学習通信040712
◎新たな決意をこめはじめの一歩を……と。

■━━━━━

 ときには労慟者たちは勝つこともあるが、それはただ一時的でしかない。彼らの闘争の本来の成果は、直接の成功ではなくて、労慟者たちがますます広く自分のまわりにひろげてゆく団結である。

労働者たちの団結は、大工業が生み出して、種々の地方の労慟者たちを互いに結びつける交通手段の増大によって促進される。

しかし、いたるところで同じような性格をもっている多くの地方的闘争を、一つの全国的な闘争に、一つの階級闘争に集中するためには、団結だけが必要なのである。

しかし、どの階級闘争も政治的闘争である。そして、中世の市民が市町村道をもってして数世紀を要した団結を、鉄道をもつ近代的プロレタリアはわずかの年数でなしとげる。

──略──

 これまでのすべての運動は、少数者の運動であったか、または少数者の利益のための運動であった。プロレタリア的運動は、膨大な多数者の利益のための膨大な多数者の自立的運動である。現今の社会の最下層であるプロレタリアートが起き上がり、立ち上がれば、かならず公的社会をかたちづくっている諸階層の上部構造全体が爆破される。

 ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、内容としてはそうではないとしても、形式としてはさしあたり一国的である。各国のプロレタリアートは、当然まず第一に、自国のブルジョアジーをかたづけなければならない。

 われわれは、プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸局面をえがいたことによって、現存する社会の内部における多かれ少なかれ隠された内乱のあとをたどって、この内乱が公然の革命となって爆発し、強力によるブルジョアジーの転覆によってプロレタリアートがその支配の基礎をつくるというところにまで到達した。

 これまでのすべての社会は、われわれが見てきたように、抑圧する階級と抑圧される階級との対立にもとづいていた。しかし、一つの階級を抑圧しうるためには、その内部でこの階級に少なくともその奴隷的存在を維持することができる諸条件が保障されなければならない。農奴は農奴制のなかでコミューンの成員に成りあがったが、小ブルジョアは封建制的絶対主義のくびきのもとでブルジョアに成りあがった。

これに反して、近代的労働者は、産業の発展とともに向上する代わりに、自分自身の階級の諸条件よりも下にますます深く沈んでゆく。労働者は受救貧民となり、受救貧民層は人口および富よりもいっそう急速に発展する。これとともに、ブルジョアジーには、いっそう長く社会の支配的階級であることを続けて、自分の階級の生活諸条件を規制的な法則として社会に押しつける力がないということが明らかになる。

ブルジョアジーに支配する力がないのは、ブルジョアジーには自分の奴隷制度の内部においてさえも自分の奴隷に生存を保障する力がないからであり、ブルジョアジーが奴隷によって養われる代わりに奴隷を養わなければならない状態に奴隷を沈ませざるをえないからである。社会は、もはやブルジョアジーのもとで生活することはできない、すなわちブルジョアジーの生活はもはや社会と両立することができないのである。

 ブルジョア階級の存在および支配のためのもっとも本質的な条件は、私人の手中への富の累積、すなわち資本の形成および増大である。資本の条件は賃労働である。賃労働はもっぱら労働者相互のあいだの競争にもとづいている。ブルジョアジーがその意志のない無抵抗な担い手である産業の進歩は、競争による労働者の孤立化の代わりに、結社による労働者の革命的な団結をつくりだす。

それゆえ、大工業の発展とともに、ブルジョアジーの足もとから、ブルジョアジーが生産して生産物を取得する基礎そのものが取り去られる。ブルジョアジーは、なによりもまず、自分自身の墓掘り人をつくりだす。ブルジョアジーの没落およびプロレタリアートの勝利は、ともに避けられない。
(マルクス/エンゲルス著「共産党宣言・共産主義の諸原理」新日本出版社 p64-70)

■━━━━━

 昼前、雷鳴がとどろきました。しかけた爆弾で大空を破裂させながら突っ切っていくような、耳をつんざく衝撃音。かと思えば、乾いた銃声のような音が続けざまに響き渡る……

▼ほどなく、どしゃぶりの雨に。梅雨らしい梅雨が訪れなかった今年ですが、雷が鳴れば梅雨があけるといいます。しかし、ふと思ったのは、爆音と銃声のやまないイラクの町、そこに住む人びとの恐怖でした

▼雨がやみ、投票所ヘ。道端の、昼のオシロイバナは花びらを閉じ、眠っています。投票所の小学校は、なかなかのにぎわいでした。やはり、雨上がりの空の明るさに誘われてきた人とかでしょう。校庭の白いタチアオイが迎えてくれました

▼てっぺんに花をつけたタチアオイです。下から次々と咲いていくタチアオイの花が頂でほほえむころ、梅雨は終わるといいます。同じ梅雨あけのしるしでも、雷嗚は現実の戦争を思い起こさせましたが、こちらはあくまで平和です

