学習通信040710
◎「ほんとうのことは分からない」……。

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懐疑論……世界について客観的に確実な認識の可能性を疑う認識論上の説.これが徹底すれば不可知論にいたる.また人間存在の無意味なこと,その不合理なことを主張する人生観としてもあらわれる.古代ギリシア哲学には懐疑論派なるものがあらわれた──略──これらの懐疑論者は,知識の相対性を説き,その客観的な確実性が不可能なことを主張する相対主義者であった.このような懐疑的見解は,古代ギリシア奴隷制社会の解体,没落の過程に関連する一産物であった.

つぎに16世紀後半〜17世紀のフラソスのモンテーニ,シャロン,ベールらの懐疑論が注目されるが,この新たな懐疑論は,古代の奴隷制社会崩壊の産物であったものと異なり,封建制社会のイデオロギー,教会の権威にたいする闘いという意味をもち,生まれ育ちつつあったブルジョア社会をイデオロギー上で準備するもので,フランスの啓蒙思想に道をひらいた思潮のひとつである.現代,実証主義や非合理主義の思想に懐疑論のあらわれがみられるが,これは現代資本主義社会の末期状態を反映するものである.ここで注意すべきことは,デカルトによくみられるような,確実な知識をうるためにまず疑うという方法的懐疑と懐疑論とを混同することはできないということである.方法的懐疑における疑うということは認識の発展,深化にはたいせつなことだからである.→相対主義,不可知論
(森宏一編集「哲学辞典」青木書店 p48)

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 科学には反証が必要

 ウィーンの科学哲学者カール・ポパーは「反証されえない理論は科学的理論ではない」と述べています。一般的に、これを「反証主義」と呼んでいます。

 例えば、ここにいかにも「科学的に」正しそうな理論があったとしても、それに合致するデータをいっぱい集めてくるだけでは意味が無い、ということです。「全ての白鳥は白い」ということを証明するために、たくさんの白鳥を発見しても意味は無い。「黒い白鳥は存在しないのか」という厳しい反証に晒されて、生き残るものこそが科学的理論だ、ということです。

 つまり、真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」それが絶対的な真実であると考えることではなく、そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢です。
 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証が出来ないところです。「生き残った者が適者だ」と言っても、反証のしようがない。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。

 いかに合理的な説明だとしても、それは結果に過ぎないわけで、実際に「生き残らなかった者」が環境に不適合だったかどうかの比較は出来ない。 ポパーが最も良い例としてあげたのは、アインシュタインの特殊相対性理論についての反証でした。この理論が実験的に検証出来るかどうかを彼は考えた。「空間が曲がっている」というアインシュタインの説は正しいのかどうか。

 この検証として、具体的には日蝕の時に、星の位置を観測した人がいる。すると実際には太陽に隠れて見えないはずの星まで観測することが出来る。つまり光が曲がって伝わって来ている。それは空間が曲がっている、ということの証明になる。だから、とポパーはいいます。わずか一つのことに賭けられることの大きい理論ほど、よい理論である、と。

確実なこととは何か

 このような物言いは誤解を生じやすく、「それじゃあ何も当てにならないじゃないか」と言う人が出てくる。しかし、それこそ乱暴な話で、まったく科学的ではない。
 そもそも私は「確実なことなんか何一つ無い」などとは言っていない。常に私たちは「確実なこと」を探しつづけているわけです。だからこそ疑ったり、検証したりしている。その過程を全部飛ばして「確実なことは無い」というのは言葉遊びのようなものです。

 「確実なことは何も無いじゃないか」と言っている人だって、実際には今晩帰宅した時に、自分の家が消え去っているなんてことは夢にも思っていない。本当は火事で全焼している可能性だって無い訳ではないのですが。全ては蓋然性(がいぜんせい=何事かが起こり得る確実性の度合。また、判断などが、多分そうだろうという可能性の程度。確率。公算)の問題に過ぎないのです。
 「もう何も信じられない」などと頭を抱えてしまう必要は無いのです。そういう不安定な状態から人は時にカルト宗教に走ったりもする。

 別に「全てが不確かだ。だから何も信じるな」と言っているわけではないのです。温暖化の理由が炭酸ガスである可能性は高い、と考えていてよい。毎日の天気予報では、「降水確率六〇%」という表現がされていて、それを普通に誰もが受け止めています。それと同じで、「八〇%の確率で炭酸ガスと思える」という結論を持てばよい。

