学習通信040705
◎竹中・河合氏の描く人生……「全面降伏」の人生……と。

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 景気をよくするためには、やはり経済がある程度成長することが必要です。ただし、何もせすに生活水準を高くすることは不可能なのです。
 もしもあなたが、「のんびり生きたい、競争は嫌だ」と考えるなら、それは一つの生き方です。そういう選択の自由を私たちは持っています。ただし、競争して頑張っている人にも、頑張る自由があります。そして、頑張った人にはよいことがある、という社会にすることも大切だと思います。
(竹中平蔵著「あしたの経済学」幻冬舎 p47)

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「幸福」になるためには断念が必要である

 人間は誰しも幸福になりたいと願っている。不幸になりたいなどと願う人はまずないだろう。そして、不思議なことに、「私は幸福だ」という人は少なく、不幸を嘆く人はあんがい多いのではなかろうか。人間というものは不思議なもので、「自分が行ないたいと願っている善を行なうことは少なく、悪を行なうことが多いのはどうしてか」と嘆いた聖人が居たが、人間というものは、願っていることとすることが異なる存在なのだろうか。

 カルメンという歌劇は皆さん御存知のことと思う。カルメンという女性がホセを誘惑して、ホセはそのために自分の軍人としての職を擲ってまで、カルメンを愛するようになる。しかし、カルメンはすぐに闘牛士のエスカミリオを好きになってしまい、怒ったホセはカルメンを追いかけてくる。ホセが来ているから危いとカルメンの友人たちが忠告するのに彼女は逃げない。ホセはカルメンを見つけて、よりを戻して欲しいと言う。その場をうまく収めて逃げればいいと思うのに、カルメンはホセをもう愛していないと、彼に貰った指輪を棄てるので、激怒したホセはカルメンを殺してしまう。

 これはお話と言えばお話である。しかし、そのなかにはいり込んで見ていると、カルメンが何であんな馬鹿なことをやったんだろう、などと思えてくる。あれだけ愛されたのだからホセで満足しておけばよかったのに! などと思ってみたり、エスカミリオを好きになったにしても、もう少し上手にホセから逃げ出せばよかったのにとか、わざわざ目の前で指輪まで投げ棄てなくともとか、凡人としてはいろいろ心を痛めるのである。

 ところで、歌手の成田絵智子さんという方がいつかテレビで語っておられたことだが、自分は何度と数知れぬほどカルメンを演じているが、いつも最後にホセに胸を刺される場面で、カルメンとして「ああ、これでよかったのだ」と思う、とのことである。

 これは、なかなか示唆深い言葉である。オペラ歌手として、おそらくカルメンになったのと同じ気持で演じてきた人が、最後に殺されるときに「これでよかった」と思う。おそらく、カルメンが実在していたら、おなじように思ったのではなかろうか。だからこそ、カルメンがこれほどまでに人気を博すのではなかろうか。音楽の素晴らしさがあるのはもちろんだが。

 このとき、「これでよかったのだ」とは言われたが、「これで幸福だった」とは言われなかったところが興味深い。両者の間には微妙なニュアンスの差があると思われる。

 ところで、カルメンがエスカミリオを好きになっても、それを断念していたら幸福だったろうか。ホセと何とか一緒に暮らし、孫まで生まれて、密輸入者のおばあちゃんとして一生をすごすのは幸福だろうか。あるいは、ホセに最後に出会ったとき、何とかごまかして逃げ、あちらをごまかしたり、こちらをごまかしたりして生きてゆくとなると、それは彼女のプライドが許さないであろう。

 表題を見られたときに、「幸福」という文字がわざわざ「 」(カツコ)でくくられていることに気がつかれただろうか。人間の幸福ということは難しいことだ。何か真の幸福かは暫(しば)らくおくとしても、一般的な意味において、「幸福」を手に入れたい人は、何らかの断念が要るのではなかろうか。この問題をますます難しくするのは、これに他人の「幸福」がからんでくることである。「れでよかったのだ」と言うときに、それが他人の「幸福」を犠牲にしてもいいのかという疑問が残る。

 他人の「幸福」のために何らかの断念を行なったという人は、あんがいにある。それは時に美談にさえなる。誇りにしている人もある。それは確かにそうだとは思うものの、あまり自慢を聞かされたりすると、今度は逆の気持が起こってくる。この人は「これでよかったのだ」と自ら言えるような人生を生きることが怖いので、うまい弁解を見つけるために、他人の「幸福」などという看板を借りてきているのではないか、と思ったりもする。

 毎度のことながら、ここにも正しい答などはない。各人は己の器量と相談しながら、自分の生き方を創造してゆくより仕方がない。「幸福」は大切なことながら、人生の究極の目標にするのはどうかと思う、というところだろう。

 断念せずに突き進むのもひとつの生き方である。そのときは、「これでよかった」と言えるにしても、自分や他人の「幸福」を破壊することがあるかもしれぬという覚悟は必要である。覚悟もなしに自分のやりたいことをやって、「幸福」が手に入らぬと嘆いている人は、「全面降伏」の人生ということになろう。
(河合隼雄著「こころの処方箋」新潮文庫 p222-225)

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自由と民主主義

 「自分が自分の人生の主人公」ということは、個人の自由ということを基本にしています。個人の自由の主張が民主主義の思想の出発点をなす、といってもいいでしょう。英語のlibertyあるいはfreedomに相当するものとして「自由」という語が定着する以前には、「自主」という語がこれにあてられたこともありました。「民主の基礎は自主」というふうにいえば、この関係が一目で明らかになる、と思います。

 ところで、このように個人の自由の主張と民主主義とがその基本において重なりあうものだとすれば、なぜ今日しばしば私たちは「自由と民主主義」といういい方を──「自由」に「民主主義」をつけたしていういい方をするのでしょうか? それは、たんにことばのあやにすぎないのでしょうか?

