学習通信040715
◎「苛斂誄求してやまなかった支配者をターゲット」……笑い。
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この能・狂言一卵性双生児説、もしくは兄弟説に対して、少数ながら異議を唱える人たちもいます。能はともかく、狂言は散楽・猿楽から派生したものではなく、上代以来の長い王権専制支配体制のなかから、ようやく、徐々に自由を勝ち取ってきた中世の農民たちのエネルギーによって創造された、そう説く学究たちです。そして、現に狂言をお客を前にして演じている狂言役者の実感として、茂山千之丞は断然この説に大きな魅力を感じると言っています。
こんな情景を想像してみて下さい。初夏の田植えや秋の穫り入れの時の原始的宗教行事──村をあげてのお祭りで、村人たちは農耕を支配する神様をお招きした祭壇の前に、車座になって飲めや歌えの一大饗宴を張っています。と、すっかり出来上がったご機嫌の農民が一人、ツと立ち上がって一座の真ん中へ飛び出して、滑稽な、そしてチョッと猥雑な物真似を始めました。群衆は腹を抱え、顎も外れるほどに笑い興じ、まさに祭りはクライマックスに達します……。
こうした即興の物真似が母体となって、後世狂言と呼ばれる演劇、私が生まれたのではないでしょうか。初めは単純な言葉とシグサによる「俄か芝居」程度のものだったでしょうが、達者な演者によって次第に劇的な要素が加わっていき、一人きりで演じる一人芝居らしいものに発展します。
そこへもう一人、時として数人の飛人りが参加して、演劇の原型が形作られていく。当初は単純な滑稽物真似芝居、たとえば独り相撲とか男女の交合のシーンなどであったものが、徐々に高度なものに成長していく。そして、その笑劇的なもののテーマないしはモチーフとして、常に彼ら農民を苛斂誄求(かれんちゅうきゅう)してやまなかった支配者をターゲットとする皮肉・風刺・嘲笑が、意識的に、あるいは没意識のなかで大きな役割を果たすようになるのはきわめて自然なことでした。
この権威嫌いの純朴なコミック芝居は、演者であり観客でもあった農民の自由を欣求(ごんぐ)するバイタリティーを糧として、より複雑で高度な、劇的なものへと成長していきます。次には演者の職業化という現象がおこります。プロの狂言役者の誕生です。更にそうしたプロの集団としての狂言一座が誕生します。
その頃すでに職業化し始めていた猿楽一座の芸達者な役者達が、狂言一座に加入してきたことも多かったでしょう。彼らは自分の生まれた土地に制約されることなく、自由に村から村へと巡業して廻り、やがては社寺や全国各地に新設される「市」を中核として急激に発展しつつあった新興都市の賑わいのなかで、ダイナミックで斬新な笑いを撒き散らします。
それはこの国の歴史のなかで、おそらくもっとも自由で民主的であった中世という時代の到来によって初めて市民権を獲得した農民・大衆のエネルギーが醸し出す新しい現象のひとこまでした。
現に狂言を演じている狂言役者、茂山千之丞の実感として、彼はこんな狂言生誕の姿を描いているようです。
──略──
江戸時代になって、狂言の世界に大きな変貌の波が押し寄せてきます。徳川幕政の一環として、能とともに私は武家の専有芸能に規制されてしまい、今日「式楽(しきがく)」と称されるセレモニー的な存在になってしまうのです。能や狂言の役者たちのほとんどが、幕府および諸大名の「お抱え」になります。殿様から俸禄をもらって生活するサラリーマンです。
そして能・狂言役者は、雇用主である殿様の命じる「式楽」の舞台(世継ぎの誕生祝い、若君の元服式、婚礼、官位の昇進、主としてそうした祝儀の節、時には先祖の法要といった儀礼のなかで行われる「式能」の舞台だけで能・狂言を演じる)を勤めることになります。例の『忠臣蔵』で浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだときも、京から下った勅使接待のための式能が城内の能舞台で催されていたそうです。
そして、こうした式能の観客は、極端にいえば殿様一家および来賓だけ。家中の待たちは殿様の命によって陪観するに止まっていました。ましてや町人や農民たちは、例外的に「町入り(まちいり)能」の節、限られた人たち、たとえば名主や出人り商人が「拝見を許される」以外は、能も狂言も見るチャンスはなかったのです。
こうした新しい環境のなかで、悲しいことに、私は日々に新しくなることを止めていかざるをえませんでした。受け継がれてきた膨大な作品群は、品位を落とすなどというきれいな言葉の下で、時とすると殿様の個人的な嗜好などで、人為的に淘汰されていきます。台本が、セリフが、シグサが、演出が、流儀とか流派などの規制によって、固定され、類型化されていきます。
