学習通信040713
◎「それの本性と性格とを理解することを頑強に拒んでいるあいだは」……。

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 強い規制、特に需給調整規制と価格規制を受けるサービスは、一般産業に比べて公的セクターによる供給の比重が高い。郵便、高速道路、空港は国営独占下ないし地方公営独占下にあり、水道事業の大部分と鉄道、バスの一部も地方公営事業として運営されている。教育や医療の分野も公営制度の比率が高い。

 公営制度は「民営+規制」という介入形態よりも一層強い市場介入の形態であり、規制破壊の観点からは当然民営化が示唆される。民営化の可能な領域は医療、教育、消防、社会資本なども含めて非常に広く、民営化によって効率改善が期待されるにもかかわらず、公営制度に対する人々の幻想がこれを妨げている。

乏しい公営制度の必然性

 公営企業などの公的な供給形態がとられている理由は、資本と生産手段の国有化が計画経済と社会主義的国家運営に必然的とされた社会主義国や労働党政権下の英国を除けば、市場失敗要因の解決が民間産業への市場介入だけでは不十分であり、国や自治体の手によって直接供給するほうが望ましいという、「官」への高い期待感に基づく。

すなわち、公営制度は市場介入の手段の一つであり、強い介入を行うための手段と理解される。

 たとえば、鉄道事業への市場介入は民営のままでも可能であるが、鉄道に国土開発の役割や国防上の役割を積極的に負わせるには、介入と保護を強化する必要があり、そのためには民間企業と一線を画して官の意向が実現しやすい供給形態をとることが望ましいとされてきた。

 しかし、現在では、「民営+規制」では対応できないような特段に強い介入を支持する根拠は見あたらない。

 世間では一般的に「公共性が高いから公営制度」という単純な図式が信じられているが、公共性が高い(すなわち市場の失敗要因が存在する)ということと、公営でなければならない理由とは同じではない。市場の失敗要因が存在するなら、「民営+規制」で十分である。たとえば、鉄道について自然独占の見地から市場介入が必要であるとしても、民間鉄道会社に対して需給調整規制と価格規制を課せばすむことである。

 また、所得分配上の見地から、たとえば低所得者や高齢者に安価な医療サービスを提供したり、小学生に無料で教育を提供する必要があると判断される場合も、補助金を公立病院や公立学校を通じて提供する必然性は全くなく、民営企業や私立学校に補助金を交付したり、ユーザー側に補助金を交付する方法と完全に代替的である。第七章で述べるように、ユーザーサイド補助への変更と民営化は、弱者の状況を大きく改善する。また、高速道路や空港など社会資本分野についても、後述するように資金調達や整備制度を工夫してやれば民営化の可能性は十分ある。

 むしろ、公営供給体の存在は、しばしば補助制度や資金調達上の条件が公営と民営で異なる等の伝統的な制度上の差により、競争条件を歪めるだけでなく、このような公営形態の優遇策が、たとえば、新線建設にあたって経営形態を選ぶ場合に、「民鉄+補助金」のほうが効率的であるにもかかわらず、国の補助条件が有利であるとの理由で公営形態が選ばれるという、本末転倒の状況さえ生じさせる。
(中条潮著「規制破壊」東洋経済新報社 p125-127)

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緊急なのは日本経済の壮大なムダをなくすこと   不破

ソニーの盛田さんの提言に共感する
 日本は、資本主義の社会です。だから、いろいろな不都合にぶつかっても、「資本主義ならどこへ行ってもこんなものだろう」とあきらめてしまう方が多い。しかし、世界をよく歩く人だと、いやおうなしに、「同じ資本主義のなかでも、日本は少しおかしいんじゃないか」ということに気づく。資本主義日本の経済を動かす中心にいる大企業のトップでもそういう疑問をもった人がいた。それが、七年前ソニーの会長だった盛田昭夫さんが、『文藝春秋』という雑誌(九二年二月号)に書いた「『日本型経営』が危ない」という論文でした。

