学習通信040707
◎「思想としての民主主義」を……。

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僕らは同じ年に生まれた
 大江健三郎

 小澤さんがニューヨーク・フィルの副指揮者になられてすぐ、もう四十年も前のことだ、私はこの若わかしい国際派の「最初の人」にインタヴューした。

 大江 ……芸術は、人間の本質的な深みにつねに直接根ざしている。ぼくね、同じショパンでもルビンシュタインよりディヌ・リパティの最後のリサイタルのレコードに感動する。やはりそれは切実にあらわれている人間的なものの、ごく具体的な情念にひきつけられるからだと思うんです。
 小澤 ぼく、この間死んだクララ・ハスキルの最後の演奏会をパリで聞いて、それを感じたな。もちろんキズはあるけどね。ほんとにクララ・ハスキルと一緒にいるみたいな気がしちゃうんですよ。一つの音楽が伝わるってことで音楽の価値は非常にあるわけです。そうじゃないですか。

大江 ええ。共生感ということでしょうね。音楽する≠ニいう動詞をTVで使ってられたけど、音楽しているとき、同じ人間として一緒に生きるという共生感を、はげしくお感じになるんでしょうね。

 小澤 ええ。音楽って時間の仕事でしょ。一緒にやる人たちは、自分にとって非常に重要なわけですよ。

大江 小澤さんの指揮をみていると、たしかに音楽的な生命を生きていられることがわかる。音楽家の場合は、芸術を作りあげる時、プレーヤーが弾くのと、聴衆が理解するのと、全部、同じ時間におこなわれているんだし、指揮者の音楽する≠ニいう言葉は 実によく当っていると思う。ぼくもTVを通じてあなたと一緒に音楽して≠「たんですね。

小澤 そうですよ。もし、一緒にいたと感じて下されば、音楽家としては非常にうれしいですね。それが一番大切ですものね。音楽を非常にむずかしいものに感じちゃうと、それはもう僕たちの問題じゃなくなっちゃう。固くなったら、何もできないですよ。

 小澤さんと僕とは同じ年に生まれた。小澤さんは中国で、僕は四国の森のなかで。戦後の社会の混乱と、それが再生する過程の気風をなした民主主義がなかったなら、異分野で仕事を始めたばかりの青年であるふたりが会って話すことはなかっただろう。いま、初老となったふたりがあらためて長い時間をかけて話すこともなかったにちがいない。

 それは少なくとも僕の側から、確信をこめていえることだ。戦後の、苦しいが生き生きして新生の情動にあふれていた時期、自分がどのように希望をいだき、それがみたされたかを忘れた者たちからの、不思議な恨み節がはやりのイデオロギーをなしている。

 しかし、民主主義の気風を──それしか、頼るものはなかった! いまも、じつはそれしか無いではないか? ──正面から受けとめて少年が解放され、未来への志をたてた。そして、それを実現する方向へ生きた。それが小澤さんにとっても僕にとっても運命だったのだから、僕らは少年時の自分らを裏切らず、残りの生になしうるかぎりの仕事をして終えることになるだろう。

 小澤さんが音楽を選び──音楽に選ばれ、といっても同じ──いまあるような人間にかれ自身を作りあげたのは、すばらしい正解だった。かれの鏡に照らすことで、僕も自分が文学を選び、いまある人間に自身を作りあげたことを正解だと思う。僕は懐疑的な人間だが、いつも自然体の小澤さんに励まされて、それを認める。

 小澤さんは、いつも若わかしく新しい人だった。かれは音楽家として未来をはらんだ風のような存在だった。その輝やきが消えることはなかった。しかも、いま、小澤さんは、大きく達成した、揺るがない巨匠だ。そして、若い人たちに伝えるべきことを切実に考え、それを伝えるシステムを実現している。そして指揮台に立てば、あいかわらず若わかしく、新しさは、成熱のきわみの新しさだ。

 僕は小澤さんとあらためて長時間にわたり話すことができたのを喜ぶ。それは僕に、その時間の持続のなかにおいて、あの時代に少年として生き、いまにいたるまで根本において生き方と熱望を変えることなしで来たことを、つまり運命を肯定させてくれたから。そしてその思いを、もう僕たちの居なくなる時に向けてすら、延長させてくれるようであるから。
  二〇〇一年七月
(小澤・大江著「同じ年に生まれて」中公文庫 p9-12)

