学習通信040709
◎〈自分の社会的本性を承認せよ〉……と。

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第一六節(その二)――社会主義への道のなかでの二つの注意点
 社会主義・共産主義の未来社会をつくるということは、人類史にとって本当に新しい問題ですから、どこかに青写真があって、その設計図どおりにことをすすめればすむ、というものではありません。将来、日本でこの道をすすむという情勢が熟したとき、発達した資本主義国のなかで何番目の国になるのか最初の国になるのか、それももちろんわかりません。いずれにしても、この事業が無数の新しい問題にぶつかり、日本国民が英知をもってこれに挑戦する、そしてそのなかで、状況にあい道理にかなった解決策を探究しながら前進する、そういう創造的な開拓と前進の過程となることは間違いありません。

 改定案は、そのことをのべたあと、そのなかで、私たちがとくに注意したいと考える点を、二つ上げています。

 一つは、生産手段の社会化が多様な形態をとるだろうが、どんな場合でも、「生産者が主役」という社会主義の原則を踏み外してはならない、という問題です(第一六節の五つ目の段落)。これは、非常に大事な点で、私たちがソ連の崩壊の過程から引き出すべき大事な教訓の一つもここにあります。

 さきほども触れたように、マルクスは、『資本論』のなかで、機械制大工業の現場を研究し、労働者が集団として巨大な生産手段を動かしている、その集団が、他人の指揮のもとではなく、自分が名実ともに生産の主役となって、生産手段を動かして社会のための生産にあたる、そこに社会主義的変革の最大の中身がある、という結論を引き出しました。

 マルクスは、『資本論』第三部では、社会主義・共産主義の経済体制を特徴づけるさい、そのことを特別に重視して、「結合された生産者たち」が生産と社会の中心になるという点をくりかえし強調し、この経済体制を「結合的生産様式」と規定したりもしました。「結合された生産者たち」とは、生産体制のなかで結びついた集団的な労働者のことで、こうして「結合された」労働者たちが、連合してその力を自覚的に発揮するようになる、それを社会主義・共産主義の経済の主役として描きだしたわけです。

 ところが、ソ連では、「国有化」して国家が工場などをにぎりさえすれば、これが「社会化」だ、「社会主義」だということで、現実には官僚主役の経済体制がつくりあげられました。そこには、「国有化」の形があり、農業では「集団化」の形がありましたが、社会主義はありませんでした。こんなことは、絶対にくりかえしてはならないことであります。

 私たちが、日本で「生産手段の社会化」を実現してゆくとき、どんな問題にぶつかるか、いまから予想することはできませんが、「生産者が主役」という大原則は、「社会化」がどんな形態をとる場合でも、追求する必要がある、そのことを、社会主義へ向かう道のなかで、党がまもるべき注意点として、ここに書いているわけであります。
(「日本共産党綱領改定案についての提案報告中央委員会議長不破哲三」2003年6月28日(土)「しんぶん赤旗」)

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 非常に強大なものになっていく生産力が、このように自分の資本という性質に抵抗し、〈自分の社会的本性を承認せよ〉とますます強く迫っている、ということ、そのためにこそ、資本家階級自身、どうにも仕方なく、およそ資本関係の内部で可能な限りで、ますますこの生産力を社会的生産力であると取り扱わないわけにいかなくなっているのである。

産業の好況期も、信用を無制限に膨張させることによって、また、恐慌そのものも、大規模な資本主義的企業の倒産を通じて、どちらも、さまざまな種類の株式会社において見られるような・かなり大量の生産手段を社会化した形態のほうへ押し流されていく。

こうした生産手段または交通通信手段のうちには、たとえば鉄道のように、はじめから非常に巨大であるためにこれ以外の〔株式会社にする以外の〕どの資本主義的利用の形態をもとることができないものもある。

或る発展段階に達すると、この形態でももう十分でなくなる。すなわち、資本主義社会の公式の代表者である国家が、それの指揮を引き受けなければならなくなるのである。このように国家所有に変える必要がはじめて現われてくるのは、大規模な交通通信施設──郵便・電信・鉄道──においてである。

〔原注〕〈なければならなくなる〉、と私は言う。それは、生産手段または交通通信手段が成長して現実に株式会社による指揮の手に負えなくなり、したがって、国有化が経済的に避けられなくなった場合、ただその場合にだけ、国有化が──こんにちの国家がそれを行なっても──一つの経済的進歩を意味し、社会自身によるすべての生産力の掌握への一つの新しい前段階が到達されたことを意味するからである。

ところが、ちかごろ、ビスマルクが国有化に熱中しだしてからというもの、どの国有化をも、ビスマルクの国有化でさえ、社会主義であるとあっさり宣言する、或る種のにせ社会主義が現われてきて、あちこちではそれどころかいくぶんお追従にさえなりさがっている。

