学習通信040708
◎「ただひとつの真相──客観的真実をつきとめる」……。
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『羅生門』の評価
四〇年前に出版された『虚構の日本史』という本で、杉本勲さんが「歴史映画によせる」を書いている。そして、故人となった黒沢明監督の作品『羅生門』を批評している。
『羅生門』の原作は、芥川龍之介の『藪の中』だ。平安時代に京都・山科の裏山にあった謎の侍の死体をめぐって、旅法師や盗賊や侍の妻や死霊などのロをかりて事件の真相を追う筋立てだが、芥川の狙いは、事件の関係者たちの告白が、私欲や主観に歪められる心理模様を描くとともに、「真の真相」なるものがいかに曖昧で、把握が難しいかを示そうとしたもののようで、「その限りでは意味深い」と杉本さんは述べている。
ところが、複数の登場人物の主観的告白を通じて関連事実の断片は提示されるものの、さて真相やいかにという観客の好奇心はついに満たされず、結局、真相は語られないままに終わる。
杉本さんの不満が噴出する。
「世の中のことは十人十色、百人百様、真相はいくつもあるといってすましていられるだろうか。(中略)本当の現実探究は、この十人十色の混沌の世界を出発点とし、一定の基準に拠った強い批判精神と現実透視の分析カをもって、ただひとつの真相──客観的真実をつきとめるべく、あらゆる手段をつくして行われなければならない。そうした努力の放棄こそは、懐疑主義・不可知論・虚無主義のはびこる温床をつくりだす。そしてそういうことが許されないならば、ことの真相をつきとめようとする歴史家の役割もいらなければ、総じて真理の究明をめざす科学者の存在も否定されるわけである」
杉本さんは、映画『羅生門』からは、戦後日本の混沌とした世相を反映した安易な懐疑主義や不可知論はうかがえても、健康な現実探究の精神──史的分析の努カのあとを汲みとることはできない、と決めつけている。
実は、心霊現象や超能力事件でも同じ問題がある。不思議な体験を前に、「こんな解釈もある」、「こうも説明できる」、「科学的説明とやらは可能な解釈の一つにすぎない」という形で、結局何が真実なのかが混沌の中に放り込まれる。「ここから先は人知をもっては窺い知れない世界なのだ」と、不可知の領域が主張され、人間の理性が踏み込むことを拒否する。
加藤周一さんがある講演会で披瀝(ひれき)した「物事を考える場合のチェック・ポイント」によれば、「事実と照合して白黒がつく問題とそうでない問題とを峻別し、前者は事実と照合して決着をつけるがよいが、後者はそのような性格の問題として扱え」ということだが、超能力事件や心霊現象は全くの個人的体験談として語られることが多く、事実関係を客観的に確認するすべもないのが普通である。事実と合っているかどうかだけが科学的命題の真偽を判定する基準だから、事実の確認のしようがないのをいいことに神秘の世界に逃げ込まれるとお手上げだ。それは科学の責任というより、命題そのものが科学的命題としての要件を満たしていないということだろう。
事の決着がつかない原因は何なのかをしっかり見極めることが大切だ。
(安斎育郎著「人はなぜ騙されるのか」朝日文庫 p154-155)
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■かいぎ‐しゅぎ【懐疑主義】……物事の存在、価値などを信じない考え方。人間にとって普遍的な真理を確実にとらえることは不可能だとする立場に立つ考え方。(C)小学館
■かいぎ‐ろん【懐疑論】……あることについて、そのものの価値、存在などを疑うような考え。哲学では、認識において、その主観性と相対性に力点をおくため、客観的真理の認識の可能を信じないで、断定的判断を原理的にさしひかえる態度、またはその思想。(C)小学館
■どくだん‐ろん【独断論】……一般に、確固たる根拠に立たず、また綿密な研究を経ないで、自己だけ正しいとする主張。⇔懐疑論。(C)小学館
■懐疑論……人間の認識は主観的なものにすぎず,人間は客観的な真理を認識しえないと主張する観念論の一変種.懐疑論は古代ギリシアいらいみられ,人間の認識が不完全なものから完全なものへと歴史的に発展するのを理解せず,歴史的に条件づけられた不完全な認識を一面的に誇張し,認識には限界があると断定することから成立する.→不可知論
(新編「社会科学事典」新日本出版社 p379)
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「真理」つてなに?
