学習通信040714
◎──この変革をなしとげなければならない勢力……

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 資本主義的生産様式は、人口の大多数をますますプロレタリアに変えていくことによって、没落したくなければどうしてもこの変革をなしとげなければならない勢力をつくりだす。この生産様式は、大規模な社会化された生産手段の国家所有への転換をますます推し進めていくことによって、この変革をなしとげる道をみずから示す。

プロレタリアートは、国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家所有に変えるのである。しかし、そうすることで、プロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を止揚し、そうすることですべての階級区別と階級対立とを止揚し、そうすることで国家としての国家をも止揚する。階級対立のかたちをとって運動してきたこれまでの社会には、国家が必要であった。

つまり、そのときどきの搾取階級が自分の外的な生産諸条件を維持するために使う一つの組織が、だからとくに、現存の生産様式をとおして与えられた抑圧の諸条件(奴隷制、農奴制または隷農制、賃労働)のもとで被搾取階級を力ずくで抑えつけておくために使う一つの組織が、必要であった。国家は、全社会の公式の代表者であり、全社会を目に見える一団体に総括したものであった。

しかし、国家がそういうものであったのは、国家が全社会をそれぞれの時代に代表している階級の国家──すなわち、古代では奴隷所有者である国家市民の、中世では封建貴族の、現代ではブルジョアジーの、国家──である限りでのことにすぎなかった。

国家は、ついに本当に全社会の代表者となることによって、自分自身を余計なものにしてしまう。抑圧しておかなければならない社会階級がもういなくなれば、また、階級支配およびこれまでの生産の無政府状態にもとづいた個人間の生存闘争とともに、そこに端を発する衝突も暴行ざたも取り除かれれば、そのとたんに、一つの特殊な抑圧権力である国家を必要とするような、抑圧されなければならないものは、もうなにもなくなるのである。

国家がそのなかで真に全社会の代長者として登場する最初の行為──生産手段を社会の名において掌握すること──は、同時に、国家が国家として行なう最後の自主的な行為である。国家権カが社会関係に干渉することは、一つの領域から他の領域へ、つぎつぎに余計なものになり、やがてひとりでに眠り込んでしまう。人を統治することに代わって、物を管理し生産過程を指揮することが現われる。

国家は「廃止される」のではない。死滅するのである。「自由な民主国家」というきまり文句は、この点に照らして評価しなければならない。つまり、扇動の手段として一時的な正当性をもっているという点でも、科学の立場から見て最終的には不十分であるという点でも、評価しなければならない。〈国家をきょうあすにも廃止せよ〉という、いわゆる無政府主義者の要求も、やはりこの点に照らして評価しなければならない。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p155-156)

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(1)生存の自由――健康で豊かな国民生活の保障

 今日、歴代の反動政治のもとで、より根本的には、大企業による経済支配と対米従属の結果、国民の生存と生活の諸条件は、軍拡の財源づくりなどのための消費税導入による大増税、物価高、低賃金、長時間・超過密労働、労働災害、公害、住宅難、社会保障の貧困など多面的に抑圧、破壊されている。

国民の生活条件にたいするこれらの圧迫や侵害をとりのぞいて、すべての国民が健康で文化的な、人間らしい生活をいとなめる条件を確保すること、すなわち国民の「生存の自由」を現実に保障することは、われわれのめざす自由のもっとも重要な内容の1つである。

 民主連合政府による国政の革新は、これまでの大企業本位の経済政策にかわって、国民本位の経済民主主義を国の経済政策の基本にすえ、大企業にたいする民主的規制をつうじてその横暴な経済活動を抑制し、これによって、資本主義経済のわく内ではあるが、国民の「生存の自由」の保障への大きな前進となる。

 独立・民主日本では、この経済民主主義をいっそう拡大し、世界第2の高い経済力を、国民の生活と福祉に有効に役立てるうえで、いちだんと大きな発展がかちとられる。

 社会主義日本では、大企業の手中にある主要な生産手段は、社会全体の所有にうつされ、私的な利潤のためではなく、社会と国民のための生産が経済活動の原理となる。労働者は企業管理、運営への参加で積極的役割を果たす。こうして、生産力をむだなく効果的に活用する社会主義的計画経済によって、すべての国民にこれまでになく高い物質的繁栄と精神的開花が保障されるようになる。

(イ)インフレと物価高、不況と失業、公害による生活環境の破壊などは、本来、資本主義固有の現象であり、とくに大企業による経済支配の産物である。経済民主主義の方向への経済政策の転換と前進は、これらの被害を最小限にくいとめ、国民生活の安定と向上を可能にする。

とくに社会主義日本では、物価を安定させるだけでなく、生産力の発展におうじて物価引下げをおこなう条件がつくりだされるし、不況や失業を一掃して、各人の資質、能力におうじた職業選択の自由を保障しつつ、失業のない社会を実現することができる。公害・環境問題でも、社会主義日本では、公害の予防と発生源での除去、生活環境、自然環境の保護と改善が、全国的に確実に実施される。地球の環境保全にも積極的に貢献できる。

 日本における経済民主主義とその拡大、社会主義への前進のなかでは、人間尊重の立場にたって、国民を老後や病気の不安から解放する総合的な社会保障制度の確立が、最優先の国策となる。社会主義日本では、医療費は全額国庫の負担ですべての人に無料化され、年金も老後の生活を十分保障するものに充実し、教育費は大学まですべて無料とされる。