▼戦争でなく平和を。戦争でみずから手を汚す国でなく、憲法九条とともに生き、平和な世界のつくり手として巨大な役割をはたす国を。日本共産党がそう訴えつづけた参院選でした。憲法九条を生かすか殺すか。そして、消費税増税を許すかどうか。いずれも、新しく選ばれた議員の任期中に問われてきます

▼参院選は、残念きわまりない結果に終わりました。しかし、国の進路をめぐるたたかいは、まだ始まったばかり。わたしたちの問いかけと訴えは、いっそう重みをましていくはずです。
(しんぶん赤旗040712)

■━━━━━

私の生いたち


三十八にもなる娘が
地方講演に発つといえば
トランクをもって停留場まで行くという。吹雪の稚内に発つといえば
アベ川餅をナイロンにつつみ
お腹につけて行けという
汽車が途中でとまってもよいように。
もう七十一にもなるおぢいさんより
私の方が強いのだからと笑っていえば
そうだなあとやさしく笑う
きめのこまかい鼻すぢの通った顔も少さくなり白髪もうすくなった父ものごごろついてから
私の記憶の総ては
やさしい父の愛情につながる
玄関のベルがなって
「ハイゝと出て行く父に
初めて会った人は
何と優しいおばあさんだろう といった。
この父の一番の幸せは
私が一緒に家にいること
だけど
その私は 大きな幸せの為にと
朝から夜まで外出がち
疲れが出て一日休めば
心配の中にも嬉しそうに
ストーブのそばで静かにテレビをみつめている
粗末な服に着ぶくれている父
「お父さんは貧乏性ね」と軽く笑えば
「父さんは子供の時貧乏で苦労したから、お前にはそんな苦労をさせたくないんだよ」と。しみじみいったその言葉
いつまでも長生させてやりたい私の父。
(小笠原貞子著「面(おもて)を太陽にむけて」啓隆閣 p5-7)

■━━━━━

 今からおよそ四〇〇年ほど前に、イタリアの哲学者でジョルダノ・ブルーノ(一五四八〜一六〇〇年)という人がありました。この人は、当時まだキリスト教がつよく世界を支配していた時代のさなかにあって、しかもローマ法王のおひざもとであるイタリアで、キリスト教的世界観とはちがった新しい哲学──自然哲学といって、当時コペルニクスやガリレオなどを先駆者として発展しつつあった近代自然科学とむすびついた新しい哲学をとなえたために、つかまえられて宗教裁判にかけられ、火あぶりの刑に処せられて焼きころされてしまったのでありますが、その彼が、晩年自らのみじかい生涯をかえりみて語った有名なことばがあります。

 それは「私たちは服をきるとき、最初のボタンをまちがえないように気をつけないといけない。なぜなら、一度第一ボタンをつけちがえてしまうと、あとのボタンはみんなつけちがえてしまうものだから」ということでした。

 しかし実をいうと、ブルーノがほんとうにいおうとしたのは洋服のボタンのことではありません。洋服のボタンなら、たとえしまいまでつけちがいをしたとしても、とりはずしてやりなおせばすむことで、そのためにそんなにたくさんの時間はかかりません。ブルーノがここでいおうとしたのは、われわれの人生における人間としての生き方のことだったのです。人生はかき損じをゆるさない、毎日毎時やることなすことは、すべて一回かぎりで、あとになって、それがあやまちだと知ったからといって、時間を前にひきもどすということはできません。

ですから人生の出発点である青年時代に、どういう生き方をするかということはきわめて重要なことです。この時にボタンのつけちがいのようなことをやってしまうと、あとになってから「これはまちがっていた」と気がついても、もうその時には、あともどりして出なおすということはできません。そのために悪いとしりながら自分の身をほろぼしてしまうまで、その誤った道を歩みつづけてしまうのほかはないようなばあいさえ少なくないのであります。

──略──

 ですから、今日のような歴史のはげしい転換期の中にあって、何が正しいかということをほんとうにつかむということはなみたいていのことではありません。いまの世の中で正しいとみとめられ、新聞やその他のマスコミの世界でどんなに高い評価を与えられていたとしても、それがそのまま二十年後、三十年後の世界に通用すると甘く考えたら、これほど大きな誤りはないでありましょう。

時代の転換期はたいていのばあい過去の善が悪となり、悪が逆に善となる──そういうことも、けっしてまれではありません。ですから現代のような時代にほんとうに確信と勇気とをもって正しく生きぬくということは、まったくもってなみたいていのことではないのであります。

 そのためにはなによりもまず現代の歴史が、どこからどこにむかってすすむ必然性をもっているかということを、単なる主観的希望や憶測によってではなく、客観的科学的な世界観の確立をとおしてつかみとることが大切であり、それにもとづいて現代における青年のあらゆる生き方の可能性を分析し、その一つ一つのもっている意義と限界を明らかにすることが大切です。

このような科学的世界観については、今くわしくのべる余裕はありませんが、ここには、現代における青年の生き方としてとりあえず次の五つをあげ、その一つ一つがいかなる意義と関連をもちどのような限界をもっているか? そして、さいごにいかなる生き方が正しいものとして未来性をもつかということをひととおり明らかにしてみたいと思います。