■「正しい」ことの基準は?
学生や青年のみなさんと話していて、よく話題になることの一つは、「正しい」とはどういうことか、正義とか善とか、だれでも一致する基準はあるのだろうかということです。世界各地でいまだにユーゴスラビア紛争のような民族紛争や宗教戦争などがあり、敵対する双方がそれぞれ「正義」を唱えていますし、国内でもいろんな政党があってそれぞれ自分たちの主張が「正しい」と主張していて、何が正義なのか、だれが正しいのか、わかりにくくなっている現実があります。
正義とか、善とか、正しいということの客観的基準を示すことはなかなか困難です。しかし、基準がないわけではないと私は考えています。この節はこの問題を取り上げましょう。
■三つの「正しい」の意味
はじめに考えておかなければならないことは、「正しい」というときに、よく似た言葉として、第一に、理論的に正しい(真理だ)ということ、第二に道徳的に正しい(善だ)ということと、第三に社会的・歴史的に正しい(正義だ)ということがあり、この三つは、それぞれ部分的に重なりながら、しかし違いもあるということです。その違いを明確にすることが大切です。そのためにこの二つの意味を順次考えていきましょう。
■「理論的に正しい」(真理だ)という場合
ここでは、まず第一の「理論的に正しい」(真理だ)といわれる場合について考えます。真理とは何か。「真理は個人が決めるもの。人によってそれぞれ真理は違う」「真理は神様が決めたもの」などという人がいますが、どうでしょう。真理はけっしてそのような個人の信念や約束事のような主観的なものではありません。
真理はこの世の中に客観的に存在する「真実」とか「現実」とかいわれるものを基礎にして成り立っています。私たち人間が客観的事実や現実を認識して、その認識の内容と客観的事実が一致したことが確認されたとき、この一致のことを真理というのです。
■客観的事実を研究して真理に接近する
たとえば、ここに地球があり太陽があります。地球から見れば太陽が地球のまわりをまわっているように見えます。しかし太陽以外の多くの星を正確に観察してみると、地球の方が太陽のまわりをまわっていることが客観的に確認されました。こうして地動説が真理だと確認されてきています。コペルニクスやケプラーやガリレオの功績です。地動説は個人的・主観的な見解ではなく、誰から見ても客観的な事実に基づいており、真理だと確定されてきています。
このように真理は客観的事実や現実を多数の人びとが観察・測定・実験などをして、さまざまな仕方で研究することによって確認することができます。はじめは不確かなことが、だんだん確実なこととして確かめられていく過程をたどります。この過程を通して、人間は真理に近づいてきたし、その真理を暮らしに役立てたり、人類の進歩に生かしてきたのです。
「善」ってなに?
■過労死するほど「勤勉」に働くのは「善」か?
道徳的に善だとか、良いというのは、理論上の真理とくらべるとわかりにくいところがあります。
たとえば、正直なことは多くの場合、善いことだと思われています。しかし、カントがいっているように、商売人の場合、正直にすることでお客がふえて、結局、お金が儲かるからだということがあります。この場合、正直は悪いことではないかもしれませんが、善いといえるかどうかあやしいといわねばなりません。
勤勉に働くというのは常識では善いとされています。しかし体をこわすほど(時には過労死するほど)勤勉に働くということになると、果たして道徳的に善いといえるかどうか疑わしいといわねばなりません。資本家にとっては労働者が勤勉であることは無条件に善いことでしょうが、労働者にとっては過度の勤勉は善とはいえず、勤勉が強制されると悪ですらあるでしょう。
■人類の進化の過程を考える
このように考えてみると、道徳的善には客観的基準はないように見えます。善いも悪いもまったく個人的・主観的なものだ、道徳にしばられる必要はないといった考え、道徳的ニヒリズム(虚無主義)、あるいはアナキズム(無政府主義)といわれる考え方が出てくるわけです。最近ではとてもふえています。
「人を殺してなぜ悪い」という中学生の発言が問題になったことがありました。「援助交際がなぜ悪いのか、だれも被害者はいないのに」といった発言も問題となりました。
このように道徳にはだれもが納得する客観的基準が乏しい点があります。しかし、道徳がまったく個人的主観的なものかというとそうではありません。そのことは人類の長い進化の過程を考えてみるとわかります。
■仲間への連帯や団結が現代の重要な道徳
人類は何十万年の進化の過程で、共同体をつくり集団労働をするようになって人類文明をつくり、今日の社会を形成しました。この共同体(社会)を維持・発展させるのに役立つ規範(きまり)を善とよび、その反対のものを悪とよぶようになりました。
原始社会では共同体への献身や勇気が個性よりも高く評価され、封建社会では君主への忠義や親への孝行が重んじられました。近代市民社会が形成されるにつれて、労働における勤勉とか、商業における正直が美徳とされるようになりました。現代においては仲間たちへの信頼にもとづく連帯や団結が重要な道徳となると思われます。殺人は人類文明の維持発展に逆行するものであり、援助交際も人類社会の進歩に役立つものではなく、男性にとっても女性にとっても人間性の発達を阻害する傾向をもつので、悪と言わなければならないと思います。
二十一世紀をになう若いみなさんが、これまで先輩たちの築いてきたすぐれた文化を基礎としつつ、新しい時代を切り開く新しい道徳を形成していかれることを望みたいと思います。
「正義」つてなに?
