学習通信040721
◎「食うべきものとしての文化」……。

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教養の尊重ということ

 ここまできて、私はヒューマニズムの積荷目録のなかに「教養の尊重」ということを別項目としてどうしてもあげたくなりました。

 「教養」とはさしあたり、「自分のものとして身につけられた文化のこと」といっていいでしょう。「文化の尊重」ということと「教養の尊重」ということとは、だからけっきょく同じことです。
 それなのに、何でわざわざ「教養の尊重」ということを別項目としてあげたくなったのかといえば、それは、「文化とは、文でもって化けること」あるいは「文をもって化かすこと」といういい方に出あった記憶があるからです。

 この言葉はそれなりにある種の「文化」、ある種の「文化人」にたいする痛烈な皮肉となってもいるでしょう。

 もともと「文」という漢字は、「文身」つまり「いれずみ」をかたどったものだそうです。そこから、「外面のかざり」「あや」「模様」といった意味に使われるようになったのだといいます。いろいろと化粧をこらしてうわべをかざるだけの、そんな文化もたしかにあるわけです。

それも自分のなぐさみに化けるだけだったら、まだしも罪がないといえるかもしれませんが、それでもって人を化かすということになれば「罪がない」ではすみません。故大平首相がとなえた「文化の時代」の文化、現中曽根首相がとなえている「たくましい文化」の文化は、その種の「文化」のにおいにみちみちているようです。

 もっとも、「教養の尊重」とつけたしてみたところで、別に事態がかわるわけではないかもしれません。「教養」という言葉が、たんなる知的アクセサリーみたいなものとして使われることだって、じつにしばしばあるのですから。「教養が邪魔してね」なんていう場合のいい方は、おおくの場合それでしょう。

 ヒューマニズムの積荷目録の一つとしてここに数えあげる文化とは、もちろんそんな「文化」ではなく、別項目としてあげたいという教養もまた、もちろんそんな「教養」ではありません。石川啄木は「食うべき詩」ということをいっていますが、私のいう文化とは、これをなぞっていえば「食うべきものとしての文化」です。そして、私がここでいう教養とは、食うべきものとしての文化を食うことによってつけられた心の体力、ないし、その体力を事に応じ物に応じて適切に発揮する能力のことです。

 ただのアクセサリーにすぎないような「教養」、ただの知識にとどまっているような「教養」は、本質的には無教養にほかなりません。「基本的人権とは何か」という問題を出されれば、一〇〇点満点の答をスラスラ書くくせ、「では、身のまわりでそれがおかされている事例は?」ときかれると、何も答えられず、自分の学校やクラスで日常化している弱いものいじめのことなど、まったく頭にうかんでもこないらしい、という「できる高校生」についての報告があります。「本質的な無教養」とは、こういうのをいうのです。

 というわけで、あえて「教養の尊重」ということを、別項目としてかかげたいのです。教養とは「文化に関する、広い知識を身につけることによって養われる心の豊かさ、たしなみ」(『新明解国語辞典』)「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ」(『岩波国語辞典』)と国語の辞書にも説明されているのですから!
(高田求著「君のヒュマニズム宣言」学習の友社 p41-43)

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 すでにエコノミカル・アニマルという蔑称が与えられているがアニマルよりましとしてもサベイジ(野蛮人)の傾向があることは否めないであろう。

 六千何百万人という入場者について人はいろいろな分析を試みているが、全国で真剣に生産の場で働いていた人には、見るチャンスはなかったといってよい。なぜなら、時間と金が、十分でないからである。だからむしろ、先にも述べたように比較的ヒマ人が何度も見に行って、入場者数を増した傾向は否定出来ないであろう。

一番じっくりと見て、いろいろ得るところのあるべき人々には見られなかったうらみは残るのである。そして展開したのは行って来たという蒐印帖式な形式主義であるが、何も見られなかったという失望について不平の声は案外に小さいのである。その忍耐心というものは何時間も長蛇の列を作って入場を待つ姿に端的に現われ、外国人を薄気味悪がらせた。だが、ここいらあたりにヒマ人の本質が現われているのである。

日本を躍動している国として捉える場合の構成分子はオフィスや工場で働いていて万博会場には居なかったのだ。むしろ、そういう人たちの背後にいる予備軍に当たる人々が中心になって押しかけたのである。だがこの予備軍の多さが日本の高度成長の秘密といってよかろう。この予備軍は比較的年とった中年以上の人々である。この人たちは保守的で、温良なのである。決して推進力になる人たちではない。

しかし、その周辺にいる子供や孫たちは多かれ少なかれ、この人たちの影響下にあるのだ。外国人は日本国民の無気味なエネルギーを、万博に見たといっているが、そのエネルギーの根幹をなすのは実はこの比較的ヒマな人々なのだ。そしてその大部分は他ならぬ「ノーキョーさん」なのだ。全国五百万世帯の農家から夫婦が万博へ来てもすでに一千万人である。夫婦が来れば子供も来るということになれば農民だけで軽く入場者の約半数に達するのである。もちろん、総ての農家の人が来たわけではないが農家に近い中小商工業の恣意的に自分の業務を休める人々も、やって来たのにちがいない。

