学習通信040706
◎恐慌のメカニズム……

■━━━━━

恐慌

 読んで字のごとく、人々が「恐れ慌てる」状況。英語でも同様で、Panicと言います。森のなかで人が突然パン(牧羊神)と出会ったときの状況がパニックです。パンは泰西名画にいろいろな姿で描かれていますが、本来はものすごく恐ろしい顔をしているのです。薄暗い森のなかで、そんな恐ろしい顔が突然ヌーッと現われたら、人は「周章狼狽(しゅうしょうろうばい)、なすところを知らず」の状態に陥る。その状態がパニックです。まさに恐慌ですね。

 具体的には、好景気の頂点から経済が不意にドカンと落ち込むこと。好景気に酔いしれているところに不意打ちをくらい、人々は慌てざるをえません。しかし経済は、しょっちゅう上下運動をしています。好景気の最中だって、一本調子で拡大がつづいているとは限らない。落ち込みはちっとも珍しくない。では、どんな落ち込みなら恐慌なのか。それをはっきりさせる必要があります。どんな景気後退、どんな不況でも、すべて恐慌と呼ばないと気のすまない人もいますが、私は反対。そう呼ぶには三つの条件が必要だと思います。

 第一。「不意に」です。予測を越えてです。一九六三年、アメリカのヶネディ大統領の経済諮問委員会の委員トービンは、「われわれはいまや半年先の経済成長率、失業率、インフレ率をコンマ以下二桁の精度で予測できる」と豪語しましたが、もちろん、はかない強がりでした。たしかに経済学は予測能力を向上させてはきた。でもまだそんなに威張れたものではありません。それに、予測が完全にできさえすればパニックは起きないか、避けられるか。それが問題です。かりに「二〇××年の何月何日に東京に関東大震災クラスの地震あり」と正確に予測できるとして、パ二ックは起こらないか。その予測が出ることで、パニックが起こるにちがいありません。

 ということは、第二に、事態のコントロールがむずかしい、制御不能性が特徴だということです。そして第三に、制御困難の理由として、事態はそれ自身のエネルギー、メカニズムで累積的に悪化する、つまり累積性があることです。どこかの企業が倒産すると、そこと取引していた別の企業も倒産に追い込まれるというような連鎖反応が経済にはある。山火事が焼くべき山がなくなれば止まるのと同様、行きつく所まで行くまでは、事態が自動的に進むという性格が経済にはあります。恐慌が特定の産業の範囲内でおさまるものを部分恐慌、経済全体まで広がるものを、大恐慌と言います。

 史上に名高いのは一九二九年の大恐慌、世界恐慌です。九〇年代に大恐慌発生と、予言する声もあります。恐慌は人間が市場経済を制御する能力を失うときに起こる。
(岸本重陳著「経済のしくみ一〇〇話」岩波ジュニア新書 p160-161)

■━━━━━

 まったくの話、最初の全般的恐慌が起こった一八二五年このかた、商工業界全体は、すなわち、文明諸国艮全体とその付属物になっている多かれ少なかれ未開の諸国民との生産と交換とは、だいたい一〇年に一回、めちやめちやになるのである。

交易は停滞し、市場はあふれ、生産物は山と積まれたままで売れ口がなく、現金は姿を隠し、信用は消滅し、工場は操業を停止し、労働者大衆は生活手段をたくさん生産しすぎたので生活手段にこと欠き、破産に破産が続き、強制競売に強制競売が続く。

停滞が何年か続き、生産力も生産物も大量に浪費され破壊されると、ついには山積みにされていた大量の商品が多かれ少なかれ下がった値段ではけていくようになり、やがて生産と交換とがしだいにふたたび動きはじめる。

その足はこびはしだいに速まって速歩(はやあし)となり、産業上のこの速歩は駆歩(かけあし)に変わり、この駆歩は、歩度を速めて、ついにふたたび工業・商業・信用・投機の本式の障碍物競馬の手ばなしの疾駆となり、最後に命がけの跳躍をやったのち、またしても──恐慌という壕のなかにいきつく。そして、こういうことが絶えずくりかえされるのである。

いまではわれわれは、一八二五年以来まる五回もこういうことを体験しており、この瞬間(一八七七年)にその六同目を体験している。そして、こうした恐慌の性格は非常にはっきり現われているので、フーリエが〔『産業的・共同社会的新世界』のなかで〕最初の恐慌をcrise plethorique〈過剰からくる恐慌〉と名づけたのがそのすべてにあてはまるほどである。
 恐慌では、社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾が、すさまじく爆発する。商品流通はひととき破壊される。流通手段である貨幣は、流通の障碍になる。商品生産と商品流通との法則は、すべて逆立ちする。経済的衝突は、その頂点に達した。すなわち、生産様式が交換様式に反逆し、生産カが──自分が成長
してそこから抜け出してきた──生産様式に反逆するのである。

