学習通信040711
◎科学というと何か冷たい……。

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科学だけでは人間はあつかえない?

問 「科学的」とはどういうことですか? 科学というと、何か冷たい、感情の入らない、数学みたいなものを連想します。科学だけでは人間の問題をあつかうことはできないと 思いますが。

 「科学的」ということの第一要件は、ものごとをきちんとけじめをつけて処理していく、ということです。そのやりかたをさっそく実行にうつしてみましょう。

 科学は冷たいものだ、というのが、あなたの考えのようです。「冷たい」というのは、どこが冷たいのでしょうか? 心が冷たいのでしょうか、頭が冷たいのでしょうか?

 科学的な分析にあたっては、さめた、冷静な頭が必要です。熱くのぼせた頭ではどうにもなりません。しかし、それは心が冷たいということとはまったく別のことです。

 医学の場合で考えてみましょう。カーッと血がのぼって逆上した頭でメスをふるわれたのでは、たまったものではありませんね。患者を救おうという熱い心に燃えたてば燃えたつほど、あくまでも冷静な頭でメスをふるうことが必要です。そういう意味でなら、「冷たい、感情の入らない」ということが科学の特徴だというあなたの考えは、かならずしもまちがってはいません。が、あくまで「そういう意味でなら」です。「熱い心」がその前提にあるのであって、つまり「心は熱く、頭は冷静に」というのが科学の基本的な特徴なのです。

 「冷たい、感情の入らない」ものの見本として、あなたは「数学みたいなもの」をあげておいでです。たしかに数学の世界は冷厳な論理の世界です。しかし、そういう数学の研究へ数学者をかりたてていくものは何でしょうか? それはやはり「熱い心」──情熱ではないでしょうか? そして、数学上の新しい発見は、数学者にいい知れぬ喜びの感情をあたえないでしょうか? 生きた数学は「冷たい、感情の入らないもの」などではないのです。

 「数学は冷たい、感情の入らないもの」というあなたの考えは、それが、そもそもそのような発見の喜びとは無縁なものとして、ただ機械的におしつけられ、おぼえこまされてきたためではないでしょうか? そうだとすれば、それは生きた数学ではなく、数学のたんなる形骸、死骸にすぎなかったのです。そして死骸が冷たいのは、あたりまえです。それだけのことです。

 「科学だけでは人間の問題はあつかえないのではないか」ということについてはどうでしょうか。

 「人間の問題」とはどういうことでしょうか。生きた、血のかよった人間、感情をもち、なやみ、愛し………等々、そういう人間の問題、ということでしょうね。そういう人間の一人ひとりとして、私たちは、熱い心をもって自分の問題を──つまり「人間の問題」を──考えざるをえません。けれども、ほかならぬ自分の問題ですから、なかなか客観的になりにくい。つまり、頭まで熱くなってしまいがちです。自然科学にくらべて「人間の問題」についての科学的なとらえかたがたちおくれてきたのは、このことと無関係ではありません。

 しかし、だからといって、人間の問題については冷静に考えられないというのでは、人間の問題を解明しようという私たちの熱い心のねがいも、しょせんは空しくなってしまうでしょう。
 そうなることを「冷たい心」からねがっている人びとがいるのではないでしょうか。「人間の問題」を科学的に解明されたのでは困る人びとが、「科学は冷たいもので、人間の問題は科学では解明できない」などと、それこそ熱っぽく説きたてていることはないでしょうか。そこのところを冷静に分析してみようではありませんか。

 「人間はりくつではわりきれないものだ」とわりきること、「人間はけっきょく非合理なもの、理解不可能なあるものだ」と理解することが、人間についての深い理解だ、ということにはすこしもならない、ということも考えてみてください。

 さいごに。すでにのべたことと重複しますが、科学というのは自然科学だけではありません。あなたは科学というものをもっぱら自然科学に限定して考えているのではないでしょうか。人間の問題が自然科学だけで解明できないというのは、そのとおりです。しかし、自然科学だけで人間の問題が解明できないということは、「科学だけでは人間の問題はあつかえない」ということとおなじではありません。科学というのは、社会科学をふくみます。そして、人間はなによりもまず社会的な存在なのですから、人間の問題の解明は、なによりもまず社会科学によらなければなりません。(社会科学は、社会というものが人間にとってたんに外的なものではなく、内的なものであるのだということをあきらかにします。このことは、史的唯物論の学習によってはっきりするでしょう。)
(「あなたの疑問に答える 哲学教室」学習の友社 p22-24)

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科学と人間性

 これまで唯物論と観念論という対立はどういう性格の対立かという点を述べてきました。唯物論が客観的な物質的実在を根源的と考える科学的世界観だという点を強調してきました。

 このようにいうと疑問が出されるかもしれません。「客観的とか科学的とかいうことを強調するのはどんなものか」とか、「科学や技術が発達しすぎて現代社会では環境破壊や人間疎外がおこっているのではないか」とか、「科学や理性が人間の本質をなすものとは思えない。むしろ感性や感情、愛情や意志といったものが人間の本質(人間の人間らしさ)をなすものではないか」という疑問です。