入場者の職業別は全く不明だが一般サラリーマンは少ないにちがいない。生活からいってそれが可能だとは思えないのである。だからこそ、入場者は不平をいわずしかも時に野蛮さは見せても指示に従う従順さを示したのである。何故なら、この人々は発言や自己表示に一番なれていないからである。しかし収入が多ければ従って担税力もある人々なのだ。とりも直さず、日本の高度成長の陰の力持ちなのだ。ただ、この人々は米価問題と総選挙の時ぐらいに、その実力をちらと見せる以外にはあまり自分の姿を示さない。それを図らずも万博で正直に現わしてみせたのだ。

 人々は簡単に高度成長といって工業生産に携わっている人の力だけを云々しているが、この背後の予備軍については、とりこぼしていたのではないか。案外この入々たちの忍耐心と野蛮さというか野性(これを外国人はアニマルと表現した)が、日本のエネルギーの大部分をなしているのではないか。

 今、急に公害が大きく取り上げられているが、ここまでこの害が拡がってしまったのも実はこの忍耐心と野性とがマイナスに働いた結果ではないかと私は怖れるのだ。公害こそ物の進歩と人間の調和がとれなかった大きな証拠であって、私が繰り返しているように万博が時期尚早だったのは、こういう怖ろしい弱点を日本が持っていることに気がついていたからである。万博は大変な利益を挙げたようであるが私ならその金はそっくり公害問題の解決に使うべきと思うし、これは繰り言だが、万博に使った一兆円とかいう費用を公害防止に各企業が使っていたら、こんな悲惨なことは起こらなかったろうと思うのである。

 日本の政府館では広島の原爆については一切触れることはタブーであったというが、原爆の害より怖ろしい世界的な災害である公害については、ちゃんと北欧の合同館が問題を提起していた。正にこれこそ万博に相応しい着想であった。北欧という、比較的理想国に近い社会環境を持つ国が、これを持ち出したのは、ある意味では意外であり、よく考えれば静穏なるが故に、世界を客観視出来たのであろう。

 極東に位する日本──つまり世界の片隅にある小島国に世界七十七カ国が、半年の間出張して来たのが万博である。駆けぬけにしても、その外国の中を一生に一度も外国へ行かぬ運命の人々がそこを通ったのである。それは、きっと何らかの痕跡をその人の心に残すことであろう。世界というものが複数であり、自分たちだけでは何事も済まない。

いつも、他の人のことも考えなくては物事は進まないことを、かすかでも感じたことであろう。私たちの少年期は外国を見れば「進んでいるなあ」というのが常に出る言葉であったが、今回は、また別の意味で「進んでいるなあ」と私はいわざるを得なかったのである。つまり、それは創意を具体的に生かす知恵というか生活感覚であり、その尊重が日本に生まれない限り、日本は単に「生産国」であり「生活国」にはなれないという痛烈な一事であった。
(飯沢匡著「武器としての笑い」岩波新書 p103-106)

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「知識人」になる夢

 私は、昨年までの五年間、ある新聞で、外国の知識人と手紙のやりとりをしてきました。小説家や、歴史の専門家や、言語学者という人たちですが、かれらはみな、私のなかで知識人という呼び名がふさわしく、その誰にも、尊敬する友人への懐かしい気持をいだいています。このような人たちを知っていることが、いま生きている自分のいちばん幸福なことかも知れない、と思うほどです。

 「知識人」と私がいう時、どんな人のことを頭に浮かべているか、まずそれをはっきりさせておきたいと思います。そういっても、私がこれまで会ってきたいろんな知識人の印象を、思いつくまま並べてゆく、ということになるのですが。

 かれらはみな、それぞれの一生の仕事を持っています。仕事ができるようにするために、若い時から勉強をしました。その勉強をずっと続けています。そしてそれぞれに独特の積み上げ方、深め方をしている人。それが人柄にもなっている人。

 専門の仕事をつうじて──表面ではそこから離れているようでも、根もとではつながっている仕方で──自分の生きている社会、世界のことを考えている人。その歴史についても現在についても、自分の意見を持っている人。おなじように自分の意見を持っている、ほかの人を、理解することができる人。ほかの人の意見に賛成するか、反対するかは別にして、まずどういう意見かを理解できる、ということが大切です。

 これまでの人生で勉強したこと、経験したこと、いま自分の仕事でいちばん根本にあることを、子供にもわかる言葉で、ユーモアもこめて話せる人。

 やっている仕事を中心にして、自分の生き方に責任がとれる人。それは、自分に、また家族に、そして友人たちに、さらに社会に対して、責任がとれるということです。そして、ひとりでしっかり立っていることもできるけれど、周囲の人たちと一緒にやってゆく気持を持っている人。

 さらに、いま現在の自分の生きている社会の、あまり遠くでない未来について、自分としての見通しを持っている人。持てなければ、それを悲しんでいる人。

 具体的に、どんな人? といわれるとしたら、たとえば日本の小説家として、夏目漱石をあげたいと思います。
(大江健三郎著「「新しい人」の方へ」朝日新聞社 p99-101)

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◎大江健三郎のメッセージの強さを感じます。

飯沢匡の「武器としての笑い」には日本人の文化≠フ理解を助けます。一読をお勧めします。

◎それにしても、今日の文化≠フ実情はすさまじい。私たちの奮起と持続する精神で文化≠手にしなければと思います。