■「正義」は手前勝手な屁理屈か
国の支配者たちは、いつも「正義」を唱えて、暴力的に人民を支配し、あるいは軍事力さえ用いて他民族を支配しようとしてきました。戦争の当事者はどちらも「正義の戦争」を主張しています。現代においてもユーゴスラビア問題に見られるように、アルバニア系住民を圧迫しているユーゴ政権も「正義」を主張していますが、これに対してアメリカを中心とするNATO軍もこれを不正義な民族抑圧だとして空爆を加え、「正義の戦い」だと主張しています。いったいどちらが本当に正義の戦いなのか訳がわからないような始末です。「正義」とは紛争当事者が自分を正当化するための手前勝手な屁理屈のようなものなのでしょうか。
■客観的な意味での「正義」はあるか
国の支配者たちは、しばしばそのような勝手な理屈をこねて、自分の利益を押し通そうとします。その面だけを見て、だれもが納得する公平な「正義」などはありえない。国際政治などはけっきょく力で決着をつけるしかなく、「勝てば官軍、敗ければ賊軍」と昔から言われているとおりだと一部の人びとは考えています。学者のなかにもそのような意見があります。
客観的な意昧での「正義」というのはないのでしょうか。私はそうではないと思います。第一に事態の歴史的経過を正確に見ていくならば正義はおのずから明らかになります。ユーゴの問題でも、何世紀にもわたる民族紛争の歴史があり、外国からの圧迫と侵略の歴史があります。そのようにこじれきった歴史の帰結としてユーゴの問題があります。ユーゴ政権の暴力的な民族抑圧にも正義はありませんが、NATO軍が外からこれを攻撃してもますます事態を混乱させるだけでしょう。一時的に軍事的効果があっても、けっして根本的解決にはならないでしょう。平和的話し合いの努力こそ、困難でも正義の道でありましょう。
■人類史の発展方向から「正義」は見えてくる
第二に「正義」は人類史の発展方向を見きわめるならば見えてきます。たとえばいま日本の政府・財界は、経済を立て直すには、自由競争・規制緩和が必要だと、競争原理を正しい(正義だ)とさかんに言っています。近代初頭には自由競争が社会を発展させた時期がたしかにありました。しかし生産力が巨大になった現在では、競争原理一辺倒の考えは時代おくれではないでしょうか。大企業が競争でリストラをやり、労働者同士を競争させ、労働強化をすすめていますが、これが景気をさらに悪化させています。現在は大企業の勝手気ままを民主的に規制することこそ必要であり、これこそ現代の正義です。
何が正義かということは、事柄の歴史的経過をよく見て、同時に歴史の発展方向を見きわめることにより確認できます。二十一世紀のはじまりのこの局面において、正確に現実を直視して、現代の正義を見きわめて、自分たちの進むべき道、生き方を若いみなさんが見つけてほしいと思います。
(鰺坂真著「時代をひらく哲学」新日本出版社 p14-22)
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◎なにが正しいかわからない〜。といつも懐疑的なことをいう人がいますが、それはどういう事なの$[めてください。
◎労働学校118期は第1部です。「ただしい認識とは」第4課で学びます。