 大企業のトップと私たち日本共産党とは、とくに日本資本主義の見方については、正反対の立場にいるはずなのですが、この論文を読んでみると、経済のゆがみについての見方も、どこを直すべきかという目標の設定も、さらには、その直し方までが、日本社会の改革についての私たちの主張、提案とぴったり合っているので驚きました。

 盛田さんは、「日本型経営」の先頭に立って頑張ってきたが、各国の政府や財界の首脳と交流を重ねてみると、このやり方を続けていると、日本は「不公正な」競争相手だということになって、世界からまともに相手にされなくなる、これでは大変だということに気づいたというのです。
 盛田さんは、企業の行動にかかわるものですが、これは世界に通用しない≠ニ危機感をもった問題点を、六つ挙げています。

 一つは、労働者を働かせる時間が長すぎること。
 二つ目は、企業内での分配率、つまり従業員の給与が低すぎること。
 三つ目は、株主への配当が低すぎること。
 四つ目は、下請け企業(盛田さんは、部品供給企業と呼んでいます)との関係が、対等・平等でないこと。

 五つ目は、地域社会への貢献に積極的でないこと。
 六つ目は、環境保護や省資源対策への配慮が足りないこと。

 盛田さんは、これらの点について、日本の企業とドイツ、フランス、アメリカの企業との違いを数字をあげて具体的に比較して、「日本型経営」が世界からみるとどんなにゆがんでいるかを示しています。なかなか実証的です。そして、ここを解決しないと、いくら「よい製品を安く」つくっても、世界から「ルール破り」だと叩かれるだけだ、世界のなかの日本としてやっていくには、そこをなんとか打開しなければ、というわけです。そういう強烈な問題意識に立っての改革の提案として読みました。

 ここにあげられている問題点は、私たちが「ルールなき資本主義」と言っているものと、ほとんど重なっているのです。たとえば、第一の労働時間を減らす問題は、共産党が提案している労働基準法の改正案の中心問題の一つです。

 だいたい、残業にしても、日本では、「これ以上はダメ」という上限が決められていないでしょう。ところが、ドイツやフランスでは法律で、イギリスやアメリカでは全国的な団体協約で、上限がきびしく決められていて、日本のような野放しという国はないのです。

 日本資本主義が国民の権利を守るルールに反しているというのは、こういう点ですが、そこを盛田論文はよく見ていました。もっとも私たちは、株主への配当についてまでは、改革を提言していませんが。

 日本の資本主義のこういうゆがみを正すには、法律などで、世界に通じる世間なみのルールをしっかり確立して、企業も社会もそれをきちんと守るようにすることが大事です。環境を守るルール、労働時間を普通の健康な生活ができる一定の範囲内におさえるルール、下請け企業と親企業とのあいだで対等の契約関係を確立して、いままでのような下請け泣かせの無理がとおらないようにするルール、などなどです。

 こういうやり方を、私たちは、「大企業にたいする民主的規制」ということばで呼んでいます。盛田さんの提案は、この問題でも、私たちの考えにたいへん近いのです。提言している改革をどうして実現するかについて、「日本の現在の企業風土」では、一社だけでやろうとすると、その会社がつぶれてしまう、「日本の経済・社会システム全体を変えていくこと」ではじめて実現が可能になる、とも言っています。つまり、社会全体として、そういうルールをつくり、企業の全体がそれを守っていく体制をつくろうということですから、私たちのいう「民主的規制」とほぼ同じ立場なのです。

 盛田さんは、おそらく私たちの「民主的規制」論はご存じなかったと思います。その盛田さんが、日本有数の大企業のトップの体験をもとに提案していることが、日本共産党の改革論とよく似ている。
 これはやはり、日本の経済を改革する大事な方向がここにあるということです。