 第一 現在の体制の中でできるだけ有能な働き手となり、これによって支配者の信頼を得て自分の生活の安定をはかり、より高い社会的地位と名誉とをかくとくすることをめざしてすすむ生き方。

 第二 現在の社会にすみからすみまではびこる矛盾と腐敗に絶望し、その中をたくみに泳いで有能な働き手となる自己の能力に絶望し、しかも、これをもって人間の存在そのものを本質的な悪のあらわれとみて人間そのもの、人生そのものに絶望して、あるいはニヒリズム(虚無主義)におち入り、あるいは一瞬一瞬の享楽をもとめて走るデカダンの徒となり、ついには「麻薬患者」「やくざ」「暴力団」や犯罪者の群に身を投じてゆくに至るもの。

 第三 学問、技術、芸能というような一定の特殊な分野にとじこもり、そこに自分だけの生きる道を見出し、自己の人格の完成というような理想をえがいて進もうとするもの。

 第四 現実の自己にふりかかる社会の矛盾、人生の悲惨と生きることの不安にたえきれず、救いを宗教の世界にもとめ、有限な人間の能力を超越した無限者絶対者にたよることによってそこに主観的な心の安らぎを与えられ、生きることの希望を見出そうとするもの。

 第五 自己の現実にあたえられたくるしみやなやみの原因を、ただ自分ひとりだけに与えられたものとして個人的に考え個人的に解決しようとするのでなく、そのなやみをひろく全人民大衆に普遍的なものとみて、その原因を科学的に探究しそれが社会そのもののしくみの中にあることを認識して、ここから大衆を救い出すためには、大衆自身の自覚と行動を通して社会を変革し、大衆自身が自ら主人公となるような社会をつくることによって現代の不幸から全人民を解放するために身をささげようとずる生き方。

 以上の五つが現代における人びとの生き方の主要な道であるということができるように思います。こまかく考えればまだほかにもいろいろあるかもしれませんが、それらもつまるところは、この五つの中のどれかに帰着するということができるのではないでしょうか。
(柳田謙十郎著「現代に生きる」学習の友社 p11-18)

■━━━━━

 いまから一三〇年ほどまえ、当時二四歳の青年エンゲルスは、当時の「イギリスの労働者階級の状態」をくわしく調査して、つぎのようにのべました。

「労働者は支配階級に対して怒りを感じているあいだだけ人間なのである。労働者が自分たちをしばりつけている首かせを辛抱づよくがまんし、その首かせを自分でこわそうとはせずに、ひたすら首かせをされたままで生活を愉快にしようとしはじめると、労働者はたちまち動物となる。」

 日本の労働者も、うまれおちたそのときから、こんにちにいたるまで、自分たちをしばりつけている首かせが何であり、どうしたらこれをなくすることができるかを探しもとめて、たたかいつづけてきたといえましょう。

 そして、こんにち、さきにのべたように、この首かせをなくして、自らあたらしい社会の主人公、自分の働く産業の未来の管理者、統治者としての能力を、きびしいまいにちのたたかいの試練のなかで、身につけつつあるのです。

 なんとすばらしい発展、成長ではありませんか。

 これが、みなさんたちが生きる今日の時代の特徴です。
 この任務をりっぱにやりとげるためには、もちろん怒りだけでは足りません。その怒りを真の力にかえなければなりませんし、そうするためには、科学的社会主義の理論を学び、身につけ、たたかいながら、さらにこれを発展させることが必要です。

 危機のふかまる、きびしい激動の時代に、どんな困難にも耐えぬく勇気と気概は、くもりない理論にうらづけられた確信と展望にうらうちされたとき、はじめて持続的な信念、情熱となって私たちをささえる力となります。

 みなさんが歴史を学んで、さらに科学的社会主義の理論を系統的・持続的に学習されることをおすすめします。

 働きがいと生きがいを真剣に追求することが、新しい日本の夜明けの歴史をきりひらくことと一つにむすびついている時代、この時代に、日本の労働者階級の誇るべき伝統をうけつぎ、進歩と解放のためにたたかうこと以上に、誇り高い生きがいがあるでしょうか。

 戦争と貧乏に耐えながらみなさんたちを育てあげてきた両親やおじいさん、おばあさんが、日本の歴史をきずくために、文字どおり血をながし、いい知れぬ犠牲となった幾百万の先輩たちが、みなさんに、このことを期待しています。

 そして、未来の日本をになう若ものたち、みなさんのあとにつづくものたちも、みなさんに、このことを期待しているのです。
(谷川巌著「日本労働史」学習の友社 p250-251)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎小笠原さんは、第1回日本母親大会の議長、「新日本婦人の会」初代事務局長、参議院議員でした。「大きな幸せの為に」活躍する無数の仲間が必要です。日本の労働者階級に働きかける担い手がもっと必要なのです。

たじろがない♀m信と勇気をそなえた仲間達が……。