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思想としての民主主義

 「民主主義」とは、もともと「人民の権力」という意味のことばで、人民主権の政治形態(国家形態)をさすものでした。人民主権の政治においては、主権者の数がおおくなるにつれ、さまざまなかたちでの代議制度が発達しますし、また、事を決する場合の手つづきとしては、多数決制が一般化してきます。そこで、こうした代議制や多数決制のことをも「民主主義」と呼ぶ場合があります。「制度としての民主主義」「手つづきとしての民主主義」と呼ぶことができるでしょう。

 しかし、「政治形態(国家形態)としての民主主義」にせよ、「制度としての民主主義」あるいは「手つづきとしての民主主義」にせよ、何よりも大切なことは、そこをつらぬいている思想です。「思想としての民主主義」といっておきましょう。それなしには、民主主義は形骸化され、場合によってはその反対物にさえ転化してしまいます。議会の多数決によって独裁政治への移行が決議される、というぐあいに。

 「自分が自分の人生の主人公」ということ、および「みんなが主人公」ということ──これこそは「思想としての民主主義」の基本です。

 一九四八年から四九年にかけて、文部省がつくった中学校用の社会科教科書『民主主義』では、この「思想としての民主主義」ということがつぎのように強調されていました。

 「民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。……すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である」

 「すべての人間が、自分自身の才能や長所や美徳を十分に発揮する平等の機会を持つことによって、みんなの努力でお互いの幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標である……それが民主主義である。そうして、それ以外に民主主義はない」

 「民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである」

 そのころ文部省は、何とりっぱなことを語っていたのでしょう! そして今日、文部省は、また日本の「民主主義」そのものは、それから何とへだたったところにまで来てしまっていることでしょう!

民主主義の精神と近代社会
 ここで「民主主義の根本精神」についての右の説明が「すべての人間を」とか「すべての人間が」ということをくりかえし強調していることに注意してください。

 このようなかたちでの「民主主義の根本精神」は、何といっても近代社会と結びついて形成されてきたものです。民主主義ということばを生みだした古代ギリシャの都市国家は、確かに「民」を主権者・主人公とする政治形態をつくりだしてはいましたが、その主権者・主人公としての「民」のなかみはといえば、ひどく限られたものでした。すなわちそれは、ポリスの市民権をもつものだけに限られ、女性と奴隷はそこからしめだされていたのです。

 原始社会についていえば、原始共同体のなかでは、指導者はいても、それは支配者・権力者ではなく、そういう点では「共同体員すべてが主人公」で、その意味で「原始的な民主主義」について語ることができますが、あくまでそれは共同体の内部に限られ、共同体の枠を越えて「すべての人間が主人公」ということを問題にする余地はありませんでした。

 というわけで、「すべての人間が主人公」という思想は、少なくとも本格的なかたちでは、何といっても近代以後のものです。

 もちろん、近代社会のはじめから「すべての人間が主人公」ということが実際に実現されていたわけではありません。選挙権にしても、はじめは財産による制限があり、また男性だけに限られるという性による制限がありました。そして、これらの制限をとりはらうためには、長いたたかいが必要でした。

それにしても、こうしたたたかいを通じて、それらの制限がしだいにとりはらわれ、「すべての人間が主人公」という方向にむかっていくことができるということ──これは、何といっても近代社会の大きな特徴です。「近代社会」とは「身分制の撤廃」ということを原則とする社会なのですから。フランス革命が「自由・平等・友愛」を旗印としてかかげたこと、明治政府さえもが「四民平等」をうたったことを思いあわせてください。

資本主義としての近代と民主主義
 でも、そうした原則をかかげる近代社会のなかで、なぜたたかわなければそれらの原則を実際に実現させていくことができないのでしょうか? これは、なぜたたかえばそれらの原則を実現させていけるのか、ということとあわせて、また、そのたたかいはどこにいたりつくのか、ということとあわせて、あらためて考えてみなければならない問題です。

 フランス革命が旗印としてかかげた「自由・平等・友愛」は、前近代的・封建的な不自由・不平等・敵対にたいするたたかいのスローガンでした。しかし、こうして実現した近代社会のなかで、私たちが「自由・平等・友愛」を現実のものとするためにたたかわなければならないのは、けっして前近代的・封建的な不自由・不平等・敵対の残りかすがあるからだけでは──そのかぎりにおいてだけでは──ありません。

