学習通信040725
◎「自分自身の行動の諸条件と本性とを意識させること」……。

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A。先生はそう云う時が本当に、来ると思っておいでですか。

先生。本当に来ると思っている。少なくもそう云う時代が来なければならないと思っている。そう云う時代が来たらそれで人生の問題が解決されると云うのではない。

 しかしそう云う時代が来ない間は、人間は良心に責められない生活は出来ないのは確かだ。富めるものも貧しきものも今の時代では人類に対する正しい義務を果すことが出来ずにいる。どうしたら果せるかを知らずにいる。各個人が正しき位置にいないので、自己の位置の不正を知らない。もし気が付いてもどうすることも出来ない。だから気がつかない振りをするより仕方がない。

不公平と不正は当然のものの様な顔をしている。人は金の奴隷になるより仕方がない。そして金のあるものは金がある為に不正な事をし、金のない者は金がない為に不正な事をする。今の世で正しき生活をしようと少しでも考えた者は、その不可能なことを感じるであろう。釈迦や耶蘇の生活を一番正しいものとは自分達には思えなくなっている。

僕達はもう少し現世を信用することが出来る。エゴイストを肯定することが出来る。所謂第三帝国の住民になり得る資格を持っていることを自覚しかけている。これは物欲に目が眩んで、少しでも快楽を盗み食いしたいと云う根性からばかりで云うのではない。

 もっと根本的に人間を作ったものを讃美したい心から出ている。人類すべてが、他人を人間らしく生活させることによって、自己が人間らしき生活が出来、自己を人間らしく生活させることによって、他人を人間らしく生活させることが出来ると云う確信は、今度の戦争によっても猶(なお)はっきりしたろうと思う。

自分はこう云うことは云い切るのは恐ろしくはあるが、自分の本音を吐くと、どうも今のところそう云うより、仕方がない。そしてこの事を人間を作ったものに感謝する。人間は間違った道を歩くことによって平和は得られない。正しき道に帰るまでは血なまぐさい事件は続いて起る。人間は今のままで平和を楽しむことは出来ない。それは坂に玉を転がして止るのを待っているようなものだ。又少数の人間が自己の幸福を多数の人間の不幸の上に築いていて、天下泰平を楽しむことは出来ない。すべてが人為的には平等にならなければならない。

それはすべての人が今の労働者になることを意味していない。又すべての人が今の紳士になることも意味していない。すべての人が人間であることを意味する。健全な独立した、人類に対する義務は果すが、同等に自己を何処までも生かす人間であることを意味する。カイザルのものはカイザルに返せ。しかし神のものは神に返せと云う言葉がある。

人類のものは人類にかえせ、国家のものは国家にかえせ、しかし個人のものは個人に返せ、そしてそれがお互に調和することが出来る時代こそ、我等の憧がれている時代で、それにすべての人が一定の労働の義務を果すことによって、すべての衣食住の心配から超越することが出来る時代でなければならない。健全なる生活に必要になる衣食住、それを国民に与えることが出来ない国家は、泰平を喜ぶことが出来ない。そうしてそう云う時代が来ても、その上の自由を楽しむことはその人の働きによって自由なのだ。かくてこそ、すべての人を同胞と安心して云うことが出来るのだ。

A。先生は相変らず空想家ですね。

先生。いや、空想家ではない。僕の云うことは現在実現出来ないことにしろ、そう遠くない未来において実現出来る。自分はそれを信じている。それは自分の信仰だ。しかしそう云う社会は暴力によって得られるか、暴力なしにも得られるかと云うことは、その時の個人の進歩の程度による。今の人間はまだそう云う社会に適応しない多くの悪をもっている。悪と云うよりは不明と云う方が本当かも知れない。そう云う社会が来ることを、もぐらが日光を恐れるように恐れている。そう云う社会が来て、始めて人間は幸福を得られるものだと云うことを知らないのだ。

