学習通信040703
◎工場哲学者ユア……
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最初の「労働者規制法=v(エドワード三世治下第二三年、一三四九年)は、その直接の口実(その原因ではない。というのは、この種の立法はその口実がなくなっても数世紀にわたって存続するのだから)をペストの大流行に見いだしたのであって、このペストは人口を激減させ、その結果トーリー党のある著述家が言っているように、「労働者たちを手ごろな価格で」(すなわち、彼らの使用者たちに適度な分量の剰余労働を残す価格で)「働かせることの困難が実際に耐えがたいものとなった」。
それゆえ妥当な労賃が、労働日の限界と同じく、強制法の形で命令された。ここでは労働日の限界だけがわれわれの関心事であるが、それは、一四九六年(ヘンリー七世治下)の法でも繰り返されている。その当時、すべての手工業者および農業労働者の三月から九月までの労働日は──これは決して実行されはしなかったが──朝五時から晩の七時と八時のあいだまで続くものとされた。
しかし、食事時間は、朝食のために一時間、昼食のために一時間半、四時の間食のために半時間であり、したがって、現行の工場法の規定のちょうど二倍であった。
冬期には、休み時間は同じで、朝五時から夕暮れまで労働させられるものとされた。「日賃銀あるいは週賃銀で雇用されている」すべての労働者にかんする一五六二年のエリザベスの法は、労働日の長さはもとのままにしているが、中休み時間を夏期には二時間半に、冬期には二時間に制限しようとしている。
昼食時間は一時間に限るとされ、「半時間の午睡」は、五月なかばと八月なかばのあいだに限り許されるものとされる。欠勤一時間ごとに一ペニー(約八ペニッヒ)が賃銀から差し引かれるものとされる。
とはいえ、実際には、事情は労働者にとって法典の規定よりもはるかに有利であった。経済学の父であり、いねば統計学の創始者であるウィリアム・ペティは、一七世紀の最後の三分の一期に公刊した一著作のなかで次のように言っている──「労働者たち」(厳密には、当時は農業労働者のこと)「は一日に一〇時間働き、週に二〇回、すなわち労働日には日に三回、日曜日には二回の食事をとっている。
このことから明らかなように、もし彼らが金曜日の晩に断食するつもりになり、そして、現在昼食のために午前一一時から一時までの二時間を使っているが、この食事時間を一時間半にするつもりになれば、したがって、彼らが1/20多く働き、1/20少なく消費するならば、上記の税の1/10は徴収しうるであろう」。
アンドルー・ユア博士が、一八三三年の一二時間法案を暗黒時代への後退であるとののしったのはもっともではなかったか? もちろん、この法に合まれていてペティが言及した諸規定は、「徒弟」にも適用される。しかし、一七世紀の末になってもなお児童労働がどんな状態にあったかは、次の不平からも見てとれる。すなわち、
「ここイギリスにおいては、わが少年たちは、彼らが徒弟になるときまでまったくなにもしない。そしてそれから、彼らが、一人前の手工業者になるのには、もちろん長い年月──七年──が必要である」と。
これに反して、ドイツはほめられる。なぜなら、そこでは児童は揺りかご時代から、少なくとも「少しは仕事を仕込まれる」からである。
(マルクス著「資本論A」新日本新書 p468-470)
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第ニに──孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」販売者としての労働者が、資本主義的生産がある一定の成熟段階に達すると抵抗できずに屈服するということは、若干の生産諸様式においては労働日の規制の歴史によって、他の生産諸様式においてはいまなお続いているこの規制をめぐる闘争によって、実に明白に証明される。
それゆえ、標準労働日の創造は、資本家階級と労働者階級とのあいだの、長期にわたる、多かれ少なかれ隠されている内乱の産物なのである。この闘争は近代産業の範囲内で開始されるのであるから、それは、まずもって、近代産業の祖国であるイギリスで演じられる。