 ただし、それは推測であって、真理ではない、ということが大切なのです。なぜこの点にこだわるかといえば、温暖化の問題の他にも、今後、行政に科学そのものが関っていくことが多くなる可能性がある。その時に科学を絶対的なものだという風に盲信すると危ない結果を招く危険性があるからです。
 付け加えれば、科学はイデオロギーでもありません。イデオロギーは常にその内部ではI〇〇%ですが、科学がそうである必要はないのです。
(養老孟司著「バカの壁」新潮社 p25-29)

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◎「ほんとうのことは分からない」とは
 「ほんとうのことは分からない」は、とりあえず、「私たちの知識に限界がある」と言い換えることができます。ところが、「私たちの知識に限界がある」といってもさまざまな意味があります。私たち人類は、じつに多くのことを知っています。数十巻の百科事典が何種類も出版されています。それでもまだ、圧倒的に多数の知識が載っていません。また一方で、私たちの知識が世界、宇宙全体にくらべると、ほんの一握りのものにすぎないことも知っています。

しかし、歴史がすすむにつれて、私たちの知識がどんどん増えて、また深まっていくであろうことも知っています。ですから、私たちの現在の知識に限界があることはたしかです。しかし、そのことをさして「ほんとうのことは結局は分からない」ということはできません。「いつかは分かるようになる」と思うからです。この考え方はきわめて常識的で、健全で、基本的に正しい考え方だと、私は思います。

 これにたいして、「ほんとうのことは分からない」という場合、もう一つの意味を込めていう場合があります。それは、「ほんとうのことは分からない」という言葉を「私たちの知識に原理的に限界がある」「真実は結局分からない」という意味で使っている場合です。この場合、私たちの知識には、認識能力には、理性には、もうこれ以上絶対に超えることのできない限界があって、そこから先はいつまでたっても理性の光が届かないというのです。

「いまは分からないが、いつかは分かる」ということと「いつまでたっても分からないものがある」ということとのあいだに、いいかえれば「私たちの現在もっている知識に限界がある」ということと「私たちの知識に原理的に限界がある」ということとのあいだには天と地ほどの違いがあるのです。この違いをしっかりと見ておきましょう。

◎不可知論の考え方
 「私たちの知識に原理的に限界がある」という考え方は、哲学では「不可知論」という言葉で呼ばれます。この言葉を文字どおりに読めば、「知ることができない」論です。私たちはたしかにさまざまなことを知ることができるが、私たちの理性にはこれ以上超えることのできない境目があって、そこから先は、どうあがいても、人類史がどんなにすすんでも、人間の英知がどれほど発達しても、越えることはできないのだ、というのがその考え方です。

 これは、前に述べた哲学の根本問題に真正面から取り組むことができない考え方なのです。ですから、哲学の根本問題の解決をなんとかして避けてとおろうとする態度をとります。さきに、哲学の根本問題の解決にあたって唯物論と観念論の二つの陣営に哲学は分裂したと述べましたが、そこから逃れようとする人びとも実際にはいるのです。にもかかわらず、人間が呼吸から自由ではありえないのと同様に、哲学者は哲学の根本問題からは自由ではありません。不可知論は、結局のところ、唯物論か観念論の陣営のいずれかに属することになります。

◎二つのタイプの不可知論
 歴史的には不可知論が唯物論の隠れ蓑(みの)の役割を演じた時代もあります。今でも時にはそういうこともあります。それというのも、一般的には唯物論は時代の進歩の側に立っており、したがって唯物論を公然と表明することは、権力側からの弾圧をまねいたり、あるいは、そうではなくとも唯物論を表明するのがなんとなくはばかられる雰囲気があるからです。しかし、現在では実際上ほとんどの場合、不可知論は観念論の隠れ蓑の役割を演じています。このように、同じ思想でも歴史的に、社会のなかに置いてみるとさまざまに変化します。

──略──

◎不可知論の思想からさまざまなものが出てくる
 これまでさまざまなことを学んできました。哲学、哲学の根本問題、観念論、主観的観念論と客観的観念論など、とくに、私たちは不可知論の考え方についてかなりくわしく学んできました。というのは、現在の流行思想の大部分は不可知論を哲学的基礎としてもっているからです。じつは、不可知論というものは多面的な要素を含んでいて、不可知論からきわめてたくさんの結論が出てくるのです。そのうち、いくつかのことがらを、もう少し先に進んで考えてみましょう。

 あらかじめ、どんな考え方が出てくるか、名前だけでも並べてみましょう。名前は難しくても、内容はそれほどでもありません。へこたれないでください。その名前は、相対主義、神秘主義・非合理主義、および実証主義です。それでは、これらの点について考えていきましょう。