 また、住宅、学校、病院をはじめ国民が健康で文化的な生活をいとなむのに必要な公共施設は、国と地方自治体の責任で計画的に建設され、この分野での国民生活の困難は、急速に解消される。

(ロ)独立・民主日本はもちろん、社会主義日本に移行した段階でも、勤労者の私有財産は保障される。経済の社会主義化にあたって、国有化が必要となる場合にも、その対象となるのは、大企業の手にある主な生産手段だけで、勤労者個人の生活に使う財産――生活手段の私有は、否定されるどころか、家屋や生活に必要な土地をふくめて保障され、社会の発展とともに、すべての国民が生活手段をより豊かにもてるようになる。

 日本のように高度に発達した資本主義国では、大企業の手にある主要な生産手段の社会化が、経済の社会主義化への決定的な歩みとなる。中小商工業や農業、中小漁業などの部門では、私的所有と私的経営が広く残され、国民経済におけるその積極的役割が尊重される。これらの部門での社会主義化の主要な形態としては、協同組合化が予想されるが、そのさいにも、けっして共同化をいそがず、当事者がその方が利益になると考えて共同化を求めるときに実行するという、自発性の原則を厳重に守り、無理に押しつけるやり方はとらない。

(ハ)独立・民主日本でも、社会主義日本でも、日本の高い生産力、国民の高い教育水準と労働意欲を活用し、公害のないつりあいのとれた経済発展によって、国民の求める多様な商品を生産し、衣食住のすべてにわたって国民生活を豊かにする。商品も豊富で、質をよくし、サービスも心のこもったものに改善し、個人個人の商品選択の自由は、広く保障される。

 社会主義日本では、農漁業・中小商工業など私的な発意を尊重するとともに、計画経済と市場経済とを結合して、弾力的で効率的な経済の運営がはかられる。

 社会主義的計画経済は、生産力をむだなく効果的に活用して、国民生活と日本経済の豊かな繁栄を保障するための手段であって、国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「統制経済」は、経済民主主義とも、社会主義日本の経済生活とも、まったく無縁のものである。

(ニ)社会主義社会から共産主義社会へ移行する段階では、人民全体の知的水準の抜本的向上と生産力のすばらしい発展によって、社会生活を維持するために必要な労働時間を大幅に短縮できる条件が、つくりだされる。すべての勤労者が、物質的生産以外の領域でも、その精神的・肉体的な能力を全面的に発展させるために、自由な時間を十分にもつことができるようになる。

 こうして、共産主義社会での生産力の発展と労働時間の短縮は、人間の文化的・精神的な開花と真に自由な発展をささえる物質的基礎となる。「真の自由の国」(マルクス)はこの基礎のうえにのみ、花を開くことができる。
(日本共産党「自由と民主主義の宣言」1996年7月13日一部改定)

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 社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。
(日本共産党綱領 五、社会主義・共産主義の社会をめざして 第8段落)

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国家とはなんだろうか?

 次に、上部構造、とくに国家について、もう少しくわしく見ておきたいと思います。

●国家あっての国民?

 国家とはなにか、という問題は、現代の私たちにとってもきわめて重大な問題です。日本の支配層は、国家あっての国民であるから、国民は国家の命令には無条件でしたがうべきであるという国家主義のイデオロギーで、明治以来、人民支配をおこなってきました。戦後、この国家主義は批判され、主権在民(民主主義)の憲法もつくられましたが、自民党政府の多くの政治家は、国家主義的な考えをもちつづけ、憲法改悪をねらっています。

 かつて中曽根康弘首相が、日本のような国家は、ヨーロッパその他の国家のような「契約国家」ではなく、「自然的共同体として発生」したと主張して物議をかもしたことがあります(一九八五年自民党軽井沢セミナー)。ヨーロッパの国は、「契約国家」すなわち、人民の契約によって国家が成立したとされる「人民主権」つまり民主主義の国が多いが、日本はそうではない、国家は「自然的共同体」としてはじめからあったのであり、国民は国家のなかに宿命として生まれてきたのだという主張であって、民主主義に反対する国家主義の典型です。

二〇〇〇年の森喜朗首相による「天皇中心の神の国」というのも同じ思想であり、靖国神社公式参拝に固執した小泉首相も同じ国家主義の思想の持ち主です。また、これらとはまったくちがうかたちですが、近ごろではアメリカでも、同時多発テロをきっかけにして、ブッシュ政権が好戦的な政策を推進しています。これも新しいかたちのアメリカ的な国家主義の台頭だと考えられます。

 国家とは、このように国民の人権や民主主義よりも重要な「自然的共同体」といえるものでしょうか。そうではありません。そこを見ぬくためには、そもそも国家とはなにか、科学的にきちんと理解しておくことが大切です。そして、マルクス、エングルスは、史的唯物論の確立によって、歴史的研究の結果をふまえながら、国家とはなにかを科学的に明らかにしました。

●将来の共産主義社会では国家は消滅する

 マルクスとエンゲルスたちは、革命運動に身を投じて以来、現存の資本主義国家が階級支配の機関であることをきびしく批判すると同時に、やがて将来の共産主義社会になったときには、階級の消滅とともに階級支配も終わりを告げ、したがって国家も死滅していく時代がやってくるという展望を語ってきました。

しかし、当初は、マルクスもエンゲルスも、人類社会の最初の時代において国家の存在しない無階級社会があったということを知りませんでした。したがって、どのような経過で国家が誕生したのかという点も解明されていませんでした。
(鰺坂真著「科学的社会主義の世界観」新日本出版社 p180-182)

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◎「国家は消滅する」……。