学習通信040704
◎「生命のない物のかたまり」……。
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ある「できる高校生」の話
ふと、ここで、朝永振一郎さんの編集になる『物理学読本』(一九五二年、みすず書房)のことを思いだしました。「月はなぜ地上に落ちて来ないか、地球の重さはどうしてはかるか」というのが、全七章からなる本文の、その第一章の標題でした。三十五年たった今日なお、つい昨日のことのように思いだせる、そういうあざやかな印象をうけました。「この本は、ただ知識を与えようとしているのではなく、考え方を与えようとしているのだ」と感じたのです。
ことわっておきますが、私は、正しい知識をたくわえること自体のもつ意義を、少しでも軽く見ようというのではありません。たとえば労働三法についての正しい知識を少しでもおおくもつことが、それだけでおおきな力であることは明らかです。
ただし、知の力とはけっきょく情報量の力にすぎないかといえば、それはちがう、といいたいのです。情報量ということでいえば、しょせん人間の頭は百科辞典におよばず、コンピューターにおよびません。でも、どのような百科辞典もコンピューターも、それを使いこなす人間をぬきにしたら、生命のない物のかたまりにすぎないでしょう。考え方を学ぶことの意義を、あえて強調するゆえんです。
「基本的人権とは何か」という出題には優等生的な答案を書くが、「身のまわりの社会で、それがまもられている例や、あるいはそれがじゅうりんされ、侵害されている事例をできるだけおおくあげてみよ、と問うと、ほとんど事例をあげることができず、さらには自分たちの学校やクラスで日常化している弱い者いじめや、いやがらせ、人格をきずつける行為等をあげることはできない」、そのような「できる高校生」についての報告(武藤徹、近津経史「青年期における自然観、社会観の形成」)もあることだし、それは必ずしも「できる高校生」だけの話ではない、と思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 36-38)
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なぜ「思うこと」が必要なのか
しかし、孔子は、そのうえで「思わなければダメだ」と言っています。それでは「思う」ことと「学ぶ」こととは、どのような関係にあるのでしょう。そして、そもそも「思う」こととは、どういうことなのでしょう。
私は、孔子が言いたかったのは、次のようなことだと思うのです。各人がなにか「これが問題だ」と思うことを持っていて、自分の頭で考えてその解決法を求めているときに、実際にその問題を解決するためには知識が必要だから、知識を学ぶ。そういうことを言っているのだと思います。
ただそこにあるものを学ぶ、ということではありません。教師が教えてくれるから学ぶのではない。個人が自分自身で問題を考えていて、その問題を解くために知識が必要だから学ぶのです。そのとき、知識は「知的な道具」に転化されるわけで、自分の見つけた問題を、その道具を使って解こうとするのです。
「これが問題だ」と感じること、これを日本語では、「問題意識」といいます。ある問題意識が自分のなかにあり、そのことについてよく考えること、それが「思う」ことです。それは誰かに与えられたものではなくて、自分のなかから出てきた問題意識です。それがないと本当の意味でものごとを理解することにならない。だから教師が教えてくれることを学ぶだけじゃダメなんですね。学ぶだけでは、自分自身の問題を解決できないでしょう。
問題解決をするために必要なのは、まず問題を意識することです。だから、意識化された問題が自分自身のなかにあることが学ぶことの動機になります。「思うこと」と「学ぶこと」は、このように関係しているわけです。
もし「学ぶこと」が客観的な事実であるとすれば、「思うこと」は主観的な可能性の問題です。その問題を解決することは未来の可能性であり、まだ解けていないわけです。それが「問題意識」という日本語が表していることです。
これはいい言葉ですね。英語にはなりにくい、少なくとも英語では、それほど使わない言葉ですが、日本語ではよく使います。たぶんドイツ語からきているのでしょう。ドイツ語では「プロブレマティーク(Problematik)」という言葉を使います。ドイツ語の「プロブレム(Problem)」は「問題」で、「問題性」が「プロブレマティーク」です。
「思う」というのはプロブレマティークの問題、問題性の意識化、です。それがないとものごとを本当に理解したことになりません。そもそも自分で問題を持っていなくて話をただ聞いているだけでは、その知識はただ右から左へと素通りしていくだけでしょう。
試験勉強の時には覚えていても、試験が済んだら忘れてしまいます。しかし、自分の問題意識にひっかかってくることだったら、そういうことにはなりませんね。孔子が問題意識がなければ、ものごとをよく理解できないと言ったのは、おそらくそういう意味なのです。
しかし問題意識だけがあって知識がないとすれば、それは「危ない」ことになります。「危ない」とは、こういうことをしたいと思ったときに、よく考えずに突人すると、とんでもない結果を生ずることがある、ということです。それを『論語』では「殆(あやう)い」という言葉で表しているのです。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p6-8)
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◎労働学校でいう学習の本筋≠いっています。