 いま、日本の政界は「規制緩和」ばやりです。たしかに撤廃すべき官僚的な古い規制はいまもあちこちに根深く残っており、これをなくしていくのは当然のことですが、一方、企業の行動で、社会全体の利益のために規制されるべきものが、野放しになっているという問題、欧米にはルールができているが、日本ではそれがないという問題は、たくさんあります。そこをよく見て、世界に通用する社会的なルールづくりをやっていくことを、日本経済の改革の一つの大きな柱にしなければならない、と思います。

民主的改革に「国有化」の考えはありません

 私たちは、いま問題にしている民主的改革は、社会的ルールづくりを中心に考えており、改革の手段の一つとして、国有化というやり方をとるつもりは、まったくありません。

 国有化というのは、結局は、経営を、民間の経営者からお役人の手に移すことで、それによって経済のいろいろな問題を国民の立場で解決できるということにはならないからです。以前は、私たちも、特定の部門については、国有化が改革の手段になることもありうるという考えを持っていたこともあったのですが、一九九四年に党の綱領を部分改定したさい、今日の改革のプログラムから、国有化という考えはいっさい取り除くことにしました。

 いまは、むしろ政府、自民党のほうが、銀行の「国有化」を問題にしたりしているから、面白い。しかし、これはべつに、社会全体の立場で運営される新しい経済部門を生み出すための国有化ではありません。長銀や日債銀をみてもわかるように、銀行が大失敗をしたとき、その処理に国民の税金を注ぎ込みやすくするための「国有化」にすぎせん。政権党というのは、ずいぶん手前勝手なことをするものだと思います。

 国民の利益を第一にした改革をずっと先の先まで考えていくと、将来、国有化が出番だという日もやってくると思います。しかし、経営を国の手に移して、それが国民全体の利益に役立つといえるためには、改革をする国民の側に、日本経済の全体を動かしていく力がもっともっと身についていないといけない。

 形だけの国有化で、官僚が力を持っただけだというのは、ごめんですから。
(不破・井上著「新日本共産党宣言」光文社 p196-202)

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 生産財と労働力とを結合させる契機のうちで,重要なものは生産技術である.資本制のもとでは,生産技術は,前章で述べたように,ほんらい特別利潤の獲得を目的にして私的資本のもとで開発され,導入された.だが,生産力の巨大化・高度化にともなって,大規模なあるいは画期的な新生産技術の研究・開発は多額の費用を要するようになり,私的資本の手に及ばないようになる.そこで,この分野にも国家が介入し,公的資金による試験・研究機関で新生産技術を開発し,私的資本あるいは国家事業に供与するという形態がしだいにとられるようになる.

 生産過程で用いられるある種の一般的共同的労働手段,すなわち道路,港湾,空港,水道施設などは,ほんらい私的に所有・利用されえないものであって,国家が供給するほかなかったのであるが,生産力の発展とともに,これらの部分が増大する.

 さらに,交通,通信,エネルギーなどある種の生産部門は,国家事業として国家によって直接行われるようになる.国有企業・国営企業は,資本制の創始期から存在するが,生産力の巨大化にともなって,全体としては増大する傾向にある.これらの生産部門では巨額の投下資本を必要とするので,私的資本の手に及ばないという面もあり,他方では,これらの国営事業が低い利潤率で甘んじることにより,私的資本の利潤率をおし上げるという面もある.逆に,国営事業がある程度の利潤率をあげうる展望をもったときには,「民営化」されることもある.
(置塩・鶴田・米田著「経済学」大月書店 p173-174)

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 恐慌が、ブルジョアジーには現代の生産力をこれ以上管理していく能力がないことを暴露した、その一方で、大規模な生産施設および交通通信施設が株式会社と国家所有とに変えられるということは、〔現代の生産カをこの先も管理していくという〕あの目的のためにはブルジョアジーがいなくてよいことを示している。

資本家のすべての社会的機能は、いまでは、給料をもらっている職員が果たしている。資本家は、所得を受け取ること・利札を切ること・さまざまな資本家が互いに資本の取りあいをする取引所で賭け事をやる〔投機する〕ことのほかには、もう社会的活動をしない。

