学習通信040719
◎「個性疲れ、自己実現疲れした若者」……。

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失業者にもなれない若者たち

 さらには失業者以上に、もっと深刻な事実もある。それは社会全体で「失業者にもなれない」人たちが、若者のあいだで急速に増えているということなのだ。

 失業者の定義は、単に仕事をしていないということだけでなく、実際に仕事を探していること、みつかった仕事にすぐに就けることが含まれている。したがって、求人募集に応募するといった就職活動を具体的にしていない場合、失業者とは呼ばれない。彼らは失業者や就業者といった労働力ではないという意味で、「非労働力」と統計上は呼ばれることになる。

 非労働力といえば、これまでなら学校に行っている学生や生徒、高齢による引退者、そして専業主婦がイメージされることが多かった。なかでも、専業主婦には、潜在的には家庭の外で働きたいと思っているにもかかわらず、家事や育児などが忙しいために、働くことができないでいる非労働力も多いと考えられてきた。そのため、労働力人口の減少が将来的に予想されるなか、そんな働く意欲のある専業主婦のための保育施設の充実などが叫ばれてきたのである。

 図には総務省統計局が五年に一度、全国で行う就業状況に関する大規模な調査である「就業構造基本調査」の結果が示されている。十五歳以上三十五歳未満のふだん仕事をしていない人たちのうち、就職したいとは思ってはいるが、通学中の他、家事・育児・看護・介護といった家庭の状況が制約となり、就職活動をしていない人々がいる。その数は、九二年に百四十六万人に達し、当時の完全失業者数百四十二万人をも上回っていた。そんな若者の数は、九七年も依然として百四十万人の高水準を続けていた。

 しかしその後、家事や育児が多忙で働くことができない状況には着実に改善傾向がみられた。介護保険制度の成立、認可保育園の拡充、育児休業後の復帰制度の普及などもあって、家庭の多忙を原因として働きたくても働けない人たちは、〇二年には百三万人まで減少している。もちろん、いまだに百万人を超えているという意味では、待機児童の問題など、非労働力の女性の家事や育児からの解放はまだまだ進んでいないという意見もあるだろう。しかし、五年で四十万人近く減少したというのも、また事実である。

 ところが図をみると、家庭や通学といった理由以外で、働きたいと思ってはいても実際には就職活動をしていないという人々が、九七年の百八万人から〇二年の百四十一万人へと、大きく増加しているのだ。

 これらの、働き盛りの年齢でありながら無職で就職活動も行っておらず、しかもその理由が家事や在学のためではない人々は「ニート」と呼ばれ、最近その急速な増加が、政策担当者や研究者のあいだで話題となりつつある。ちなみにニート(NEET)とは、英語のNot in Employment, Education or Tiraining(働きもせず、学校にも行かず、専門的な訓練も受けていない状態の人々)の、頭文字を取ったものである。

個性重視の前に立ち尽くす「ニート」

 ニートについては、最近、いくつかの雑誌や新聞紙上でも取り上げられるなど、新しい若年就業問題として関心を集めつつある。これまでは若年の雇用問題といえば、失業率の高まりの他、フリーターの増加が主な関心事だった。ただ、フリーターの多くはとにかく働いているし、失業者も仕事に就こうと職探しの活動をしている。しかし、ニートにいたっては、働こうとみずから行動することすら、できないでいるのだ。

 ニートに関する記事をみると、そこには「働く意欲を持たない若者」といった表現やそんなニュアンスを含んだ文章をみかけることが多い。ニートについては、いまだ研究も少なく、その正確な実像や急増した理由はわかっていないというのが正直なところだ。ただ、労働政策研究・研修機構の小杉礼子氏を中心とした研究グループの調査(「移行の危機にある若者の実像」)や、筆者自身も行ってきたデータ分析やインタビュー調査の結果によれば、「ニートは働きたくないと思っている」といった見解はおそらく誤りだと考えている。

ニートは「働かない」というよりは、どちらかといえば「働けない」といったほうが近い。ニートが働けないのも、職業や仕事についての知識や情報が欠如しているせいというよりは、他人と交わって働き続けたり、職場で円滑にコミュニケーションをとったりすることが出来そうにないという、働く自分に対する自信の欠如のほうがより強く影響している(詳しくは曲沼美恵氏と共著『ニート──フリーターでもなく失業者でもなく』〈幻冬舎〉をご覧いただければと思う)。

 ニートが増加した理由についても、単一のわかりやすい理由があるわけではない。就職難のなか、不採用の通知が数多く届くうちに、もう働けないと感じる人たちがいる。教育社会学者の苅谷剛彦氏が指摘するように、現在の学校教育制度のなかで、もう「頑張っても仕方がない」と努力を断念してしまう人々が増加し、卒業もしくは中退後に多くがニートになっているのかもしれない。さらには家庭や地域の環境の変化のなかで、他者と交わって生きる機会が減少し、その結果、コミュニケーションをとることがどうしようもなく難しいと感じる人々からニートが生まれているのかもしれない。

 九〇年代以降、経済でも、教育でも、そして日常生活でも、これからは「自分自身によるキャリア形成が必要だ」「個性的でなければならない」「自分らしく生きなければ不幸だ」といった大合唱がこぞって続けられてきた。しかし、個性重視や個人の選択による自己実現を当然とする風潮のなか、そんな潮流に乗って努力を続けられる人もいれば、「そんなこといわれても自分にはもうムリだ」と感じてしまい、ニートのように立ち尽くす人もいることを忘れてはならない。現代では相当多くの若者が、個性や自己実現を要求する社会の雰囲気に疲れきってしまっている。