 そうではない、と私は思います。そして「他人の自由を奪う自由も自由のうちとしてみとめられるか」というふうに問題を立ててみれば、「自由と民主主義」といういい方がふくんでいる積極的な意味がおのずからうかびあがってくるように思います。

 「他人の自由を奪う自由」も、形式的には自由のうち、といえるかもしれません。しかし、それは実質的には何を意味するでしょうか? 公害まきちらしの「自由」、暴力団がわがもの顔に街をのし歩く「自由」──それは一般市民にとって何を意味するでしょうか? 「他人の自由を奪う自由」が、それを奪われる側にとって、現実の不自由そのものとしてあらわれることは明らかです。

 こうした「自由」は、結局のところ、少数者だけが(あるいはただ一人だけが)自由で、あとはすべて自分の人生の主人公であることを奪われるという専制主義・独裁主義に──つまり民主主義の反対物に──いたりつくでしょう。

 「自分が自分の人生の主人公」ということをつらぬくためには、他人の自由を奪う自由はみとめられない、ということを明確にする必要があります。そしてこの「他人の自由を奪う自由はみとめられない」ということは、近代民主主義の重要な思想内容にぞくするものであって、「自由と民主主義」というぐあいにならべていわれることの積極的な意味はここにある、と思うのです。

「みんなが主人公」ということ

 「みんなが主人公」ということを民主主義の積荷目録の第二に数えたのは、そういう意味です。そして、この「みんなが主人公」ということは、「自分が自分の人生の主人公」ということとともに、ヒューマニズムの欠かしえない要素でもあるのです。

 第一章で田中角栄氏について考えたことを思いだしてみてください。ある意味では角栄氏は「自分が自分の人生の主人公」ということを頑固につらぬきとおしてきた人物、といえるかもしれません。だからといって角栄氏を、民主主義者であるとかヒューマニストであるとか思う人は一人もいないでしょう。決定的なものが角栄氏には欠けているのです。その欠けている決定的なものとは何でしょうか? それは「みんなが主人公」ということです。この観点が彼には決定的に欠けているのです。

 念のために。「みんなが主人公」という観点が大事だということを、もっぱら消極的なかたちでだけうけとることは正しくない、と思います。つまり「ほんとうはやりたいし、やる自由が自分にはあるのだけれど、それが他人の迷惑になるとすれば仕方ない、ひかえなければならない」というふうにだけこれをとらえてはならない、ということです。

 先ほど私は、ある意味で角栄氏は「自分が自分の人生の主人公」ということを頑固につらぬきとおしてきた人物といえるかもしれない、といいましたが、あくまでこれは「ある意味で」の話です。

角栄氏が追求してきた「自由」、実現してきた「自由」はすべて、他人の犠牲の上にのみなりたちうるようなものでした。そういう「自由」を追求し実現することをつうじて角栄氏ははたして自分を人間としてゆたかにできたでしょうか? 自分を人間としてますます貧しくしてきたのではないでしょうか? 

他人の犠牲の上にのみなりたちうるような自由とは、じつは「自分を人間としてダメにするような自由」にほかなりません。そんな「自由」を追求するのは、自分を(自分の理性を)卑小な欲望の奴隷にすることです。

 そんなのではない、真の自由、理性的な自由、理性的な人間としての自立・自律にもとづく自由が問題なのであり、そのように問題を立てるなら、「自分が自分の人生の主人公」ということと「みんなが主人公」ということとは、じつは同じメダルの表と裏との関係にあるものとしてとらえられてくるはずなのです。

 「では、スポーツでは?」という人があるかもしれませんね。「スポーツで一位をめざすのはどうなるのか? 他の者を。犠牲にしなければ一位は獲得できないではないか?」と。

 でも、一位のとり方にもいろいろあります。競争相手の練習を故意に妨害して自分が一位になる、というやり方もあります。しかし、そんな一位は、少しもたたえられるに値しません。「そんなのはスポーツ精神に反する」と誰もがいうでしょう。大切なのはここでもやはり「みんなが主人公」ということです。みんなが思う存分力を発揮して、そこで獲得された一位であってこそ意味があるのです。

 そういう点からいえば、一部の選手だけを特訓して、それがよい成績を収めたからといって、それで国民のスポーツ水準が上がったなどということはできませんし、その「成績」をながく持続させることもできないでしょう。わが国のスポーツには、まだまだそういう弱点があるのではないでしょうか? 国民全体がスポーツに親しみ、その分厚い層に支えられてすぐれた選手が出てくる、ということが──「みんなが主人公」ということが──必要なのです!
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p69-74)

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◎参議院選挙で問われています。

◎学習の主人公は受講生≠深めよう。