学習通信040716
◎「私は、……モハメッド・アリと対決しようとは思わない」

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■批判を恐れるな

 人間は、人に嫌われるより好かれたい。ほめられるほうが、そしられ、けなされるより、気持がいい。叱ってもらうよりは、おだてられるほうが気分がよい。人に好かれて、いい子になりたいものである。できることなら波風をさけて、世評、土司、後輩、部下におもねる格好になりがちである。格好を気にすると、ろくなことにならないことが多い。

 知ったかぶりをせずに、たえず人に聞きかえすことは人生勉強のなかで重要なこと。

「それはなにか?」
「どうしてそうなったか?」

 ──こういう問いを発するには、いささか勇気がいるものだ。当世ハヤリのいい格好をきめこんでいてはできない。

 若いころ、朝礼で話をするのがつらかった。わずかのストックはすぐに底をつく。これではならじと本を読み、書と語り、思索した。生かじりの間は、朝礼で話をしたあと、
「今日の工場長の話は、どこそこの本にのってた話だ」
「今日の話は、社主の受け売りだ」
 ……と、部下にネタモトを見すかされ、批判され、あからさまに冷笑をかった。しかし、人の批判などにかまっておれるものか。私は、なりふりかまわず勉強し、発言し続けた。それが、フト気がついたとき知らず知らずの成長となっていた。

 なりふりかまわず成長しようという意欲をむき出しにしている人間が、変化の激しい時代には貴重なのだ。

 私は、管理監督者を長年やってきた。その間、右か左かという場面にしばしばぶつかった。やることは右か左しかない。右にしてうまくいけばそれでよし、左にしてはずれたときには批判をうける。批判を受けるたびに、

 「−ああ、オレはだめだ、オレのやることはスカタンばかりだ」
 などと消沈していたら、とても人の上に立ち続けてこれるものではなかったろう。

 いまの大学を出た若い人は失敗をおかさないためのコースを実によく勉強している。危険の予測されるものは避けて通る達人ともいえる。だが、その結果は可もなく不可もない仕事振りとなって現われる。

 しかし、これからの日本は、少々ちがった人物を期待しているのではないだろうか。

 リスクをおかしても大きな壁にぶつかっていく勇気のある人が求められている。

 批判されない人生などつまらないはずだ。

■指導者はたえず問われている

 指導者は絶えず問われている。
 株主、地域社会からも、上司からも、従業員、部下からも、得意先、仕入先からも、機械からも、材料からも、建物からも……。

「あなたは、そのやり方でよろしいのでしょうか」
「あなたは、そのやり方が、こんな無駄を生じていることを知っていますか」
「あなたは、もっとよい方法を勉強して、探求しようとしないのですか」
「もっと積極的にやらないのですか」
……これらの質問について、あなたは、直ちに「ハイ、それは……だからです」と明確に答えられるだろうか。
 答えていても、それは「言い訳の答」に終始していないだろうか。「実行のための答」こそ重要なのだ。

 期待される答をなしうるためにも、自分の会社、工場の能力、体力をはっきり把握しておくことだ。つまり、「現状の、あるがままの姿」を認識していなくては、指導者はつとまらない。

 あるがままの姿の認識が不十分であれば、あるべき姿への改善のプロセスで挫折し、失敗してしまう。
 数字におきかえて、「現状の、あるがままの姿」を把握しておくと好都合だ。

 日々の仕事をふりかえってみよう。たとえば、生産高を質問された。
 「ちょっとお待ち下さい。現場に聞かなければ……」
 では、落第。なかには、どこに聞けばいいのかさえわからず、右往左往する人もいる。

 会社のすみずみまで、すべて数字によってつかんでおくことだ。そうすれば、直ちに答えられる。ただ、答えられるだけでなく、「現状の、あるがままの姿」をふまえて、改善の手が打てるので、後日の失敗を少なくするか、なくしてしまえる。

 私は、プロボクシングをみて、モハメッド・アリと対決しようとは思わない。自分の力を知っているからだ。こんなことは当たり前のことだが、こと会社の仕事に関してとなると、右の例に似たようなことをしでかしてしまうことになりかねない。基礎を十分にかためずに、既存の業者によってガッチリとシェアをかためられている業界へ殴り込みをかけるような愚はおかすべきではない。基礎を固め力をたくわえ、おのれの力量を知る人間や会社のみが着実に進歩し発展する。
(後藤清一著「こけたら 立ちなはれ」PHP文庫 p81-85)

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 真理にたいする謙虚さ──ユーモアと寛容の精神

 ところで「批判」というと、もっぱら他人にたいする批判だけを考えがちなむきがともすればあるようですが、それは正しいといえませんし、ヒューマニズムの精神でもありません。ヒューマニズムの批判的精神は、自分自身にたいしてもむけられるのです。

 いろんな弱点をもった生身の人間から出発するのがヒューマニズムだ、と先に述べたこととこれはつながっています。他人にたいしていろいろと批判する自分だって、批判されるべき弱点をいろいろともっているにちがいないということの自覚、これを欠かしたらヒューマニズムはなりたたないのです。

 自分の意見を絶対化しない、といってもいいでしょう。
 これは、異る意見にたいする寛容ということとしてあらわれ、また、自他にたいするユーモアの精神としてあらわれます。寛容とユーモアの精神──それがヒューマニズムの第二の積荷目録です。

 自分の意見を絶対化しないということは自分の意見に自信がないということではありません。その反対です。自分にたいする基本的な信頼があってこそ、自分自身をも批判的に見つめる心のゆとりが生じます。ユーモアもそこに生まれるのです。

 ユーモアとは、肯定を主軸にすえた批判、好意的な批判、といったらいいでしょうか。この好意的な批判の目が他人にたいしてむけられるときは他人にたいするユーモアが、自分にたいしてむけられるときは自分にたいするユーモアが生じます。君の立場からすれば、君がそう主張するのももっともだけど、もうちょっと別の角度からも見なおしてみたら、意外な光景が見えてくることもあるんじゃないのか──というのが、他人にたいするユーモアであり、自分自身にたいして同じように問いかけるのが自分にたいするユーモアです。

 「寛容」ということを、大人が子どものいうことを大目に見るといったことのようにもっぱらとるのは正しくない、と思います。子どもにたいする寛容ということだって、ほんとうには、子どもの立場に立って考えてみるという姿勢、そしてそこで子どもに学ぶという姿勢があってはじめてなりたつのではないでしょうか。

 自分の意見とは異る他人の意見についても、それはそれなりにもっともな点があるかもしれない──たとえいまはもっともと思えなくとも、もっともな点があったと将来気づかれてくるような、そんな要素がふくまれているかもしれない、という態度で接すること、そこに寛容ということが成立するのです。

このことは、自分の意見についてそれを絶対化しないということ──これまで気づかずにきた盲点がありはしないか、一面的な、ところがありはしないかという反省をつねに忘れない、ということと一体のものです。そしてともに、真理にたいする謙虚さということと一体のものであると思います。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友 p30-32)

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◎「自分の意見についてそれを絶対化し」ていないとだれでもが思いたい。その「自分の意見についてそれを絶対化しない」をふりまわしていれば、謙虚であると、おもわないでください。