学習通信040724
◎「ファシズムは、そよ風とともにやってくる」……と。

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あとがき

 そして二〇〇四年六月、今度は韓国人の会社員・金鮮一さんが拉致されて殺された。犯行グループはイラクに駐留する韓国軍の撤退を要求し、韓国政府はこれに応じなかった。
 「私は死にたくない」
 金さんの絶叫は叶わなかった。新聞に東京都内に住む女性からの投書が載った。

 「かわいそうだけど、同じような場面を見すぎて慣れてきた」
 高校生の息子さんが、アルジャジーラの映像を見ながら言ったとか。ショックを受けつつ投書子は、長引く戦争報道に晒された人間が陥りがちな心理と看破していたが、同感だ。私たちは戦争に慣れさせられてしまっている。

 五月にはバグダッド近郊で、フリージャーナリストの橋田信介さんと小川功太郎さんが襲撃されている。わずか三月足らず前に吹き荒れた人質バッシングの嵐とはうって変わって、この時のマスコミ報道は礼賛一色。「武人」と讃えたのは『読売新聞』だった。

 二人が金さんのような扱いを受けていたとしたら。見殺しは厭戦機運を高めるので、どんな罵詈(ばり)さんぼうが投げつけられていたかもわからない。一九四一年一月、時の東条英機陸相が布達した「戦陣訓」に曰く、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。戦争の妨げにならなかったから、橋田さんと小川さんは国を挙げて讃えられたのではなかったか。

 もはや思想信条もあまり関係がない。政府や権力者に楯突けば誰でも叩かれる。やはり五月、再び訪朝したものの満足な成果を勝ち取れなかった小泉首相に、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)が不満を述べたシーンがテレビで流れると、彼らにも批判や悪罵が殺到した。「首相にねぎらいの言葉がない」「線香でも送ったるわ」等々。

 国内のそんな空気を背景に、小泉首相はアメリカ・ジョージア州でのシーアイランド・サミットに出席。イラク暫定政府へと主権が移譲される六月末に発足するイラク駐留多国籍軍に自衛隊を参加させると、独断でブッシュ大統領に約束してきた。無視された国会は、しかし、これを追認した。折から公示された第二十回参議院通常選挙の争点は、それでも有権者、候補者ともに景気と年金。小泉首相の新語法がますます冴えわたった。

 「米軍が攻撃された時に、日本を守るために一緒に戦っているのに米軍と共同行動できない、集団的自衛権を行使できない、それはおかしい。憲法を改正し、日本が攻撃された場合には米国と一緒になって行動できるような(形にすべきだ)」

 党首討論番組での発言だ(六月二十七日、NHK)。日本が他国から攻撃されれば、現状でも自衛隊は米軍と共同行動を取ることができる。日本国憲法が認める個別的自衛権と、日米安保条約の定めによるのだが、嘘をついてまで憲法を改めようとする狙いは何か。

 集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力で阻止する権利」(『防衛白書』)のことである。歴代内閣が否定してきた集団的自衛権を行使できる新憲法が登場すれば、日本はアメリカの関与するあらゆる戦争に参戦できることになる。

 ふと、日本人メジャーリーガーたちに関する報道を想起した。「ニューヨーク・メッツの松井稼頭央選手は好走塁で勝利に貢献しました」。スポーツニュースの決まり文句「活躍」が姿を消し、アメリカのご主人様にどれだけ役に立ったのかが評価される「貢献」が多用される最近の傾向は、単なる流行が、それとも……。

 ファシズムは、そよ風とともにやってくる。
 これまた珍しくもない常套句だが、かつ、忘れられてはならない警句でもある。独裁者の強権政治だけでファシズムは成立しない。自由の放擲と隷従を積極的に求める民衆の心性ゆえに、それは命脈を保つのだ。不安や怯え、恐怖、贖罪意識その他諸々──大部分は巧みに誘導された結果だが──が、より強大な権力と巨大テクノロジーと利便性に支配される安心を欲し、これ以上のファシズムを招けば、私たちはやがて、確実に裏切られよう。