イギリスの工場労働者たちは、単にイギリスの労働者階級ばかりでなく近代的労働者階級一般の戦士であったのであり、同じくまた彼らの理論家たちも資本の理論に最初に挑戦したものである。
だからこそ工場哲学者ユアは、「労働の完全な自由」のために雄々しくたたかう資本を相手にして、イギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制」を彼らの旗じるしにしたのは、拭いがたい不名誉であると非難する。
(マルクス著「資本論A」新日本新書 p519-520)
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いま一方の国民、つまり金持ちたちは、彼らの「身近かな隣人たち」の生命が破壊されつつあることを一体何と考えたのだろうか? 金持ちたちは、工場の労働条件、つまり長い労働時間や児童労働にたいしてどんな態度をとったのだろうか? 彼らの多くは、これらの問題には全然無関心だったし、たとえ関心を払ったとしても、それらの出来事はやむをえなかったのだという考えで満足した。
バイブルは「貧しきものは常に汝らと偕におれども」とは述べなかっただろうか? 同胞との関係について、バイブルが彼らと全くちがったことを語っても、彼らの心は煩わされなかった。彼らは見ようと思うことだけしか読まず、聞こうと思うことにだけにしか耳を傾けなかった。
こうして、当時の金持ちたちは今日のぼくたちがまったく恐ろしいことだと思うことさえも適当な正しいことだと考えた。学校へ行かないで一日一四時間働くことが、子供にとって果して悪いって? ナンセンスだ! ──と綿工場主のG・A・リー氏はいった。彼の工場では児童の労働時間は、午前六時から午後八時までだったのだ。
「子供の頃から服従と勤勉と規律の習慣をつけることよりも、道徳にとって有益なことはない。」
リー氏は貧乏人の道徳に関心をもっていた。王立協会の会長、ギディ氏も同様だった。彼は、労働階級の子供たちのために小学校をたてる提案に反対した。ギディ氏の興味ある議論はつぎの通りだ。
「貧乏な労働者階級に教育を授けることが……結局彼らの道徳と幸福にとって有害なことが分るだろう。それは彼らを、彼らが社会上の身分によって運命づけられた農業その他の肉体労働を要する職業のなかの善良な召使にはしないで、人生における自己の運命に絶望することを教え……彼らに危険なパンフレフトを読ませることになるだろう……それは、彼らを目上の者にたいして不遜にするだろう。」
だが、私たちが当時のもう一人の証人の言葉を信ずるならば、貧乏人たちは彼らにあたえられた運命に絶望するどころか、かえって逆にそれに感謝すべきあらゆる理由をもっていたのだ。人道への偉大な賜物の一部、すなわち工場制度の恩恵にあずかった者は、まことに幸福だ。これは少くともアンドリュー・ユーアの信念だったのだ。彼は一八三五年につぎのようにかいた。
「最近の旅行中に、……私は数万の年寄りや若者や中年者の男女をみた。……彼らは十分な食べ物や着物や家具をもち、ただ一つの毛孔からも汗をださず、夏の太陽と冬の霜から防がれて、わが……流行ずきな貴族たちが住んでいる首府の住宅よりずっと風通しのいい衛生的なアパートに住んでいた。……その数と価値と効用と構造の便宜な点では、アジアやエジプトやローマの専制主義の誇る記念物よりずっとすぐれている壮大な建物……これが工場制度なのだ。」
ユーア氏はただ旅行中に工場にたちよっただけで、決して工場のなかで実際に労働したのではないということを注意しておいた方がいいだろう。
ユーア博士が工場制度への讃歌をうたい始めた頃よりもずっと前に、万人の僧侶が貧乏人に慰めと助けを与えた。これはなみの僧侶ではなく、バレー副僧正その人だった。金持ちたちが幸福に暮しているのに自分たちの暮しはまことにみじめだと考えて、満たされない気持をもっていた労働者階級の人々に、この偉い僧侶は慰めの言葉を贈った。