資本主義的生産様式は、まず労働者を駆逐したが、いまでは、資本家を駆逐して、労働者の場合とまったく同じように──さしあたってはまだ産業予備軍のなかへではないが──余分な人口のなかへ追いやるのである。

 しかし、株式会社への転換も、国家所有への転換も、生産力のもっている資本という性質を廃止しない。株式会社の場合には、このことは手に取るように明白である。

そして、現代国家は、これまた、資本主義的生産様式の一般的な外的諸条件を労働者による侵害からも個々の資本家による侵害からも守って維持するために、ブルジョア社会が自分のためにつくりだす、そういう組織にすぎない。

どういう形態をとっているにせよ、本質上、資本家の機関であり、資本家の国家であり、観念上の総資本家である。国家が譲り受けて自分の所有とする生産力がふえればふえるほど、国家は、それだけますます現実の総資本家となり、ますます大ぜいの国民を搾取するようになる。

労働者は、いつまでも賃金労働者のままでありプロレタリアのままである。資本関係は、廃止されないで、むしろ絶頂へ推し進められる。

しかし、その絶頂でひっくりかえる。生産力の国家所有は、衝突の解決ではないが、しかし、そのなかには、解決の形式上の手段が、きっかけが、隠されている。

 この解決は、現代の生産力の社会的な本性を本当に承認すること、したがって、生産および取得および交換の仕方を生産手段の社会的な性格と一致させること、このほかにはありえない。

そして、そうするためには、社会が、自分以外のなにものの指揮の手にも負えないほどに成長した生産力を、公然とまた回り道をせずに掌握すること、これ以外に方法はない。

そうなれば、生産手段と生産物との社会的な性格−これは、こんにちでは、生産者自身に反抗し、生産および交換の様式を周期的に突き破り、もっぱら盲目的に作用する自然法則として暴カ的にまた破壊的に貫徹されるのである──は、生産者の手で十分な意識をもって発揮されるようになり、攪乱と周期的な崩壊との原因ではなくなって、生産そのものの最も力づよい挺子に変わるのである。

 社会的に作用する諸力は、自然力とまったく同じように作用する。すなわち、われわれがそれを認識せず考慮に入れないあいだは、盲目的に暴力的に破壊的に作用する。

われわれがしかしそれをいったん認識し、その活動・その方向・その結果を把握したなら、それをますますわれわれの意志に従わせ、それを使ってわれわれの目的を達成することは、まったくわれわれしだいのことになる。そして、このことは、こんにちの巨大な生産力にとくによくあてはまる。

われわれがそれの本性と性格とを理解することを頑強に拒んでいるあいだは──そして、これを理解することにさからっているのは、資本主義的生産様式とその弁護者たちとである──、そのあいだは、このカは、われわれを無視しわれわれにさからって作用し、われわれを支配する。このことは、すでに詳しく述べたとおりである。

しかし、いったんその本性を把握すれば、協同社会に結合した生産者たちの手で、それを悪魔的な支配者からよろこんで仕事をする召使いに変えることができる。

それは、雷雨のさいの稲妻における電気の破壊力と、電信とアーク灯との手なずけられた電気との違いであり、大火災と人間の用をつとめる火との違いである。

このようにこんにちの生産力をついに認織されたその本性に従って取り扱いようになれば、生産の社会的な無政府状態に代わって、全社会および各個人の必要=欲求に応じての、生産の社会的・計画的な調節が現われてくる。

それとともに、生産物がはじめは生産者をつぎには取得者をも隷属させる資本主義的取得様式に代わって、現代の生産手段の本性そのものにもとづいた取得様式が現われる。すなわち、一方では、生産を維持し拡張するための手段としての直接に社会的な取得、他方では、生活および享受の手段としての直接に個人的な取得、この両者が現われる。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p152-155)

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◎「株式会社への転換も、国家所有への転換も、生産力のもっている資本という性質を廃止しない。」と。