 岩波書店編集部の柿原寛さんに書き下ろしの発注を受けてから、四年ほどが経過してしまっている。後任の佐藤司さんにもさんざん迷惑をかけながら、現場の取材、ウオッチングにかまけて第一行目を書き出せなかった私の背中を押したのは、あのイラク人質バッシングだった。つくづく正念場だと思った。

 お二人の寛容あってこそ、私は今、自らの主張を込めた本を世に問うことのできる幸福を──束の間の──噛みしめている。不寛容なファシズムがこの国を完全に覆い尽くしてしまったら、そんな喜びも二度と味わうことができなくなってしまう。
(斉藤貴男著「安心のファシズム」岩波新書 p229-232)

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社会とはそもそも何だろう? 社会に法則はあるのだろうか?

■人間は一人では生きられない
 人間は社会的存在であるといわれています。人間は社会のなかで生きている、ひとりぼっちでは生きられないというような意味です。しかし私たちはいつもそのことを意識していないかもしれません。子どもたちは、まずそのことをほとんど意識していないでしょう。

自分はひとりで大きくなってきたかのように思い、自分は自分であり、他人から干渉されたくないと思い、自由でありたいという気持ちがつよいと思われます。しかし子どもでも、仲間(友だち)がほしいし、仲間から無視されるなどのいじめは大きな苦痛ですから、この面から子どもでも社会的存在であることは、いずれ自覚せざるをえないわけです。

■社会とは共同生活を営む人間関係の総体
 ところで現代社会は実に生きにくい社会で、いかに生きたらいいかの答えをみつけることは容易ではありません。しかしいかに生きるかということは、社会のなかでいかに生きるか、ということであり、社会のなかの人間関係や、雇用関係などをどう築いていったらいいかということであり、ところがこの社会がきわめて複雑であり、めまぐるしく変化しつつあり、どう対処したらいいのかわかりにくくなっているということではないでしょうか。

 こう考えてくると、人間は社会のなかで生きており、社会のあり方や変化の法則を知ることがきわめて重要だということがわかります。このことを考えるには、そもそも社会とは何かということを考えておく必要がありましょう。

 社会とは人間の集まりです。しかし人間が集まればそれで社会かというとそうではありません。街のなかに多数の人が行き交っているというだけでは社会ではなく、ただの群集にすぎません。社会というのは、人間が集まって共同生活を営んでいる、その人間関係の総体をいうのであって、そこには一定の関係と構造やしくみがなければなりません。それは自然発生的なものと人為的につくられたものとがありますが、家族・村落・ギルド(同職組合)や組合・会社・地方自治体・政党・階級・国家などさまざまなものがあります。

■社会は無秩序で偶然的なものか
 これらのさまざまな社会集団は歴史のなかで変化しつつあり、とくに現代ではめまぐるしく変化しつつあります。この変化は無秩序で偶然的なもののようにもみえますが、本当に無秩序で偶然でしかないものならば、私たちはその変動のなかでどう考えて、どういう態度をとったらいいかわからなくなります。ただこの偶然の変化の流れのなかに流されていくしかないのか、あるいはこの偶然の流れのなかを、自分の思う方向に力ずくで泳いで渡るしかないことになります。

 事実、私たちの周囲にも、社会の変化にただ無気力に流されるだけの体制順応型の生き方の人びとが多くみられる一方で、世間の風潮に逆らってがむしゃらに我を通そうとするタイプの人びともよくみられるところです。

 しかし社会の変化は無秩序で偶然的なものなのでしょうか。十九世紀、二十世紀の社会科学の発展によって、それは無秩序・偶然ではなく、一定の法則性があるということが解明されてきました。この法則性をよく理解することが、私たちの生き方を考えるうえでとても重要なことだと思われます。

■人間はバラバラな存在か
 ところで社会の変化(発展)の法則性というのはどんなものでしょうか。そんなものはあるのでしょうか。自然界に法則性があり、それは自然科学によって古くから解明されてきました。これはだれでも納得するところです。しかし自然現象とちがって社会現象に法則性などありえないという見解が十八世紀ごろまでは一般的でした。現代でもそのような意見はいわば常識となっています。