「くりかえして云うが、貧乏が……必ず人々に課し与えるものは、苦痛ではなく快楽なのだ。節約はそれ自身で快楽だ。それは注意と努力の練習なので……人に満足をあたえる……こうした満足は、豊富さのなかでは見失われてしまう。はかり知ることのできないほど大きな元本からかねをとり出しても、それは決して快楽ではない。……貧乏な暮しをしている人々にあたえられるもっと大事な利益は、彼らが子供を育てるのに必要なものをたやすく手に入れうることだ。貧乏人が子供を育てるために必要なものは、すべて『勤勉と無欲』という二つの言葉のなかに含まれている。」
もし馬鹿な貧乏人が非常に頑固で、貧乏が本当に快楽だとはどうしても信じない場合、副僧正はいま一つの快楽を用意している。貧乏人は金持ちがひまなのをうらやむが、これは大間違いだ! 本当にうらやむのはむしろ金持ちなのだ。なぜなら、ひまな時間も、はげしい労働のあとでなければ決して楽しくはないからだ。彼の議論はつぎの通りだ。
「金持ちがもっているもののなかで、貧乏人がうらやむいま一つのものは彼らの安楽だ。ところが、ここでは貧乏人はすっかり間違っている。……休息とは労働を休止することだ。休息の喜びは疲労を知った人以外には決してあたえられないし、味わうこともできない。金持ちは、休息が貧乏人にあたえる回復と快楽をうらやましく眺めるのだ。」
バレー副僧正がこうした慰めの言葉をかいたのは、一七九三年のことだ。諸君が記憶しておられるように、この年は、フランスの貧乏人たちが彼らの国の特権階級を打ち倒そうとした年だった。フランス革命は血なまぐさい事件だった。イギリス人の金持ちたちはこれを好まなかった。
彼らは、「やつらの首をたたききれ!」という恐るべきフランスの思想が海峡を渡ってきて、イギリスの貧乏人たちに伝染するかもしれないという考えを憎んだ。そこでこの貧者の友なる副僧正は、過度に熱狂しがちな貧しいイギリス人に警告したのだ。
「望ましい変化、しかもただ一つの望ましい変化は、徐々に進歩する改善だ。……これは成功した工業の自然の果実だ。……これは公けの秩序と安寧の状態のなかではじめて……期待することができるが、その他の状態のなかでは絶対に期待されない。……金持ちの地位や財産を熱望したり、これを熱望するのあまり暴力によるか、公然の騒動と混乱によってこれを奪いとろうとすることは、ただ邪悪なばかりでなく愚かなことだ。」
イギリスの貧乏人たちは、副僧正の忠告をうけ入れた。彼らは「金持ちの財産を奪いとろう」とはしないで、時がたつにつれて、副僧正が「成功した工業の自然の果実」だと約束したあの「徐々に進歩する改善」を期待した。だがこうした改善はついにやって来なかった。そこで、彼らはこれを闘いとらねばならなかったのだ。
たとえば、彼らは労働時間の短縮のために闘かった。そして彼らのこの戦いには、一四時間ないし一六時間の労働時間ではあまり長すぎるという点で、彼らと意見を同じくした人道的な若干の金持ちたちが参加した。これらの金持ちたちの一部は、この戦いを議会のなかに持ち込んだ。
彼らは、労働時間を一日一〇時間に制限するための賛成演説を行い、いく人かの仲間を説得して、自分たちとともに一〇時間労働のために一票を投じさせた。ところが、このことは多くの人々の不興を買った。そしてこのなかには例のユーア博士もまじっていたのだ。彼はひどくおこったが、それはつぎのような興味ある理由によるのだ。
「イギリス下院の九三名の議員が、成年労働者の仲間に一日一〇時間以上労働する苦痛をなめさせないために投票しうるということを知ったら、冷静な心をもつ人々は、きっと驚くべきことだと思うだろう。これは臣民の自由にたいする干渉であり、キリスト教国のいかなる他の法律でも、しばらくといえどもこれを黙許することはできぬ。グロースターシャーの工場主は、正当にも、この提案を『最も暗黒な時代にふさわしいもの』と特徴づけが。」
ユーア博士はバレー副僧正と同様に労働者の友だった。だから、彼はグロースターシャーの工場主と同様に、雇い主の好きなだけ働くという労働者の自由に干渉する、こうした提案に激怒した。もし社会がイギリス人から、死ぬまで働かされるという譲渡することのできない権利を奪いとるならば、イギリス人の歴史的自由は一体どうなるだろうか?