 〈工場の内部における生産の社会的な組織化が発展して、それと並んでまたそれの頭上に存在している・社会における生産の無政府状態と両立できなくなる点に達した〉、という事実──この事実は、恐慌のあいだに大ぜいの大資本家ともっと大ぜいの小資本家との破滅を利用して行なわれる力ずくの資本の集中によって、資本家たち自身にはっきりわからされる。

資本主義的生産様式の全機構が、この生産様式自身の生み出した生産力に圧迫されて、働かなくなる。

この生産様式には、この大量の生産手段の全部を資本に変えることがもうできない。生産手段は遊休状態にあり、それゆえにこそ、産業予備軍も遊んでいるほかないのである。

生産手段、生活手段、自由に使用できる労働者、つまり、生産と全般的な富とのすべての要素は、ありあまっている。しかし、「過剰が困窮と欠乏との源泉となる」(フーリエ)のは、過剰こそ、生産手段と生活手段とが資本に変わるのを妨げるのだからである。と言うのも、資本主義社会では、生産手段には、それがまえもって資本に、すなわち、人間の労働力を搾取する手段に変わっていたら別であるが、そうでなければ、活動を始めることができないからである。

生産手段および生活手段がどうしても資本という性格をもっていなければならない、ということ、この必要が、幽霊のように、生産手段および生活手段と労働者とのあいだに立ちはだかる。

ただこの必要があるだけのために、生産の物的な挺子と人的な挺子との結合が妨げられるのである。ただこの必要があるだけのために、生産手段は機能することを禁じられており、労働者は働いて生きていくことを禁じられているのである。

こうして、一方では、資本主義的生産様式が、〈自分にはこうした生産手段をこれ以上管理していく能力がない〉ということを認めさせられる。他方では、こうした生産力そのものが、ますます力づよくくこの矛盾を止揚せよ〉と迫るようになる。つまり、〈自分を資本という性質から解放せよ〉、〈社会的生産力であるという自分の性格を事実として承認せよ〉、と迫るようになる。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p149-151)

■━━━━━

 休みがふえるはずなのに

 必要なものは何でも日本で出来る。輸入しなければいけないものは外国から買うが、その代金以上に、日本から外国が買ってくれる。言うことはないじやないかというところである。以前にも書いたと思うが、人間が生産するのは生活するためだから、生活に十分な物を作れるなら、それ以上働く必要はない。フルに働いたら二割も作り過ぎた、というのなら(これが過剰生産)、今まで一日八時間働いたのを三割減らして六時間半働けばよいはずである。

 現にドイツやフランスはどんどん労働時間を減らしている。ところがそうはしないのが資本主義経済、中でも森喜朗に言わせれば「神の国」だそうである日本である。十分にモノが作れるようになった一九六〇年代を過ぎ、一九七〇年代からあとは日本は過剰の国になった。生きるために働いてモノを生産するのではない。

会社が利益を上げるために働き、モノを生産するのである。会社は何が何でもたくさん生産し、それをどう売るか、という時代に突入したのである。必要以上に生産しているのだから全部売れないのは当たり前である。それを売って来いと言う。日本中のサラリーマン、とりわけ営業部員やセールスマンは、十分に生産出来て休みが多く取れる時代に入ったのに、逆に労働時間が長くなった。

朝は早く出勤し(もちろん早出の手当などつかない)夜は九時、一〇時になるが、サービス残業である。生産現場もトップから、何でもいいからもっと売れるモノを作れと命令される。技術屋も企画部門も一段と忙しくなった。誰に何を売るか。これから以後日本は狂って来たのである。

消費者にいかに売りつけるか

 どう狂って来たのか
 どう狂って来たのか。第一に、十分に生産して、ヒマになっていいところを逆に忙しくなったことを書いた。人間らしい生活・家庭の生活が破壊されて来たのである。しかもそれでいて決して豊かではない。戦前は八人兄弟、一〇人兄弟姉妹の家庭が普通であった。今は二人以上子どもを作れない。ヒマを持て余している主婦もいるが、多くの主婦は家計補助に働きに出る。子どもは父との接触ゼロ、母との接触も稀薄になった。その他社会生活、教育問題を書けばキリが無いが残念ながら省略する。

 さてここでまた、経済の基本の話を復習しよう。人間が生産する物は個人が消費する消費財と、消費財を作るための素材とか中間原料とかいわれるもの、そしてそれらを生産するための機械、さらに機械を作る機械である工作機械に分かれる。そして消費財を買うのはもちろん個人で、それからあとに書いてある素材、中間の原材料と機械を買うのは企業である。

個人が使うお金は企業が払った給料だから、結局生産物を買うお金は直接企業が買うにせよ、労働者の家計を通過するにせよ、どっちも元の素性をただせば企業の投下した資本なのである。企業が労働者を使って生産し、生産した物は結局企業が買う。