社会は人間の集まりであり、その人間たちは考え方、立場、利害関係などバラバラで、自分の意思・意欲で動いており、そんな人たちが大勢集まっている社会に法則性などあるわけはない。自然物はそんな意思・意欲で動いているわけではなく、同じ自然法則で動いているのは当然であるというわけです。

■人間の集団をみると社会の法則がみえてくる
 しかし本当にそうでしょうか。たしかに一人ひとりの人間はそれぞれ自分の意思・意欲で行動しています。一人ひとりの人間をみていたのでは社会の法則はみえてきません。最初にのべたように、社会はただの群集ではなく、共同生活を営んでいる人間の集団であり、そこには一定の組織・構造があります。そのような社会の全体を視野に入れるならば、社会発展の法則性がみえてきます。

 その点に着眼して、社会科学の基礎を築いたのがマルクスとエンゲルスでした。人間の社会は生産労働の基礎のうえに成立している。生産の仕方(生産様式)が変化することによって社会が変化する。生産様式が原始的であれば社会の構造も単純で原始的であるが、生産様式が高度になれば、社会の構造も高度で複雑になるということに彼らは気がつきました。そして生産における人間関係(生産関係)の変化が、歴史のなかに矛盾をうみだすとき、これが階級矛盾となり、そのあらわれである階級闘争が歴史発展の原動力であるということを彼らは発見しました。

『ドイツ・イデオロギー』から『資本論』などの著作で詳しく論証されています。あるいは『空想から科学へ』とか『フォイエルバッハ論』などの著作のなかでより簡潔な叙述も見られます。ぜひこれらのもの、とくに後の二冊は読んでみてください。

■歴史の流れを速める生き方こそ人間が輝く
 ところで社会に法則性があることがわかっても、だからといって自分の生き方とは関係がないという意見もありそうです。しかしそうではないというべきでしょう。

 社会の発展の法則性を理解せず、古い世界観にしばられて、歴史の歯車を逆にまわそうというような生き方は、自分をも他人をも不幸におとしいれるものではないでしょうか。「日本は天皇中心の神の国であることを国民に承知していただく」などと主張する首相は、歴史が主権在民と平和主義の方向に動いていることを理解せず、日本を戦前のような目にしようと考えているわけで、これは日本国民を不幸に導くものであり、こんな生き方は時代錯誤そのものであり、私たちはまっぴらごめんです。

こんな生き方ではなく、歴史の大きな流れ、民主主義と平和主義の流れにそって、その流れを少しでも速める方向で、多くの人びとと力を合わせて努力することこそ望ましい生き方であり、そのなかでこそ人間としての主体性と個性が光り輝くのだといえると思います。
(鰺坂真著「時代をきりひらく哲学」新日本出版社 p41-46)

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 はじめに──改革者としての知性が問われる時代

 今のこの社会に不満や疑問をもっている人は、ずいぶんたくさんいるのではないでしょうか。「いいようのない不安」といった気分を含めれば、それはおそらく日本社会の多数派といってもいいのでしょう。大学には「自分に自信がもてない」と率直に語る学生も少なくありません。しかし、その場合にも、問題は個人の内側にある以上に、希望の見いだしづらいこの社会の重苦しさにあるようです。どうにかして、もう少し安心してすごすことのできる、イキのしやすい社会にすることはできないものか。多くの人がそう思っているのではないでしょうか。

 この本は、その重苦しさの原因は何なのか、どうすれば少しでも改善の方向に向かうのか、そうした問題について、私なりに考えたことを紹介したものです。テーマのひとつは、「構造改革」とは何なのか、日本の経済改革の方向はどうなっており、本当にそれで道は正しいのか、そういった問題です。