労働時間の制限は人間の自然的自由への干渉だというこの議論は、非常に重要だった。この議論はイギリスでもアメリカでもくりかえして利用された。この議論をもち出した工場主は(奇妙なことには、労働者自身はこの点について、彼らの自然的権利が無視されたことをちっとも気にかけなかった)、この議論を最大の経済学者であり、自由放任の使徒であるアダム・スミスから受けとった。ぼくたちがこれまでみてきたように、重商主義の制限政策にたいする第一の反対者であるスミスがつよくこうした干渉に反対したのは事実だった。エ場主たちは『国富論』からつぎの引用をすることができた。
「すべての人が彼自身の労働のなかにもっている財産は、もともとすべての他の財産の基礎だから、最も神聖で侵すべからざるものである。貧乏人の世襲財産は彼の腕の力と器用さのなかにある。彼がこの力と器用さとを、隣人に害を加えないで、彼が正しいと考えるやり方で使用することを妨げることは、この最も神聖な財産にたいするあきらかな侵害だ。……彼が雇傭に適しているかどうかの判断は、たしかにこれに強い関心をもつ雇い主の考えにまかせておけばいい。」
もちろんアダム・スミスは、重商主義の統制と制限に反対してこれを書いたのだ。工場主が、一七七六年に書かれたこの引用を種類のちがう統制と闘うために利用するならば、いささか濫用のそしりを免れないかも知れぬ。だが、彼らにとって、スミスを引用することが正しいと仮定しよう。ところで正しくなかったことは、彼らがスミスの言葉を、それが自分たちの利益にならないときには、忘れてしまうことだった。
自分たちの行為を正当づけるものは、すべてスミスからえらびとり、自分たちの行為に反対するものは、すべてスミスのなかから見のがすというこうした習慣は、支配階級にとっては有利だったが、労働階級にとっては災難だった。しかもこの習慣は一〇〇年以上にわたって行われたのだ。
労働者は、自分の運命を改善するためには、一体どうすることができたのだろうか? 諸君だったらどうしただろうか? 諸君がメリヤスの手編職人としてかなりな暮しをたてていたと仮定したまえ。ところが、そこに工場が建設されそのなかに機械が備えられて、その機械がまもなく大量のメリヤスを廉価に生産することになり、そのためにこれまで諸君が営むことのできた暮しがだんだん苦しくなって、ついに飢餓の淵に臨んだと仮定したまえ。
諸君は機械が工場に入る前の日々を思いうかべるだろう。そして以前のつつましい暮しも、諸君の白昼夢のなかではぜいたくな暮しのように思われるだろう。そこで、諸君はまわりを見廻し、諸君がおちこんだ貧乏に身慄いするだろう。諸君はすでに何度も何度も試みたように、自分でその原因をたずねるだろう。そうして諸君は同じ結論に到達するだろう。それは機械だ。人々を仕事から放り出し、商品の価格をひき下げたのは機械だ。機械──敵はそこにいた。
絶望した人々がこうした結論に到達したとき、つぎの一歩は避けることができなかった。
それは機械の破壊なのだ。
(レオ・ヒューバーマン著「資本主義経済の歩み -下-」岩波新書 p42-48)
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たくさんの病気がブルジョアジーの卑しい金銭欲だけのために、ひきおこされているのだ!
