと直接に対話し、ルネッサンス・イタリーの政治的状況について特別に史料のせんさくをしないでマキァヴェリの命題から学んだにちがいありません。どうして同じような、敢えていえば超歴史的な(正確にいえば長歴史的な)学び方が福沢についてできないのでしょうか。

 私の先生で、数年前に故人となった南原繁という学者がいます。南原先生と話をしていて談たまたま『論語』に及ぶと、先生は「あの人はね」云々というのです。「あの人」というのはむろん孔子のことです。けれども「あの人はね」といわれると、何か孔子が同じ町内に住んでいる老人のようで、私などには、そこに漂う一種の不自然さがおかしみを誘いました。けれども、この何げない言葉遣いのうちに、古典──先生の場合には専攻からいって主として西洋政治哲学の古典ですが──と直接かつ不断に対決してきた精神の軌跡が躍如としています。

 孔子もアリストテレスも、ルターもカントも、先生にとっては「昔々あるときに」生きていたえらい人というよりは、偉人は偉人でも隣りに住んでいて、垣根の向うから声をかけてくれる日常生活のつき合い相手なのです。南原先生の政治学史の講義は、こういう向う三軒両隣りの偉人たちと先生とが交す会話から成り立っていました。

ですからオーヴァーな言い方をすれば、プラトンとアリストテレスとが、あるいは口ックとベンサムとがかりに歴史的順序を逆にしてあらわれてきても、先生にとっては、会話の順番がちがってくるだけで、それぞれの政治哲学と先生の政治哲学との直接の対話という、先生の学問の本質的な特徴は変らないわけです。

 私のように青年時代からいわば「歴史主義的」思考の毒に骨の髄まで冒された者にとっては、こういう先生の態度にはどうしてもなじめないものがありました。けれども、政治思想史の方法論としては、そこにどんなに批判の余地があろうとも、これこそまさに古典を読み、古典から学ぶ上でのもっとも基本的な態度であり、しかも現代日本ではますます稀少価値になってゆく心構えだと思います。

こういう心構えで福沢を読んでみようというわけです。孔子やプラトンさえ隣人なら、同じ日本の、しかも、たかが一世紀前の人間が私たちのすぐお向いに住んで、『文明論之概略』を書き下していても一向不思議はないはずです。
(丸山真生著「「文明論之概略」を読む-上-」岩波新書 p8-13)

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理論をそれ自身の歴史でつかむ・紋切り型との対比

 「資本論」は、マルクスによっては最後までは完成されないで、二巻三巻は、残された草稿をエングルスが編集しましたが、そこではミスを避けられませんでした。「資本論」の形成をノート、草稿の全体を跡づけることで、そのありかを明らかにする研究が、不破哲三氏によって行なわれてきました。「エングルスと『資本論』」上下、「レーニンと『資本論』」全七巻、「マルクスと『資本論』」全三巻がその直接の成果です。「資本論」とあわせて、科学的社会主義の学説の歴史を塗り替える大事業です。

 そこでは「『資本論』を『資本論』自身の歴史で読む」新しい接近の意義が強調されています。あわせて紋切り型の学習をいましめる指摘も出されています。紋切り型とは、理論を暗記し、それを決まり切ったこととして繰り返すだけで、ものごとを説明したことにしてしまい、歴史や情勢の変化に対応して理論を適用・展開できないような、硬直した理論のつかみかたのこととされています。

 こういう提起を、言葉や文章だけで受けとめると、それ自身が紋切り型にはまる受けとめになります。どういう問題なのかを、ここで考えてみましょう。

 A、わたしたちの日常での、職場と社会の実際では、認識を発展させ、理論を深める必要にたえずせまられます。それなしには、まともな活動にはならないわけです。たとえばグローバリゼーション一つをとってみても、現実は極めて流動的です。過去の説明と認識が、みるみる古びていくのを痛感します。成果主義賃金も同じです。経営者自身が動揺の連続です。すべてがそうです。紋切り型の認識だけでは、労働者を結集できないのが、わたしたちの日常です。

 B、マルクス以前の経済学では、賃金は「労働の価格」との受けとめで、利潤のみなもと≠つかめないできました。賃金の形をそのままに受け入れる、いわば紋切り型の認識からの、学問上の行き詰まりでした。マルクスも一八四七年の「賃労働と資本」の講義では、この認識を超えられないままでした。

 のちに、「労働」ではなくて、「労働力」が売買されるという発見で、「剰余価値学説」が確立され、この学説は一挙に科学に飛躍しました。この認識の、マルクスによる壮大な展開は、ごく直接のものとしても、「資本論」第一巻の四・五章にあふれています。208ページは、その頂点です。

 C、では賃金は労働力の価格が本質であるという認識を繰り返すこと自体は、紋切り型ではないのでしょうか。そんなことを繰り返すだけでは説得力にはならないし、運動にもならないのが、職場の現実です。賃金の本質は生活費であるとする学習を繰り返し、生活破壊の現実との対決を訴え、生活の実際の交流、要求アンケ一ト活動、均等待遇・差別是正・一致できる要求の提起、全国一律最低賃金制や家族手当法の意義を強調するなどが、賃金闘争の実際です。

職場の労働者は、いまそういう働きかけに反応して、春闘アンケートでは「怒り」の噴出が最大の特徴です。科学とは、いまこの瞬間の労働者意識の中での躍動をつかむことです。「資本論」の叙述も、そういう精神で満たされています。例証で紹介される事実は、当時の最新のものでした。