 感情や感性や意志などの方が理性より大事なものだという哲学者が出てきたりしていますから、右のような疑問が出てくるのは現代社会の特徴であり、理由のないことではないと思われます。

 たしかに現代は科学技術が発達して、その結果、大気汚染から、河川や地下水や湖沼などの水質汚濁、土壌の汚染などがすすみ、四日市ぜんそくとか、水俣病などといった公害病の多発をもたらしています。さらに原子核物理学の進歩は原子エネルギーの戦争への利用に道を開き、核兵器は人類全体にとっての脅威となっています。また原子エネルギーの平和利用といわれた原子力発電も、スリーマイル島原発やチェルノブイリ原発事故がおきてその危険性がクローズアップされています。

 このように現代の科学技術は人間の生活をおびやかし、さらに人類の絶滅さえもたらしかねない条件をつくり出しています。現代科学技術は人類にとって何なのか。私たち人類にとって積極的意味をもつものか、否定的意味しかないものかが問われています。

 その科学を推進している理性についても、その意義が疑われるような事態が発生しています。日本の学校教育のなかで、いわゆる知育(理性の教育)のみが偏重され、受験地獄・受験競争が激化し、子どもたちの心と体の両面にわたるゆがみがすすんでいること、その結果として子どもたちの生活の乱れ、学校の荒廃した雰囲気、集団のなかのいじめ、暴力や非行の増加が心配されるようになってから、もうかなりの年月がたちました。これらもすべて科学や理性が強調されすぎたからだと一部の人びとがいっています。

 右のような現象、あるいは一部の事実はたしかにあります。しかしそのような現象が起こるのは、科学技術や理性のせいだといえるでしょうか。これはよく考えて見なければならないことではないでしょうか。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p96-98)

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◎理性と感性
 学校教育をゆがめているものとして、大きな社会のしくみを考えねばならぬことを強調してきました。そのような大きなしくみの問題を見逃して、環境問題を科学技術が進歩しすぎたからだとか、教育の荒廃を親たちの利己主義のせいだとかいうとらえ方は一面的で、問題を不十分にしかとらえていないものだと思います。

 そのような流れのなかで、人間の理性の役割を否定的に考え、この理性を重視した近代の主知主義が人間性に反する近代科学を近代文明を生み出したのだという考え方があります。このような考え方をここで検討する必要があると思います。

 このような考え方は何も新しい考え方ではありませんが、とくに強い主張として出てきたのは、一九世紀の後半から二〇世紀にかけての観念論の一派である生の哲学とか実存主義とかいわれる流派の主張でした。「人間の本質をなすものは、感情や感性や意志などであり、理性より大事なものだ」という主張です。この考え方によれば、理性とかこの理性にもとづく科学や技術は人間にとって手段あるいは道具にすぎないものとされ、感情など非合理なものこそ人間らしいものだと考えられています。

 たしかに現代社会では、人間の本能や感情などが抑圧されており、純粋な愛情をはぐくむことや、あるいは自己の意志を実現することはとても困難になっています。したがって、本能・感情・感性・愛情・意志などが人間的なものであり、理性はそれをいかに上手に実現するかという単なる技術的な道具や手段にすぎないものと感じられるということがあるわけです。

 先にも述べましたように、現代資本主義は科学技術を利潤追求のために、ほしいままに乱用して、環境問題をひきおこし、そのうえ中東湾岸戦争で使われたようなハイテク兵器や核兵器さえつくり出して、世界中の人びとをおびやかしています。こんなものを生み出す近代的理性は人間性に反するものであると感じられるという面があるのは事実です。しかもそのような科学や技術を今後ともいっそう発達させるために、子どもたちに学校教育のなかで猛烈なスピードで数学や理科などの教育がおこなわれ(つまり知育だけが偏重され)、そのため体育や情操教育がないがしろにされているなどの傾向がありますから、知育は人間性をゆがめるものだと感じられるという面があるわけです。

 このような考え方ははたして正しいでしょうか。たしかに人間の理性の面だけ強調し、感性や感情や意志の面を軽視するのは、人間観として一面的だと思います。しかし同時に感性・感情・意志などの面だけを強調して、理性をたんに技術や道具のようなものと考えるのも間違っていると思います。

 まず第一に、理性と感情(感性や意志もふくめて)とを単純に分離して考えることが正しくないと思います。人間の人格という面から考えて、理性の面と感情の面とはよくバランスがとれていなければならないでしょう。そしてむしろ一人の人格において理性の面と感情の面とは密接不可分な関係にあります。頭だけよくて、感情の面が未発達というのは、人格として欠陥のある人といえましょう。一流大学を出て、血も涙もない高級官僚やエリート社員が連想されますね。同時に感情的だが理性的でない人間というとこれも困ったもので、すぐに感情的になり怒りっぽい粗野な人物や、やたらにめそめそして涙もろい人物が連想されます。理性の面と感情の面がバランスとれてこそ円満な人格といえましょう。