たんにブルジョアジーの財布をふくらませるためだけに、女性は子どもを生めない身体にされ、子どもは障害をもつようになり、男は虚弱にされ、手足をつぶされ、あらゆる世代の人びとが衰弱し重い病気にかかって滅びるのだ!
そしてもし個々の野蛮な事例、たとえば、子どもが監督によって裸のままベッドからひっぱりだされ、服を腕にかかえたまま、なぐられたり、蹴られたりしながら工場へ追いたてられていった例とか、眠っている子どもをなぐっておこした例とか、それでも仕事中に眠ってしまった例とか、あわれな子どもがそれでも眠っていて、機械がとまったあと監督にどなられてとび起き、目をとじたまま自分の仕事の動作をつづけていた例とかを一つひとつ読むならば、
また、子どもが疲れきってしまって家へ帰ることもできず、眠るために乾燥室の羊毛の下にかくれていて、ベルトでなぐってやっと工場から追いだしたとか、何百人もの子どもが毎晩疲れきって家に帰ってくるので、眠気と食欲不振のために夕食を食べきれなかったり、お祈りをしているあいだにベッドのところでひざまずいたまま眠ってしまったのを両親に見つけられたとか、
こういうあらゆることや、そのほかたくさんの破廉恥な、恥ずべき行為がこの一冊の報告のなかで、すべて宣誓のうえで証言され、多数の証人によって確認され、委員たち自身が信用できると言明している人びとによって陳述されているのを読むならば、そしてこの報告が、以前のトーリ党の報告をくつがえし、工場主たちの心の潔白さを再現するための「自由主義的な」報告でありブルジョアジーの報告であって、委員たち自身ブルジョアジーの側に立ち、あらゆることを心ならずも報告しているのだということを考えるならば
──どんなことを犠牲にしても自分の財布をふくらませることしか考えていないくせに、人類愛と自己犠牲とを自慢しているこの階級に、憤激しないでいられようか、恨みをいだかずにいられようか。しかし、ブルジョアジーがどのように語っているかを、かれらのえりぬきの下男であるユーア博士の口をとおして、聞いてみよう。
彼はその著書『製造業の哲学』二七七ページ以下で次のように語っている。ある人が労働者に、君たちの賃金は君たちの払っている犠牲とまったくつりあっていないのだよと、こっそり教えたので、そのために主人と労働者とのあいだの良好な関係がこわされてしまった。
そうではなくて、労働者は勤勉と気くばりによって気にいられ、主人の役に立つことを喜びとすべきである。そうすれば彼らも監督になり、支配人になり、ついには共同出資者となって、こうして(おお、知恵者よ、お前は鳩のように語る!)「同時に市場での労働需要をふやした」であろう!──「労働者がこんなに騒ぎたてなければ、エ場制度はもっと発展し有益なものとなっていたであろう」。
そのあと、労働者の多くの反抗についての哀歌が長々とつづき、もっとも高賃金の労働者である細糸精紡工のストライキについてふれたときには、次のような素朴な意見をのべている。「たしかに、彼らが有給の委員会を維持し、彼らの労働にとってあまりにも栄養がありすぎ、刺激がつよすぎる食べ物によって、神経性肥大になることができたのは、高賃金のせいであった」! ブルジョアが児童労働についてどんなことをいっているかを、聞いてみよう。
「私はマンチェスターとその周辺で多くの工場を訪問したが、子どもが虐待されたり、体罰をうけたり、気分を害されたりしているようなことは、一度も見たことがない。子どもたちはみんな陽気で、活発で、筋肉を軽く動かしてたのしみ彼らの年齢にふさわしい動きを十分にたのしんでいるように見えた。工場の様子は、私の心に悲しみの気持をおこさせるどころか、私をつねに明るい気持にさせるものであった。
ミユールの走錘車(そうすいしゃ)がもどってくるとすぐ、彼らが切れた糸をまたつぎあわせるのを見たり、またそのほっそりとした指を二、三秒間動かしたあと、糸の紡出と巻きあげがふたたび終わるまで、ありとあらゆる姿勢でたのしんでいるのを見るのは、とても愉快であった。
こういう元気な妖精の労働は、練習をつめば上手になってたのしめる遊戯と同じようなものと思われた。彼らは自分たちの器用さを知っていて、外来者の誰にでもよろこんでそれを見せていた。疲労のあとはまったくなかった。というのは工場から帰ってくると、学校から帰ってきた若者と同じように元気に、近くの運動場で走りはじめたからである」。
(あたりまえだ。あらゆる筋肉を動かすことが、かたくなった筋肉にも締まりのなくなった筋肉にも直接に必要ではないかのようないい方だ! だがユーアは、このような瞬間的な刺激は二、三分後には消滅してしまわないかどうかを、待つべきであった。さらにユーアは、こういうことを、五、六時間の労働のあとの昼間だけは見ることができたが、夜は見ることができなかったのだ!)