これが資本主義である。作った物が全部売れたらめでたしめでたしである。だがそうは問屋が卸さない。売れない。余る。そこでいろいろな仕掛けがほどこされる。

 まず個人、つまり消費者にいかに消費財を買わせるかの工夫である。企業は売りたくて作るくせにそれを買う金である給料はなるべく払うまいとするのだから売れ残るのが当たり前である。どうするか。懐のお金を補充する。どうやってか。借金させるのである。品物を買わせるための消費者ローン。この横綱格は自動車ローンである。家を買わせるためには住宅ローンを用意する。

そしてマスコミを動員して消費をあおる。情報操作する。例えばパソコン、インターネットをやらなければ自分だけ世の中に取り残されるような気分にさせる。情報操作に弱く、すぐコロリといくのはヤングと女性である。さてローンの支払いに忙しく、ますます懐は苦しい。そこでもう一方の消費者ローンの横綱であるサラ金を整備する。こうして世の中に多重債務者の悲劇と家庭争議がひん発する。日本人の家庭生活はいよいよ破壊されるのである。

 お母さんの家庭料理では困る
 消費財の売れ行きをふやすもう一つの工夫は、消費財を多様化し、迂回路をたくさん作ることである。一つだけ食べ物の例を取ろう。昔のように八百屋、魚屋、肉屋で材料を買い、お母さんが料理しては困る。ハンバーグ、ピザ、ドーナツ、寿司、何でも作って売っている。コンビニで御飯まで売る。弁当は家で作って持って行くものではない。買って食べるものになった。配達までする。このように、食品材料を店で買い、台所で作ってロに入れるのではなく、材料の段階から加工する段階、売る段階、配達段階、売れ残りを廃棄する段階と、実にいくつもの業者が介在する。

外食を奨励すれば建築業者、内装業者、家具屋も仕事にありつく。世界中のあらゆる料理を紹介する。そのほとんどは大したことは無いものなのであるが、これもおいしいとか、食べに行くのがカツコいいとか情報操作する。食べ歩きの雑誌や本が売れる。それを片手に食べ歩くのは読者には悪いが主として女性である。大体ジャーナリスト、評論家、ノンフィクション作家などの多くは、業者の手先である。かなりの数の学者、教授もこの中に入る。作戦が大成功した例としてワインがある。世界のワイン業者の団体にとって最も魅力ある市場の日本で、赤ワインが売れないのが悩みであった。そこで全世界のソムリエのコンテストを日本で開き、日本人を優勝させた。彼の赤ワインについてのおしやべりと、体にいいとの誰かの御託宣で日本の赤ワイン消費量は爆発的に上昇したのであった。

 ここでは食べ物の話だけ取り上げたが、こういったことを経済学では生産の迂回化、経済のサービス化という。とにかく、あれやこれやと手を尽くすのである。モノを作る産業は第二次産業(自然界から穀物や野菜、魚、鉱石などを取って来るのは第一次産業)という。その次にいろんなサービス産業が来るが、第二次産業(加工業、製造業と考えてもよい)は技術が進歩してたくさんの人手がいらなくなった。人を雇わなければ給料は払われないから当然物が売れなくなる。

それでは困る。だからサービス産業とか第三次産業とか第四次産業とか、難しい言葉を使うのだが、要するに基本的なモノを製造する以上の色々なことをやったり、金融業や証券業のようにモノではなく、カネを扱う産業を大きくし、人を雇い、給料を払って買物やレストランに出掛けてもらわなくては資本主義が保たないのである。

 とにかくこうして消費を多様化し、消費者を情報操作してあおるが、それでも限界がある。そこで最後の手は、モノを買わせるのではなく旅行させる。旅行産業は関連しているレジャー産業と共に今や大産業になって来た。日本人の外国旅行は目まぐるしく超多忙で有名であるが、とにかく消費者を、静かな家庭の居間とお台所から追い立てるのである。だがどうしたってダメなものはダメである。今まで何度も説明したように、資本主義経済の目的は人を食わせることではなく、お金儲けである。利益をあげるためには賃金の支払いを少なくしなければならない。そのためには賃金を切り下げる。第一なるべく人をたくさん使わないようにする。新規採用は極力控え、今いる人はクビを切る。

こうして第U部門生産物=消費財を買うための大事な元になる家計の所得を減らそう、減らそうとするのだから、過剰生産=不景気の対策としての個人消費が大きな力を持てるわけがない。

 ではどうするか。企業も設備投資=機械を買うはずがない。第一部門の企業のお客様は第二部門の企業である。製品が売れなくて困っている企業である。機械設備はむしろ減らしたいのである。
(大槻久志著「やさしい日本経済の話」新日本出版社 p81-86)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「やがて生産と交換とがしだいにふたたび動きはじめる。その足はこびはしだいに速まって速歩(はやあし)となり、産業上のこの速歩は駆歩(かけあし)に変わり、この駆歩は、歩度を速めて、ついにふたたび工業・商業・信用・投機の本式の障碍物競馬の手ばなしの疾駆となり、最後に命がけの跳躍をやったのち、またしても──恐慌という壕のなかにいきつく。そして、こういうことが絶えずくりかえされる」と。

「経済のしくみ100話」ではまったくなっていない。