 現在の若者は、小さいときから個性的であることや自分のやりたいことをみつけることの大切さを繰り返し説かれてきた。だが若者に対して、社会は個性重視や自己実現を過度に求めすぎてしまったのではないかと、私は思う。

「自分のやりたいことをみつけたり、やりたい仕事ができたりするのは幸せなことだけれど、やりたいことや仕事がなかったとしても、だからといってそれが不幸だとは限らない」という、ほとんどの大人の仕事についての真実を、もっと正直に伝えていくべきではないのか。そうでなければ、個性疲れ、自己実現疲れした若者は救われないし、ニートの増加に歯止めをかけることは根本的に不可能とさえ感じる。

 小泉内閣は、過去の内閣に比べても、若年雇用問題に積極的に取り組んできた。「若者自立・挑戦プラン」という就職支援策が、昨年七百億円を超える規模で実施され、今年度の骨太方針のなかでも若年支援の一層の強化が打ち出されている。ジョブカフェと呼ばれる、就職を希望する若年へのワンストップで行える(一ヵ所で事足りる)総合的な支援サービスは、失業者もしくはフリーターからの正社員への移行希望者にとって、有効に機能する可能性はある。しかし一方でニートのように、働こうとすること自体を断念している若者は、そもそもそんな就職支援サービスに足を運ばない。

 さらに高校中退者や中学卒業後に進学しなかった人々がニートになる確率は、高校や大学の卒業者に比べて高い。若年の就職支援には高校や大学でのインターンシップの拡充や、企業と学校が連携して働きながら学ぶ日本版デュアルシステムと呼ばれる取り組みも動き出している。

だがその多くは高校や大学の卒業予定者が対象者であり、年間あわせて二十万人に達する中学卒や高校中退者は事実上排除されている。その意味では、小泉内閣の若年就業支援策はさまざまなかたちで実行されているものの、近年急に増加したニートの対応策はいまだほとんど手付かずというのが実態なのである。
(玄田有史「自己実現疲れ、個性疲れの若者を支援せよ」論座04 8月号 p38-40)

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個性の尊重ということ

 ヒューマニズムの積荷目録の第四としては、「個性の尊重」ということをあげたい──あげられる、と思います。

 人間くささのあり方、あらわれ方は、人それぞれにちがいます。ちがうからこそ、人間的であり、人間くさいのです。人間がみんなワン・パターンだったら、まるでのっぺらぼうの群れです。あるいは、大量生産されたロボットの群れです。のっぺらぼうの群れ、ロボットの集団を想像してみてください。無気味な感じがするでしょう。その無気味さの正体は何かといえば、人間に似て非なるもの、非人間的なものの感じさせる無気味さということだと思います。人間そっくりのかっこうをしているのに、人間らしさ・人間くささの決定的なところが欠けている、という不気味さ。

 色はいろいろであるからこそ色なのです。もし、世の中にただ一つの色しかなかったら、色という観念さえも生じはしなかったでしょう。

 人間らしさ・人間くささを大切にするということは、人間らしさ・人間くささというものが色とりどりのかたちをとってあらわれてくる、こざるをえない、そこのところを大切にする、ということを本質的なものとしてふくんでいるのです。

 ワン・パターンは非人間的というが、「ヒューマニズムの積荷目録しらべ」ということはつまり「ヒューマニズムの立場に立つ人びとの共通のパターン」を問題にするということじゃないか、という人がもしあるとすれば、私はつぎのようにいいたいと思います──そういいたければいってもいいが、その場合、その「共通のパターン」のなかに「ワン・パターンではない」という一項をぜひともあげる必要があるのだ、と。

 なぜ「ワン・パターン」は非人間的なのでしょうか。「大量生産されたロボットの群れ」がなぜ非人間的であるのか、と考えてみれば、見当がつくと思います。彼らは自分以外のものによって「生産された」のです。自分で自分をつくったのではありません。一つのパターンが自分以外のものによってきめられ、そのパターンにしたがって、自分以外のものによってつくられたのです。だから「ワン・パターン」なのです。

 これにたいして、人間は、自分で自分自身をつくるのです。もちろん、もって生まれた素質ということはありますが、それはあくまでも生理的な素材であって、それ以上のものではありません。素材なしには何物もつくられえませんが、素材だけではまた、何物でもありえないのです。そして人間は、たんに生理的存在にすぎないものではありません。人間の個性というものは、各人が各人の人生の主人公として生きていくところに形成されていくものであり、そのようにして各人自身によってつくりあげられていくものです。

 私は、幾組かの一卵性双生児を知っています。一卵性双生児ですから、ウリニつというほどに似ています。でも、やっぱりちがうのです。表情も、声も、物腰かっこうも、じつによく似かよっていながら、微妙なところではっきりとちがうのです。それぞれが好きになる相手、それぞれを好きになる相手も、はっきりとちがっています。絶対にとりかえはききません。

 そんな二人を並べて見ていると、誰しも笑えてきます。もちろん、この笑いは親愛の笑いです。人間というものにたいするほのぼのとした信頼の表現としての笑いです。それは人間のすばらしさということへの直観をふくんでいるでしょう。人間らしさ・人間くささというものの本質についてのある洞察を、といってもいいと思います。だって、二人はまったく同じ素材を与えられて出発した──だからじつによく似ている──のに、色合いのちがった個性を育てあげているのですから!

 もしこれが「クローン人間」のように、何から何までまったく同じであったとすれば、人は笑いどころか微笑どころか、その無気味さにぞっとすることでしょう。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p34-37)

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◎個性、自己実現は流行≠ナはなくて人間として本質的なもの……。深くとらえてください。