おまけに笑いを下卑たものと見る儒教主導の倫理道徳社会のなかで、笑いの芝居狂言は「高邁で真面目な芸術」能への隷属を強いられる運命に陥りました。もっともその反面、個々の芸や演出が、より繊細に、より内的に洗練されていくプラス面も軽視することはできませんが、民衆を母体とし、そのなかで成育してきた私にとって、民衆と断絶せざるをえなかったことは、大悲劇以外の何ものでもありませんでした。
もっとも京都を中心とする上方や、古い寺社を中心にもつ地方都市では、少し事情が異なっていたようです。この圏内の能・狂言役者は、お抱え役者になることなく、神社や仏寺、公卿、そしてそれらに出入りする豪商や豪農をパトロンとして生活していました。こうしたパトロンたちの催す能・狂言の舞台は、たとえば祭礼のときなど、一般大衆もたやすく見る機会を得ていましたから、上方などの土地では、狂言の民衆との絆はわずかながらも保たれ続けていたと言えましょう。しかし全国的な趨勢のなかでは、その固定化・古典化は避けられない運命にありました。
徳川幕府崩壊の後、それまで経済的・身分的には過保護されていたともいえる能・狂言の世界は、一時壊滅寸前の事態に陥ります。能・狂言役者は全員が首切り、つまり失業状態になったのですから。けれどやがて能楽(能と狂言を包含してこの頃から使いはじめられた呼び名)は明治新政府の下で新たな生き方を見出します。しかしそれは依然として新興貴族・新興財閥を中心とする特権社会のなかにおいてでした。
いわばパトロンが殿様から官界・財界に移動したに過ぎなかったのです。その社会では、能に対する過当ともいえる評価とは裏腹に、狂言に対する蔑視は前時代よりむしろ強いものがあったような気さえします。今でも時に使われる「能狂言」という私の呼び名、私にとってはあまり有り難くない呼び名は、能に付属する狂言という意味をもってその頃から使い出されたものです。
私がそうした従属・蔑視から解放されるのは、日本が太平洋戦争に敗退する日を待たなければなりませんでした。デモクラシーの新しい風潮のなかで、それまではごく稀だった狂言役者自身がプロデュースする狂言だけの会を計画したり、能舞台以外の場で演じる機会を増やすなどして、自力で能との隷属関係を断ち切ることに半ば成功した私は、久しぶりに民衆と再会しました。
そして本来もっていた庶民性を蘇らせました。三百年あまりのあいだ、能の付属物として取り扱われ、新しい栄養を採ることを忘れ、ほとんど動脈硬化に陥りかけていた私に、そうした創造期のエネルギーが残存していたことに私自身驚嘆しました。狂言を創り出した民衆のエネルギーは、徳川三百年、それに続く新政府七十年間の抑圧に、じっと耐え通してきたのです。
敗戦を境に、私を能から切り放して考える人たちが、狂言・能の世界の内部にも外部にも、徐々に増えてきました。つまり私を「能狂言」ではなく、「狂言」として付き合ってくれる人々が、です。
その現れの一つは、広い演劇の世界で、私に初めて独立したジャンルが与えられたことでしょう。国際的な演劇の世界でも、従来、例の「能狂言」という観点から能の一部として扱われていた継子(ままこ)の私が、一演劇としての市民権を獲得しました。歌舞伎・文楽・新劇・大衆劇、それにオペラ・バレエ・ミュージカル、そして能があり、さらに狂言があるというわけです。
学問の場で、ついこの間まで能の研究の一部のように扱われていた狂言を、完全に独立した研究対象として選ぶ学究の徒が急激に増加してきました。それは単に学理面だけに止まらず、演技・演出の実際面でも、全演劇のなかの一方法論として狂言の技術が云々されるのが当たり前になりました。狂言の主体性が確保されたことが、敗戦後の我が演劇界におけるもっとも大きな出来事の一つであったと言えるかもしれません。
(茂山千之丞著「狂言じゃ 狂言じゃ 」文春文庫 p14-22)
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マニフェスト =積荷目録
これまでに何度も「ヒューマニズム宣言」という表現をつかってきました。
「宣言」というと、何か大声で叫びたてることみたいに感じた人がもしかしたらいたかもしれないと思います。でも、それはちょっとちがうのです。辞書をひいてみると「宣言」とは「個人または団体が、自分の意見や方針を世間にたいして表明すること」とあります。
「宣言」とは、英語やドイツ語では「マニフェスト」といいます。字義どおりには「手ではっきりとうちだすこと」という意味です。「手のうち公開」とか「持ちごま公開」とかいったら、かなり近いニュアンスがあらわせるでしょうか。商業用語としては、「積荷目録」という意味にもつかわれます。