なるほど、タバコの国有化が社会主義的であったなら、ナポレオンもメッテルニヒも社会主義の創始者のうちにはいることになってしまおう。

ベルギー国家がまったくありふれた政治上・財政上の理由で同国のおもな鉄道を自分で住設したのは、また、ビスマルクがなんの経済的必然性もないのに、プロイセンの鉄道幹線を──戦争の場合にもっとよく整備し利用できるようにし、鉄道官吏を教育して政府の従順な投票者群にし、また、主としては議会の議決に左右されない一つの新しい財産を手に入れようという、ただそれだけの目的で──国有化したのは、直接にせよ間接にせよ、意識的にせよ無意識的にせよ、けっして社会主義的な措置ではなかった。

かりにそうだったとしたら、王立海外貿易会社も、王立陶器製造所も、また軍隊の中隊付き仕立て屋でさえ、社会主義的施設だということになってしまうであろう。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p151-152)

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国有化と経済の進歩

 エンゲルスが「社会化」の第三の形態としてあげているのは、生産手段の国有化、つまり、生産手段や交通手段が株式会社の手におえないところまで発達し、「資本主義社会の公式の代表者である国家が生産の管理をひきうけなければならない」(『空想から科学へ』六四ぺージ)ようになることです。

 国有化といっても、それは「資本家の国家」が資本主義の利益をまもるためにおこなうことですから、社会主義的方策ではもちろんなく、資本主義的国有化と呼ばれます。

しかし、国有化が、生産手段の発達の結果、「経済的に避けられなくなった場合」におこなわれるときには、資本主義のわく内の国有化であっても、「一つの経済的進歩」をあらわします。それは、「社会そのものによるすべての生産力の掌握へむかっての新しい前段階への到達」(同前)を意味するからです。

エンゲルスは、当時、そういう意味で、国有化の必然性が問題になっている産業として、郵便、電信、鉄道などの交通・通信産業をあげています。
 ここで注目する必要があるのは、エンゲルスが、資本主義的国有化のすべてが「経済的進歩」を意味するわけではないことを、強調していることです。たとえば、当時のドイツで政権をにぎっていたビスマルクは、国有化に熱中し、鉄道の国有化をヨーロッパでもっとも早く計画しましたが、これは、経済的な必然にせまられてではなく、戦争にそなえる軍事目的や国家財政の都合からくわだてたことでした。

エンゲルスは、その少し前に書いたドイツの同志への手紙で、イギリスでは、鉄道の国有化がすでに経済的な必要となっているが、やっと「近代的ブルジョア社会にはいり込もうとしている」ドイツでは、そんな事情はないこと、ビスマルクの鉄道国有化のように「どうにもならない内面的必然性からではなく、単に財政上および権力上の目的から設けられる国家的独占」は、経済的進歩どころか「中世への後退」という反動的な意味と効果さえもちうることを、解説しています(「ブラッケヘの手紙 一八七八年四月三〇日」全集(34)二六三ページ)。

 その後の資本主義の発達は、エンゲルスが当時ドイツにつけた保留条件を解消させ、多くの資本主義国で、鉄道国有化の必然性が、いよいよ前面におしだされるようになりました。ヨーロッパでも、フランスでは一九三七年、イギリスでは一九四七年に、鉄道が国有に移され、資本主義の世界でも、今日では、鉄道は、国有化されている国が主流をなしている、代表的な部門の一つとなっています。

 話は少し飛びますが、現在日本の政府・財界は、国鉄や電電公社などの民営化計画をしきりに問題にしています。現に国家の手に移されている全国的な「交通施設」を、私的な資本にきりかえようとするこの計画は、経済の進歩に逆行するまったくの反動計画ですが、そのことは、こうした歴史の流れのなかにおいて考えると、いっそう浮きぼりになってくるでしょう。

社会主義的解決への「手がかり」

 では、こうした国有化は、資本主義社会の今後にとって、どんな意味をもっているでしょうか。

 もちろん、国有化といっても、その国家とは、資本主義社会では、「資本主義的生産様式の全般的な外的条件」をまもることを任務とした「本質的に資本主義的な機関」(『空想から科学へ』六五ページ)ですから、あれこれの産業部門に国有化がひろがったといっても、それで資本関係がなくなるわけではけっしてありません。実際、日本の国鉄をみても、大工場に直行する引き込み線まで国鉄の負担でひいてやったうえ、コストを無視した特別の割引運賃で貨物を運んでやるなど、大企業への奉仕を最大の使命とする資本主義の精神が、その経営の全体をつらぬいています。

 しかし、資本家にかわって国が生産手段や交通手段を所有し、その部門の経営にあたるということは、株式会社やトラストの場合以上に、ブルジョアジーが、経済の運営のためになくてもよい「よけいな階級」となったこと、彼らにかわって社会が直接産業を管理する社会主義が、経済の進歩の、可能で必然的な方向であることを、証明するものです。エンゲルスは、ここに、資本主義的国有化の大きな歴史的意義をみました。

 「生産力にたいする国有は衝突の解決ではないが、それは解決の形式上の手段、その手がかりを自己のうちにたくわえている」(同前六五-六六ページ)
(不破哲三著「社会主義入門」新日本出版社 p191-194)

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◎「資本主義的国有化の大きな歴史的意義」をとらえ、いまはやりの民営化≠ニはなにか考えてみましょう。