そこではあらたに、近代的な不自由・不平等・敵対が問題になってくるのであり、それとたたかわなければ、近代社会が原則としてかかげる「自由・平等・友愛」を実質的なものとしていくことができないのです。

 これは「近代社会」が実質的には「資本主義社会」であるということ──資本主義社会としてあらわれてきたということによるものです。

 資本主義的な社会関係の中心をかたちづくっているのは、資本家と労働者とのやといやとわれる関係ですが、これは対等・平等な人格相互間の自由意思にもとづく契約関係というかたちをとり、その点で、資本家にたいする労働者の関係は、封建領主にたいする農奴の場合のような身分的隷属関係とは質的に異っています。近代資本主義社会のなかで、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」、人間みな平等、ということが建前としてかかげられうるゆえんです。

 しかし、資本家と労働者とがほんとうに「対等・平等」の地位にあるのかといえばとてもそうはいえません。法的・形式的には、すなわち建前の上では「対等・平等」ということになっているとしても、実質的には両者の地位は「対等・平等」などではありえません。資本家と労働者とのやといやとわれる関係は、両者の経済的不平等ということを前提としてなりたっているのですから。

 このことは、つぎのように説明することができます。資本主義社会は商品経済の全面的な発達ということを特徴としており、そこではすべての財貨が商品というかたちをとりますから、商品を買うことなしには生活ができません。商品を買うためにはお金が必要ですが、お金を手に入れるためには何かを売らなければなりません。つまり売ることのできる何かの商品を生産しなければなりません。というわけで、資本主義社会では、誰もが独立した商品生産者・商品販売者とみなされるわけです。

 ところが、労働者は生産手段を所有していませんから、自分だけではふつうの意味で商品を生産することができず、したがって商品を販売することができず、したがってお金を手にすることができず、したがって商品を買うことができず、したがって生きていくことができません。

では、労働者はどうやって生きていくのかといえば、自分の体にそなわっている働くことのできる力──労働力を、一種の商品として資本家に売りわたし、その代価として賃金をうけとり、それで生活に必要な商品を買って、自分の労働力を再生産し、それをまた資本家に売りわたし……ということをくりかえすのです。これが、労働者が資本家に「やとわれる」ということの実態です。

 つまり、資本主義の下で労働者は「労働力商品」としてのあつかいをうけるのであり、それを買いとった以上、資本家は労働者を「賃金奴隷」としてあつかうのであって──その点では、つまり実質的には、労資が「対等・平等」であるどころではないのです!

 それだけではありません。資本家が「労働力商品」を買うのは(つまり労働者をやとうのは)、それを使うことによって利潤を手にすることができるからです。資本主義的生産は、利潤だけを目的としていとなまれます。資本に利潤をもたらさないかぎり、たとえそれがどんなに社会的に有益なものであろうと、資本家は手をつけません。

反対に、資本に利潤をもたらすかぎり、たとえそれがどんなに社会的に有害なものであろうと──公害や核戦争による人類破滅の危険につながるものであろうと──すすんで手をつけ、手ばなすまいとします。これは、事実上「資本が主人公」ということです。「みんなが主人公」どころではありません!
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p74-81)

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 上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ち明ける。

労働は人間的労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいものとして通用する限り、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成り立っていると言う。

リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっているということを言うために、リンネルは、価値は上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つであると言う。

ついでに言えば、商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている。

たとえば、ドイツ語のWertsein〔値する〕は、ロマンス語系の動詞、valere, valer, valoir〔イタリア語、スペイン語、フランス語の「値する」という言葉〕に比べて、商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表わすには不適切である。Parisvaut bien une messe!〔パリは確かにミサに値する!〕

 したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態となる。

言い換えれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる。商品Aが価値体としての、人間的労働の物質化としての、商品Bに関連することによって、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料にする。

商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値という形態をもつ。

(一八)見方によっては、人間も商品と同じである。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。

人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関連を通してはじめて人間としての自分自身に関連する。だが、それとともに、ペーターにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用する。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p89-91)

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◎「かれの鏡に照らすことで、僕も自分が文学を選び、いまある人間に自身を作りあげたことを正解だと思う。」

「商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる」と。

ロマンス語……