◎相対主義の世界
 「あなたの言うことも本当だが、私の言うことも本当だ」──こんな言葉を聞いたら、あなたはどんなふうに思うでしょうか。たとえば「A君は労働者である」という命題と「B君はスポーツマンである」という命題のように、二つの命題の内容がたがいに矛盾していなければ、それはそれで納得することができます。しかし、たとえば「労働者と資本家の利害は基本的に一致しない」という命題と「労働者と資本家は利害が基本的に一致する」という命題のように、二つの命題が矛盾しあうまったく正反対のことを言っているのだとしたら、「そんな馬鹿な」と思うでしょう。でも、不可知論の立場からは、それでもかまわないのだ、あるいはむしろそれが当然なのだ、という結論が出てくるのです。こんなおかしなことはないと思われますが、不可知論の立場に立つ人びとはそう主張するのです。その点について考えてみましょう。

 不可知論の考え方は、「私たちの認識能力には原理的に限界があるのだ。その限界の先には私たちの知ることのできない世界が広がっているのだ」というものでした。つまり、私たちは私たちを取り巻く客観的世界を原理的に知ることができない、というのです。そうだとすれば、私たちの現在もっている知識が真理であるかどうかを判定(検証)する客観的基準はまったくないということになります。

 知識の真理性の検証の基準がすべて主観的だということになると、たがいに矛盾しあった主張でも、どちらが真理か、あるいは真理でないか、あるいは真理はもしかしたら別のところにあるのか、判断する客観的基準はまったく存在することができません。結局、真理とはなにか、どうやって私たちの知識の真理性を判定(検証)するのかというように、これは真理をめぐる問題だ、ということになります。そこで、しばらくのあいだ「真理」について考えてみることにしましょう。

◎真理についてさまざまな考え方がある
 真理とはなにか──これは哲学史上長いあいだ、議論されてきた問題です。哲学者ごとに哲学があるように、哲学者ごとに真理観があるといってよいと思います。しかし、哲学の考え方の同じものは同じ真理観をもつものです。

 客観的観念論のあるものは、私たちの生活するこの世界の外に、真の実在があると主張します。私たちのまわりには多くのイヌがいます。そして、ポチとかラッシーとかパトラッシュとかいう名前をもっていたり、芝犬とかコリーとかブルテリアだったりします。しかし、私たちが「イヌ」という名で頭のなかに思い描くのは、ポチとかラッシーとかパトラッシュとかいうような個々のイヌではなくて、もろもろの個別的な特徴を捨象した、いわば「イヌ一般」の像(イメージ)です。

 私たちはこのような像(イメージ)をもっているから、個々のイヌを見て、たとえそれがクマに似ていても、正確に「これはイヌである」という判断をくだすのです。前に出てきた古代ギリシアの客観的観念論者プラトンはこの像こそ、個々のイヌに先立って存在し、私たちのまわりにいる個々のイヌのいわば「原型」をなすものであって、個々のイヌがこの「原型」にのっとってつくられたものだと考えます。プラトンはそれを「イデア」と呼んで、これが真実の存在(真理)だと主張したのです。

 また、私たちの頭のなかにはさまざまな観念が存在します。あるものはじつにはっきりしているのにたいして、また他のあるものはぼんやりと不分明である、ということは私たちが日常的に経験することです。たとえば、「この人は男であるか、または男でないかのどちらかである」とか「三角形の内角の和は二直角に等しい」とかいう観念はじつに明瞭で、疑いの余地のないものに見えます。これにたいして、「この国の経済計画はよくできている」とか「この旗の色はかなり赤っぽい紫である」というような観念は不分明に見えます。

 一七世紀のフランスの合理主義哲学者ルネ・デカルトはこのはっきりした観念を「明晰判明」な観念だといい、これを真理だと考えました。これでは、観念や知識が真理であることの指標がまったく主観的なものになってしまいます。この点では、相対主義、不可知論の真理観も同じ見解をもっています。

◎真理とは客観的実在を正しく反映した認識内容である
 これにたいして科学的社会主義の哲学は唯物論の立場をとりますが、唯物論は真理を確かめる(検証する)基準は客観的だと考えます。私たちは、私たちの認識を客観的世界(実在)の反映であると考えています。つまり、私たちがもっている知識は、なんらかの意味で、客観的世界の写しなのです。

 「反映」という言葉には、かなり受け身的、受動的な響きがあります。しかし、私たちの認識が反映である、というとき、それは能動的な反映を意味します。私たちは、まず、感覚器官をとおして、「感覚」「表象」という形で、外界にかんする情報を獲得します。そして、この情報を、理性の力によって分析したり抽象したり概括したり総合したりして、厳密な知識へと、いわば「精練」します。そのことによって、私たちは世界についてより深く近づいていくのです。