たとえば、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』ですが、その前書きは、「妖怪がヨーロッパに出没する──共産主義の妖怪が」という有名な書き出しではじまり、
「いまこそ共産主義者が自分たちの見解、自分かちの目的、自分たちの志向するところを全世界のまえに公表して、共産主義の妖怪話に党自身の宣言を対置するときだ」とつづけられています。おそろしい秘密兵器を積みこんでいるぞ、バチルスを満載してるぞ、といったつくり話にたいして、じっさいの積荷目録を公開しよう、というのです。
この章では「ヒューマニズムの積荷しらべ」をやってみたい、と思っています。
もっとも、これまでに述べてきたことから明らかなように、ヒューマニズムとは特定の理論体系をいうのではありません。「人間らしさ・人間くささを大切に!」「もっと人間らしく・人間くさく!」という叫び、要求そのものをいうのです。それがどのような状況のなかからあげられてくるかによって、そのあらわれかたはいろいろとかわってきます。たとえば、ルネサンス期のヒューマニストの場合とゴリキーの場合とでは、そのおかれた状況は同一でなく、したがってヒューマニズムのあらわれかたも同一ではありません。にもかかわらず、そこには共通した一つの姿勢・態度があるはずで、だからこそ、同じヒューマニズムということばで呼ばれるわけでしょう。
「ヒューマニズムとは、わたしたちがなにをするときでも、なにを考えるときでも、かならず、わたしたちの行為や思考に加味されていてほしい態度のように思う」と渡辺一夫さんが書いていらっしゃいましたが、そのとおりだと思います。そういう態度のなかみをなすものは何か、何であったか、それをしらべてみよう──「ヒューマニズムの積荷しらべ」とはそういう意味です。
笑いと批判的精神
そのようなものとしてまずあげたいのは「笑いを大切にする」ということです。
ルネサンス期のフランス・ヒューマニズムの代表者の一人にラブレーという人がいます。『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』という長篇を書きあげました。この作品は全篇、愉快・痛快・豪快・爽快な哄笑にいろどられています。ガルガンチュワとパンタグリュエルというのは、中世の伝説に出てくる巨人王親子の名前ですが、ラブレーはこの古い素朴な伝説の筋をタテ糸としながら、それに自分の知識・見識・理念・思想のゆたかなヨコ糸をくわえて、まったく新しいタイプの作品を織りあげたのです。
足柄山(あしがらやま)の金太郎の伝説をふまえながら、これを井上ひさしの『吉里吉里人』のような奇想天外・抱腹絶倒の時代批判作品にしたてあげたようなもの、といえば、ある程度イメージがわくでしょうか。
のっけから、飲み食い・糞尿の話がこれでもかこれでもかとばかり出てきます。というと、眉をしかめる人がいるかもしれませんが、これは、人間の生理的欲望・現象を罪悪視した中世の神さまくさい文化の偽善性にたいする痛烈な批判だったのです。
そもそも笑いというものは人間に特有のものであり、きわめて人間くさいものです。
「人間は笑うことができる唯一の存在だ」とすでにアリストテレスがいっています。もっとも、動物にも笑いのめばえがあるという人もいますけれども、それはもっぱら「生理的快感の笑い」、つまり心地よさのため顔面神経の緊張がゆるむということのめばえにかぎられるようで、おかしくて笑うという「おかしさの笑い」は人間にしか──それも物心ついて以後の人間にしかないものであり、正真正銘人間くさいものです。
おかしさの笑いは、駄じゃれや語呂じゃれにしてもそうですが、必ず知的な要素をふくんでいます。だからこそ、それは物心ついて以後の人間にしかあらわれないのでしょう。
この「知的な要素」の正体は、現実にたいする批判ということにほかならない、と私は思います。「少々」とはショウが二つ、つまり大酒のみの二升のこと、とか、「希少価値」とは、たとえば一円玉のこと、とかいうのだって、現実にたいする批判でしょう。
ヒューマニズムの積荷目録の第一に「笑いを大切にする」ということをあげたのはそういう意味です。いいかえれば、それは批判的精神ということです。それがヒューマニズムの財産目録の第一にくる、ということです。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p26-30)
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◎笑いと人間らしさと。
◎「知的な要素」の正体は、現実にたいする批判……。