今の人は幸福と快楽の区別を知らない。快楽を得ることを幸福だと思っている。又安楽と幸福とをごっちゃにしている。しかし本当の幸福は心の平和を得なければ得られない。吾人の内にある個人的本能と、社会的本能との全(まった)き調和から幸福は生まれるものだ。そしてその全き調和を得る為には、そう云う平等な、公平な、一個人が人類に対して納むべき労働(税)のいかなるものであるかをちゃんと心得、そしてそれを実行する事が出来る社会に住まなければならない。このことは明瞭な事実だ。そう云う社会では奴僕と云うものや女中と云うものはなくなるであろう。

その代り、同胞が助けあってもっと簡易に衣食住を得られることになる。各自に飯を炊く必要はない、それは不経済である。あるところで飯を炊く、それを自動車に乗せて運搬して廻る。家の掃除なども、立派な器械でやってのける。簡単にすむに違いない。その上各自が暇を利用して、より自分に気持のいいようにするのはいい。規定以上に自分のしたい事をし、それで報酬をとり、それで買いたいものを買うのはいい。勿論そう云う時代では金の力は余程、不当の暴力を振う事は出来ない。しかしもっと正当な力を振うことは出来る。決して金持も今より不幸にはならない。病気になってもよき医者にかかることが出来る。

よき医者はそう云う時代がくれば今よりも沢山出来るに違いない。金の為に医者になりたくもなれないと云う人はないから。そして医者に対する標準が今より高くなるに違いないから。金持が貧乏人と同等になることは、金持が貧乏人になると云うことではない。金持も貧乏人も同じく人間として人間らしく生きると云うことにすぎない。今の金持は人間らしい生活をしていると云えない場合が多い、少なくも正しい金持なら、そう云う時代が来たら、喜悦を感じるに違いない。

そう云う時代が来ても、すべての人の才能が平等と云うわけにはゆかない。各個人が皆から受ける尊敬が平等だと云うわけにはゆかない。社会にとって一人前以上働くものは、一人前以下の人より尊敬されるのは当然だ。特別の才能のあるものが、才能のなきものより尊敬されるのは当然だ。又操行の正しきものが、正しくないものより尊敬されるのも至当だ。又人に愛される素質をもつ人が、嫌われる素質をもつ人より愛されるのも当然だ。寧(むし)ろそう云う時代が来てこそ、人は本当に尊敬すべきものを尊敬するのだ。従って努力仕甲斐もなお現われるわけなのだ。自分はすべての人がそう云う社会が来るといいと思うべきであると思う。
(武者小路実篤著「人生論・愛について」新潮社文庫 p211-215)

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 社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は取り除かれ、それとともに、生産物が生産者を支配することが取り除かれる。

社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的な意識的な組織が現われる。個人間の生存闘争は、終わる。

これによって、はじめて人間は、或る意味で、決定的に動物界から分かれ、動物的な生存諸条件から抜けだして、本当に人間的な生存諸条件のなかへ足を踏み入れる。

いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する。

人間は、いまでは、自分自身の社会的結合の主人となるので、また、そうなることによって、はじめて自然の意識的な本当の主人となる。

これまでは人間を支配するよそよそしい自然諸法則として人間に対立していた、人間自身の社会的行為の諸法則は、これからは、人間が十分な専門知識をもって応用し、したがって、支配するようになる。

これまでは自然と歴史とによって押しつけられたものとして人間に対立していた、人間自身の社会的結合は、いま、人間自身の自由な行為となる。

これまで歴史を支配してきた客観的なよそよそしい諸力は、人間自身の統制に服する。

このときから、人間は、はじめて十分に意識して自分の歴史を自分でつくるようになる。

このときから、人間が作用させる社会的諸原因は、はじめてだいたいのところ自分が欲したとおりの結果をもたらすようになり、また、その度合いもますます高まっていく。これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である。

 こういう世界解放の偉業を遂行することが、現代プロレタリアートの歴史的使命である。

この偉業の歴史的諸条件と、したがってそれの本性そのものとを究明し、そうすることによって、行動する使命をおびた・こんにち抑圧されているこの階級に自分自身の行動の諸条件と本性とを意識させること、これが、プロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p160-161)

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