古典学習と入門書学習

 わたしたちの経済学学習では、入門書学習と古典学習が併用されます。それぞれに特徴があって、学ぶ側もそれぞれへの反応があります。

 入門書の特徴は「資本論」や「帝国主義論」、それ以後の資本主義分析の成果からの基本的な規定の選択と体系立てられた叙述です。講義では、その時々の情勢と結合して解説します。経済学のエキスをつかむことができて、搾取の仕組みを理解し、そこからの解放の法則性を自覚できるのが特徴です。活動家養成の最短距離の一つです。

搾取の最新の状況から選択された具体例の紹介が、説得力を左右します。これは決定的です。労働者を惑わせる思想攻撃への反撃も、学習内容に含まれます。質問への回答のレベルも問われます。受講生自身が学生募集の担い手になる意欲をもつかどうかが、講義の適切さの最高の証人です。マルクスが精魂を傾けたようなエネルギーと分析力に学ぶ、労働者状態の絶えざる吸収、その講師団での系統的な交流・検討なしには、十分には成立たない活動です。

「資本論」の全体像を動員する思考が求められると痛感することしきりです。長い期間での繰り返しからくるマンネリズムの危険にさらされる活動です。同業の人達のテ一プ学習では、反省点の続出です。

 古典と入門書の違いは、どこにあるのでしょうか。なぜ人々は古典学習を独自に学習対象の一つにおくのでしょうか。これは「資本論」学習への欲求と通じています。古典学習の最大の特徴は、当時の現実との切り結びからくる理論の生きた姿の吸収です。矛盾との対決の生々しい高さに、じかに接することができる歓びの追求です。コピーではなくて、生の学習です。

 ただし聴く側の最大の関心は、いまの現実との接点です。これこそ古典学習欲求のもう一つの本質です。直接のあてはめではなくて、日本の現実との切り結びでの力につなげたいということでしょう。要するに日本をどうするかです。
(吉井清文著「一生に一度は「資本論」を読んでみたい」学習の友社 p104-108)

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古典を学習する上での注意二つ

 『労働組合−その過去、現在、未来』の学習指導〔本著作集第一巻所収〕を書き終ってほっとしているところです。何を考える余裕もないので、古典の学習についてかねがね考えていたことを、二つだけ記しておこうとおもいます。

 たとえば、『資本論』などを読もうとする人が必ずぶつかるのは、書いてあることの意味がわからないという問題です。それについて、エンゲルスは、『資本論』英語版の序文で次のようなことを書いています。

 「それでもなお、われわれが読者のためにとりのぞくことができなかった困難が一つある。というのは、いくつかの用語をそれらの日常生活での意味と違うだけではなく普通の経済学上の意味とも違った意味で使用していることである。しかし、これは避けられないことだった。一つの科学の新しい局面はすべて、その科学の術語の革命をふくんでいる。云々」

 この用語がわからないと古典をよんでも、実際はよんだことにはならない、というほかはありませんが、それはまた非常な努力をつみかさねなければ、とうてい本物にはならない、そこの困難は容易に「とりのぞくことはできない」性質を本来もっているわけです。

しかし考えてみれば、昔とちがって現在は教育施設も教師の数もかなりととのって来ているのですから、教師と学生とがその点で自覚的に取り組む努力をすれば、その困難をとりのぞくことはできないにしても、軽減することはできる、と思います。いずれにしても我慢のいる話ですが。

 もうひとつは、古典のつかみ方とその具体的な適用に関係した問題です。その点について、レーニンは、歴史的諸事実の科学的な分析こそが、マルクス主義の精髄だといったことがあります。

ここから考えておかねばならないのは、どんなマルクス主義の古典も、具体的な情勢のもとでの具体的な諸事実の分析から運動法則をひきだしているわけで、その運動法則がまた、必ず、特定の情勢を反映し、ある程度までその情勢による制約をうけることはまぬがれない、ということです。

 近ごろは大分少くなりましたが、目の前の現実について具体的な科学的な分析をするかわりに、マルクス主義の古典からの一節を引用してこれにかえるというやり方が──むろん私などもそれを散々やってきたのですが──よくありました。こういうやり方にたいしてマルクスは、じょうだんに「私はマルクス主義者ではない」と言っていたそうです。

こういうやり方が出てくる原因のひとつは、古典の読み方というわれわれの出発点にあるわけで、古典を、それの書かれた時代や階級関係の特質から切りはなして、何らかの先験的な真理としてひと口で呑みこんでしまうことに問題があるのでしょう。こういう学習の仕方はぜひとも改める必要があるとおもいます。

 私は、学習指導を、こんなことを頭において書きました。不完全なものではありますが、私の意図を知っていて下さる方が、そうでないよりは、何か学習の助けになるかもしれないと考えて、こういうことを書いた次第です。(『勤労者通信大学・古典教室』第一二号、一九七〇年三月)
(「堀江正規著作集E」大月書店 p47-48)

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◎古典に臨む態度……。

◎繰り返しになりますが、学習通信≠ノ引用されている科学的社会主義の古典を手元に置いても読むことが大切です。抜粋だけでは理解できません。学習通信040627 の感想メール≠ノよくあらわれています。

毎日の学習通信≠セけを独立して理解した、しようと思ってもそれは大体は一面的なものです。学習通信≠ナすら通してよんでこそ深く理解できます。そして対話の素材を提供するでしょう。

ましてや科学的社会主義の古典は、文献を手に入れ、訳者・編者の解説も合わせて学ぶのがお勧めです。しかし、まずは本文、序文、そして……、再読する≠フが深めていく上で大切だと思います。労働者の古典学習では特につづける≠アと──「あい間」に学ぶことになるわけですから──ができるかどうかがまず最初の関門になるのですから。