 また、「反映」といっても、正しい反映であるとは限りません。私たちは、誤った反映をすることだってあるのです。私たちは、人魚だとか一角獣だとか「ざしきわらし」だとか「コロボックル」だとかというような観念をもっています。場合によっては、「バルタン星人」とか「仮面ライダーブラックRX」というような観念までもっています。これらに対応するものは現実には存在しません。しかし、これらの観念は現実的・客観的世界の素材に根ざした、実在的起源をもっているのです。つまり、これらは客観的世界の誤った反映だということができます。

 ただし、ここで、「誤った」という言葉に価値的な、つまり善悪などの意味をこめて、たとえば「くだらない」とか「たいしたことがない」とか「悪質だ」とかいうふうに、とらえないでください。人魚、一角獣などのような観念は、私たちの生活のなかで生まれた、現実的な意味に富んだ観念なのですから。もちろん、「大衆課税は、金持ちにも貧乏人にも平等にかかるから、公平な税制だ」という観念は、「誤っている」ばかりでなく、「悪質な」観念でもあります。

◎知識の真理性を検証するのは実践である
 これらのことからわかることは、唯物論には私たちのもっている知識、観念、理論等が真理であるかどうかを試す(検証する)客観的基準があるということです。これにたいして、いま問題にしている不可知論にはそのようなものはありません。だから、どんな知識でもみな真理だということができます。このことは裏返せば、どんなものでもみな誤謬だと断定できることを意味するのではないでしょうか。

 知識の真理性を検証する基準は実践です。実践は、自然や社会を変革する人間の活動です。人間の生活の必要を満たすために自然をつくりかえたり、社会を変革したりするのをはじめ、さまざまな人間活動がこれに属します。私たちが認識活動をするのも、じつはこの実践を基礎としているからであり、また実践をうまくおこなうためでもあります。つまり、実践は認識の基礎であり、また目的でもあります。そして、認識活動の結果獲得した知識が真理であるかどうか、それを検証するのも実践によってです。

 もちろん、知識が真理であるかどうか、つまり真理であるかどうかはただ一回の実践によって確かめられることはまずありません。人類の長い実践の連鎖ののちにはじめて、確かめられるのです。このように、知識の真理性の検証の基準は実践にあることはあきらかです。

◎相対的真理と絶対的真理の弁証法
 さて、それでは、唯物論は真理における相対的なものをいっさい認めないと主張しているのでしょうか。そうではありません。じっさい、私たちが現在もっているものはみな相対的性格をもっているはずです。つまり、私たちが現在もっている知識は、不完全で、歴史の進展とともにより深められ、あるいは新しい光をあてられながら、豊かになっていくのです。その意味で、私たちの知識は相対的な真理だということができます。しかし、絶対的な側面も厳然として存在します。このことを具体的な実例にそくして、考えていきます。

 古典力学についてなにか知っていますか。ケプラーやガリレイなどの先駆的な研究ののち、これらをニュートンが集大成した体系です。私たちの生活する日常的な世界のレベルで成立する力学の体系です。これは、自然科学の体系としてはほとんど最初に成立したもので、その後の科学体系は長いあいだ、この体系をモデルとして形成されたほどです。ところが、時代がすすむにつれて、日常的なレベルをはるかに越えたところまで科学の目が届くようになってきますと(たとえば、とてつもなくスピードのある物体の運動とか、原子のレベルでの運動とか)、新しい理論(相対性理論とか量子力学など)が形成されてきます。

 そうすると、古典力学の体系は、すっかり誤ったものに転化したかというと、そうではありません。ある一定範囲ではりっぱに成立するものだということが、逆に、明らかになるのです。つまり、新しい理論が形成されるとともに、これまでの理論は新しいより包括的な理論の一部として再生するということができるでしょう。

 さて、そうしてできあがった知識は、やはり相対的真理という性格をもっています。だとすると、またまた私たちのもつ知識はすべて相対的真理ということになります。しかし、それだけではありません。私たちのもつ知識はすべて絶対的真理の性格ももつのです。つまり、私たちのもつ知識は、相対的真理の系列を通じて、絶対的真理に限りなく接近してゆくのです。

 だが、このように表現すると、絶対的真理はこの系列の彼方にはじめて存在するように思われます。これもまた、一面的な理解です。個々の知識は、相対的な性格をもちながらも、それぞれに絶対的真理のいわば「粒」をもっているのです。つまり、個々の知識は相対的真理と絶対的真理の統一なのです。これが、相対的真理と絶対的真理の弁証法なのです。