 第二に、理性とは何かということの理解が問題かと思います。先に第二話でふれましたように、人間は進化の過程で労働をするようになり、そのなかで考える力を身につけてきたわけです。この考える力、人間の知的能力はかなり幅の広いものですから、これを詳しく論じるときには、悟性と理性の二つに分けて考える場合があります。その場合、悟性は計算したり分析したりする能力をさし、これにたいして理性は総合的に思考するより高次の能力をさしています。人間の人格や近代文明・近代科学の性格を考えるとき、この区別は有効だと思われます。両者の区別はけっして絶対的なものではなく、密接不可分のものではありますが、一応は区別されるものです。

 人が日常的に仕事のなかで、あるいは買物に行ってお金の計算などするのは悟性の働きですし、大工さんが材料の長さや幅を測って正確に切ったり刻んだりするのも悟性によっています。ですから悟性は私たちの日常生活において必要不可欠なものですが、しかし少し複雑な問題について考えたり、社会や政治や文化など、あるいは環境問題について論じたり、哲学はもちろんのことその他の諸科学を研究したり、芸術や宗教について考えたりするときには、この悟性的な面ですますわけにはいきません。そこではもっと総合的に理性の次元での高度な判断が必要となります。

 いま私たち現代人は、複雑な問題に当面しています。環境問題にしても、教育問題にしても、社会主義の問題にしても、いずれも悟性だけでは片づかず、感情に走ってもどうにもならない問題ですね。いま私たちは理性を最大限に働かして研究し、問題解決にあたるべきときではないでしょうか。

 教育についていえば、現代日本の学校教育が、この悟性の面の教育だけを重視し、受験競争に子どもたちを駆りたてるテスト教育を推進して、偏差値などというもっとも悪い意味での悟性的原理で選別をやっています。このような一面的で悟性的な知育偏重になっているわけで、現代日本の教育に決定的に欠けているものは、情操教育だと思います。政治や社会のあり方や環境問題などもふくめた総合的判断をともなった理性を育てることがいままさに必要です。

 学校教育だけでなく、日本の社会はいまきわめて悟性的になってしまっています。もうけることはいいことだとバブル経済にはしり、金融スキャンダルをひきおこし、新しいことはいいことだと古い街のたたずまいや文化的環境をこわして、開発という名の街こわしをやり、大きいことはいいことだと政治家たちは自衛隊の海外派兵を策して国力の増大にやっきになっています。いずれも日本人が悟性的になってしまっている側面だといえましょう。

 このような傾向にたいして一部で「感性の復権」などと主張されたりしていますが、しかし悟性のいきすぎにたいして単純に感性を対置するのでなく、理性を重視すべきではないでしょうか。人間の考える力を重視するというときに、低次の悟性の面でなく、より高次の総合的能力である理性のことだという点を念のため強調しておきたいと思います。

◎理性と感情
 人間の感情や情念の話にもどりますと、この感情や情念は理性によってコントロールされてはじめて人間らしい感情や情念となります。たとえば愛情も理性によって裏うちされてこそ人間らしい愛情であり、意志も理性によって導かれてこそ、人間らしい崇高な意志といえるでしょう。理性にもとづかない情念は動物的な情念(本能的なもの)にすぎないですし、あるいは理性に裏づけられていない感情や情念はコントロールのきかない「暗い感情」であって、これがどれほど人生を誤らせるものであるかはいうまでもありません。

 先にふれたニーチエなどのいう意志や情念はこのような傾向のものです。第二次世界大戦をひきおこしたナチスドイツの指導者ヒットラーが、非合理な意志の力を賛美したこのニーチエの著書の愛好者であったことも偶然ではないでしょう。いまから十数年前に自衛隊の決起を扇動するため自衛隊本部に乱入して割腹自殺をして世間をさわがせた作家・三島由紀夫が科学的・理性的な世界観を敵対視し、非合理な天皇崇拝の感情で行動する人物であったこと、あるいは「新左翼」などと名のる過激派の暴力主義者たちが科学的認識にもとづいた実践ではなく、本能的、感情的な行動様式に傾いていることも思いおこす必要があるでしょう。私たち人間の行動・実践は理性によって裏づけられていなければ、思うような効果をあげられないという点も指摘する必要があるでしょう。

 いま私たちは国内的にも国際的にも激動期に直面しています。それだけにいっそう理性的に問題を研究し十分考えて行動する必要があるでしょう。そのためには、しっかりと学習し、反動攻勢には理性にもとづいたたたかう強い意志をもたねばなりません。そうでなければ人間らしい生き方は不可能だというべきでしょう。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p110-116)

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◎学習通信040708・040710・040711を重ねて深めて下さい。

労働学校は、社会から隔離されたところで、選抜された労働者だけが参加しているわけではありません。いろんな思想をもち、いろんな影響をうけた仲間もいます。運営委員会が科学的社会主義を学び取ることが大切なのです。

講義だけで仲間の理解は深まるとばかりいえません。議論や対話がそこでは凄く大切な意味をもっています。