──労働者の健康にかんしては、ブルジョアジーはまったく厚かましくも、先に多くの箇所で引用し、抜粋した一八三三年の報告を、これらの人びとがすばらしく健康であることの証拠としてあげ、ばらばらに抜きとった引用によって、労働者にはるいれきの跡はまったくなく、またまったく正しいことなのだが、工場制度は労働者をあらゆる急性の病気から解放した(その代わりに労働者があらゆる慢性的な病気に悩まされていることには、もちろん彼らは黙っている)ということを証明しようとしている。
わが友ユーアがイギリスの公衆にたいして、ひどい嘘を信じこませようとしているその厚かましさを理解するためには、この報告が三冊の厚い二つ折版からなっており、それを徹底的に研究することなどは、イギリスの肥満したブルジョアジーには思いもよらぬことだということを知っていなければならない。
なおわれわれは、自由主義的なブルジョアジーによって与えられ、のちに見るように、工場主には必要最低限の制限しか加えなかった一八三四年〔一八三三年〕の工場法について、ユーアがどのようにのべているかを、聞いてみよう。この法律、とくに就学義務は、工場主にたいするばかげた横暴な処置である。これによって一二歳未満のすべての子どもは失業する。
そしてその結果はどうなるか? 子どもたちは容易で有益な仕事から解雇され、いまやなんの教育もうけられず、暖かい紡績室から冷たい世間へつきだされ、乞食と盗みだけで生きていくのだ──この生活は、工場と日曜学校で絶えず改善されていた状態とくらべて、悲しむべき対照をなしている! この法律は、博愛という仮面のもとに、貧民の苦しみをさらにつよめ、良心的な工場主の有益な仕事を、まったくとめることはないにしても、いちじるしく妨げるであろう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 -上-」新日本出版社 p244-247)
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労働者は、その存在そのものにおいて、階級的支配に対する抵抗なのである。たとい、政府が祭典とよんでいても、メーデーの階級的示威たる本質にかわりはない。ただ、それが抑圧しがたい運動であるからこそ、権力は「祭典」と称してみとめざるをえないのである。
このことは労働法についても同様である。労働者の権利をみとめるのは、支配階級がそれよりほかに労働者をつかみえない社会的事実があるからである。権利を否定して労働者を圧服することが可能であり、かつ、利益だとなれば、支配階級はいつでも抑圧にのりだすだろう。
(沼田稲次郎著「運動のなかの労働法」労働旬報社 p8-9)
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◎「金持ちがもっているもののなかで、貧乏人がうらやむいま一つのものは彼らの安楽だ。ところが、ここでは貧乏人はすっかり間違っている。……休息とは労働を休止することだ。休息の喜びは疲労を知った人以外には決してあたえられないし、味わうこともできない。金持ちは、休息が貧乏人にあたえる回復と快楽をうらやましく眺めるのだ。」と。
◎21世紀の今日も聞く内容ばかりです。