◎不可知論と神秘主義・非合理主義
 さて、不可知論から出てくるものの一つとして非合理主義や神秘主義があります。非合理主義とは理性によって把握されえないもの、論理的には説明できないものを究極のものと考える立場を言います。神秘主義とは神秘的な存在や神秘的体験に重きを置く立場をいいます。ですから、厳密にいえば、非合理主義と神秘主義とはいちおう区別されます。しかし、現在ではほぼ同じものとして現れていますから、ここではいっしょに取り上げることにしましょう。

 不可知論は、私たちの理性には限界があって、その限界の先には理性の光はおよばないものだと考えます。限界の先になにもなければ、限界がないと同じですから、この主張には限界の先には理性の光の及ばないなにものかが存在するということが含まれています。つまり、それは理性ではけっして理解することのできない非合理的・神秘的なものだということになります。このように、非合理主義や神秘主義は不可知論の考え方そのものから出てくる当然の結論ということができます。これが、現在の流行思想の大部分が不可知論を哲学的基礎としてもっており、しかも非合理主義・神秘主義であるということの意味です。

◎不可知論と実証主義
 不可知論から出てくるものとして、さらに、実証主義があります。実証主義は、感覚や経験の証言のみをよりどころにする立場です。そしてそれを超えたものを承認することを極端に排除します。たとえば、空中を物体が飛んでいるとします。物理学者は適切な観測器械を使用することによって、その物体がある瞬間にはどこにいるか、他の瞬間にはまたどこにいるかを克明に観測・記録することができます。そして、その軌跡がたとえば放物線を描いたとしましょう。

そのとき、実証主義者は、その物体が放物線を描いたということはできるが、ではなぜ放物線を描くかという問いには答えることはできない、というでしょう。なぜなら、その問いに答えようとすれば、「力」という経験をこえた概念を使用しなければならない、「力」が現象を説明するためのフィクションだというなら、話はまた別だ、とこたえるでしょう。

 また、こんな例をとってみましょう。一七八九年にフランス革命が起こったことは有名な話です。歴史家はそのあたりの事情を克明に調べて「歴史」を書くことは当然のことです。しかしそのとき、フランス革命がどのように起こったかを書くが、なぜ起こったかを論ずることはないとしたら、それは一つの実証主義の立場になります。史実に現れないことは徹底的に避ける、史実の間隙を埋めるために、創造力、想像力、直観など理性の力を借りるのを恐れるなど、さまざまな症状があります。

もっともそのときどのように起こったかを書くときに複雑な概念装置を「駆使」するのですが。このように「どのように」という問いには答えても、「なぜ」という問いには答えない──実証主義はそのような態度をとります。

◎非合理主義・神秘主義と実証主義は同根である
 一見すると、非合理主義・神秘主義と実証主義とはまったくあいいれない主張のように見えます。しかし、これまで見てきたように、哲学的根源は不可知論であることは明白です。でもなぜ、同根の思想が異なった形態をとるのかは興味があることです。じつは、それぞれの思想が流行する時代にはそれなりの特徴があるのです。実証主義的な思想が最近大流行したのは一九六〇年代の高度成長の時代でした。

さまざまな資本主義的な矛盾をはらみながら、日本は経済大国への道を歩んでいました。「ゴールデン・シックスティ(黄金の六〇年代)」というスローガンがそれを象徴しています。実証主義の潮流はまた科学万能主義の意味で「科学主義」「科学哲学」を自称していました。ここで、哲学は、幾多の留保を付けながらも、ある意味での「健康さ」を保っていました。

 それが第一次石油危機を転機として資本主義の諸矛盾が、表面へと噴出してきました。わが国の支配層は軍国主義化の方向でそれを脱出しようとしました。当然のことながら、国民の精神生活にそれが反映しました。不可知論は実証主義から非合理主義・神秘主義ヘと転換しだしました。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言葉がありますが、それは歌ばかりではありません。思想にもまたあてはまるのです。だから、神秘主義・非合理主義が流行するのも必然的です。

したがって、逆にいえば、私たちがただ生活に流されていると、この非合理主義・神秘主義の思想に共感を覚え、そのとりこになることは目に見えています。そこから抜け出す唯一の道は、現状に批判的な精神をもち、これと闘い、科学的社会主義の理論をもって実践することであるということができるでしょう。
(仲本章夫著「現代の流行思想」学習の友社 p60-82)

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◎「二つの命題が矛盾しあうまったく正反対のことを言っているのだとしたら、「そんな馬鹿な」と思うでしょう。でも、不可知論の立場からは、それでもかまわない」と。

◎労働学校運営委員会の理論力がとわれています。

学習通信040708 と重ねてまなんでください。