もうひとつは、これは、私が女子大に就職してから考えるようになった問題ですが、この社会が生み出す女性に特有の息苦しさとは何か、社会の仕組みの問題として、これをどうとらえていくことが必要なのかというものです。どちらも、いろんな意見がとびかうテーマですが、しかし、避けてはとおれぬテーマでもあります。いっしょに問題を考えるためのひとつの材料として、受け止めてほしいと思います。

 本の構成は、それぞれのテーマごとに、私が問題を考えた順に章をならべるようにしました。私なりの考え方の「育ち」を示しておきたいからです。いらぬ遠回りもあるのでしょうが、それでも「書くたびに育つ」というのは私の正直な実感です。書くことでモヤモヤしたアタマの中が整理され、書くことで自分の「書けないこと」「わかっていないこと」「次に考えねばならないこと」が新たに見えてきます。章を追いながら、みなさんにも、そんな考えを積み重ねることの楽しさ、考える力を育てることの楽しさを味わってもらえると嬉しいです。

 さて、私は関西で、働く人たちの学習運動にかかわっています。集まっている人たちは、「ロコミで聞いて」という若い人から、「もう何十年もかよっている」というベテランの方まで、実にいろいろです。私も、かつては学生としてこの取り組みの中で学びました。今の社会を少しでもマシにしていく上で、これは大きな可能性をもった取り組みだと思っています。

ただ、そんな中でも、気になることがまるでないわけではありません。それは「独習の風化」とでもいいたくなるような、「毎日自分で学ぶ」という習慣の弱まりです。もっとマシな社会を、そう願う熱気の強い時代をつくるには、やはりこの社会について一人ひとりがよく学び、考える空気が必要です。この本を手にしているみなさんには、そんなことはないのでしょうが、しかし、みなさんのまわりは大丈夫でしょうか。

 次の文章は、ある講座への受講をよびかける案内文です。ちょっとかたいですが、少しだけ紹介してみます。

「この国が、孤立するアメリカヘの追随をやめ、世界に誇れる役割を果たすためには、何より、私たちの力が強くならねばなりません。その力の核心は、話し合う力、語る言葉の力、説得の力であり、その根底にある知性の力です。改革者たろうとする者の知性の力が、いま時代によってためされている。私はそう考えています」。

「知性を鍛える取り組みでは、各種運動団体の構えがきわめて重要です。小さな子どもが毎日六時間も勉強しているのに、世界や日本を語る大人がたった一時間も学んでいない。そんな状態で、この国の形がかえられるわけはありません。労働運動や市民運動は、どのようにして全構成員に『毎日の独習』を習慣化していくのか。そのことに真剣に取り組まなければなりません。

『時間がない』『若いころは勉強したものだ』という、『いいわけの思想』はただちに払拭されねばなりません。そこで決定的な役割を果たすのは各組織の幹部(リーダー)の姿勢です。自らが学ばない人間には、そのような取り組みはできません。各種運動の幹部こそが、いま率先して、初心にかえって学ばねばならず、運動団体は、そのための時間を『幹部研修』の時間としてしっかりと保障すべきです」。

 いかがですか。ちょっと文章がエラそうすぎるかも知れませんね。でも、私は本当に、今はこれがとても大切なことだと思っています。危機感さえもっていると、そういっていいかも知れません。この文章を読んだある女性は「これは私たちへの挑戦ですね」「あなたたちに学ぶ気構えはあるのかという挑戦ですね」と、ビール片手に、しかし鋭いまなざしで受け止めてくれました。

この重苦しい社会をつくりかえるには、なにより私たちの知恵が大切です。学ばない人間には世の中をかえていくことはできない。これは、あらためてしっかりと考え直されていい問題だろうと思うのです。

 やや風がわりな「はじめに」になっていますが、最初に、ぜひとも、みなさんに考えていただきたかったことがらです。
(石川康宏著「現代を探究する経済学」新日本出版社 p3-5)

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◎「これは私たちへの挑戦ですね」「あなたたちに学ぶ気構えはあるのかという挑戦ですね」……

この学習通信≠読んでるあなた≠アの挑戦に応えようじゃありませんか。