学習通信040726
◎「人民の消費の立ち遅れが……人為的に生み出された過少消費が」……。

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 一九二九年の年央に始まった恐慌は、アメリカに未曾有の経済的大災害をもたらすこととなった。あの大恐慌は一九三三年にその頂点に達したが、アメリカの名目国民総生産はそれに先立って半減していた。鉱工業生産は三分の一も減少し、失業率は労働人口の二五%という空前の水準に達した。大恐慌の深刻さは、世界のその他の国ぐににとっても同様だった。大恐慌が他の諸国に広がっていくにつれて、いたるところで生産の低下と高率の失業、そして飢えと悲惨とを生み出していった。

大恐慌は、ドイツにおいてアドルフ・ヒットラーが権力を奪取し、やがて第二次大戦へと進んでいく道を準備し、日本では大東亜共栄圈の建設に懸命だった軍閥を強化することとなった。また中国大陸では、それによる金融状況の変化が、当時すでに発生していた超インフレをいっそう加速化し、これが蒋介石政権の崩壊を運命づけるとともに、共産党の躍進に力を貨すこととなった。

 大恐慌は人びとの考え方にも大きな影響を及ぼした。すなわち大恐慌は、資本主義は本質的に不安定な体制であり、このままではいっそう深刻な経済危機に苦しめられることさえあるのだと、公衆に信じ込ませる働きをした。公衆は、それまでにインテリの間で次第に支持を広げていた考え方へと、改宗させられたのだ。

その考え方とは、政府はもっと積極的な役割を果たすべきであり、無秩序な民間企業が引き起こす経済的不安定を和らげるために政府は経済に介入しなければならず、経済的安定を促進し、安全を保障するためのバランスをとる平衡輪として政府は奉仕すべきである、というものだった。いまや明らかなのは、一方では民間企業の果たすべき役割について、他方では政府が果たすべき役割について、公衆の考え方がこのように変化したことこそが、当時から今日まで続いている政府の急速な拡大、とりわけ中央政府の拡大をもたらす触媒となったということだ。

 大恐慌はまた、経済を専門とする人びとの考え方にも、重大な変化を引き起こした。金融政策こそが経済的安定を促進するための有効な政策であるという、長い間信奉され、とりわけ一九二〇年代に支持を強めていた考え方は、大恐慌による経済的崩壊の結果、粉砕されてしまった。

経済学者のほとんどは百八十度転換し、「通貨は重要でない」と考えるようになった。二十世紀が生んだ偉大な経済学者の一人であるジョン・メイナード・ケインズは、これに代わる新しい理論を提供した。ケインズ革命は、経済学者の心をとらえただけでなく、政府介入の拡大を正当化する魅力ある理論およびその具体的な処方箋を提供することとなった。

 公衆一般および経済学者の考え方がこのように変化した背景には、実は実際に起こったことに対する誤認があった。当時はごく少数の人しか気がついていなかったが、いまや明らかになった真相は次のようなことだ。すなわちあの大恐慌は、民間企業の失敗によるものではなく、当初から政府の責任領域であった分野において政府が犯した過ちによってこそ、もたらされたものであった。

つまりアメリカ合衆国憲法第一条第八節に従えば、合衆国政府は、「貨幣を鋳造し、その価格およびその外国貨幣に対する価格を規律する」という責任を与えられているのだ。不幸にして、この通貨管理における政府の失敗は、第9章でくわしく論ずるように、たんなる歴史上の興味をひく事件ではなく、今日も依然として続いている問題なのだ。
(M&R・フリードマン「選択の自由」日本経済新聞社 p115-116)

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成長と貧困の関係

 成長に歯止めをかけろというと、必ず、貧困者を永久にそのままにしておくつもりなのかという抗議が起こる。皮肉なことに、貧困層の生活改善が経済成長次第だと主張するのは、開発問題の専門家や、経済学者、金融業者、会社経営者など、何の苦労もなく日々の糧を得ている人々だ。

貧困者の関心は、生活の場であり生計の手段でもある土地や水の確保、生活できるだけの収入が得られる仕事、子どもに対する医療や教育に向けられている。金が支配する社会にあっては、彼らも「金がほしい」というかもしれないが、「経済成長が第一だ」ということはまずない。

 それも無理はない。貧困層の生活は景気のよい時に悪化し、不景気になると持ち直すことが多いからだ。理由は簡単である。経済成長を促す政策とは、労働者を犠牲にして資本家の手に所得や資産を集中させる政策なのだ。成長そのものが貧困の原因だとは言えないが、成長の名のもとにとられる政策は往々にして貧困を生み出す。例えば、次のような政策とその結果を考えてほしい。

・天然資源の枯渇を促す政策によって、経済的強者が利益を得る一方、弱者は生計の基盤を荒らされる。

・さまざまな活動が金銭に換算されることで、労働者階級は金への依存を強め、ひいては、資産を持ち、専門的サービスを提供し、労働市場を握る富裕階級への依存を強めることになる。

・農地、山林、漁場の管理権を、実際にそれで生計をたてる人々の手から、利潤を求めて投資する資産家の手に移すことによって、生産レベルは上昇するが、資産の所有権は資本家階級に握られ、低賃金労働者層が拡大し、ひいては賃金水準も低下する。

──略──

 「経済拡大」の初期にはこのように悲惨な状況も見られたが、第一次大戦が始まった一九一四年から第二次大戦の終わりにかけて、国民の総所得が増加しなかったにもかかわらず、平均的イギリス人の生活は向上した。ダウスウェイトの説明によると、大戦勃発にともない、国家は資本主義勢力を統制する必要が生じた。

高額所得者に対する増税が実施され、賃金も管理されるようになった。賃金の上昇よりインフレの方が激しかったが、就業者数は増え、失業の恐れも少なかった。その結果、一般的な労働者世帯の実質購買力は、以前より高くなった。また、賃上げの場合には、すべての労働者の賃金が同額ずつ引き上げられた。したがって、上昇率で考えれば、非熟練労働者の賃金の方が、熟練労働者の賃金より大きく上がったわけだ。社会全体で見れば、富裕者から貧困者へ膨大な所得が移転されたことになる。

 第一次大戦後は、多数の復員兵を吸収するために労働時間が五四時間から四六〜四八時間に短縮され、失業率は低く、賃金は高く保たれた。職のない者も、一九一一年実施の失業保険制度で保護された。その財源は高額所得者から徴収した税金だったのだから、この制度自体、富裕な納税者から貧困層へ所得を移転させるものだったといえる。

 第二次大戦も、貧困者に同様の恩恵をもたらした。だがそれは戦時景気で生産額が増加したためではなく、労働力の需要が高まり、賃金格差が縮小し、政府が利潤を統制し、累進課税が実施されたためだった。所得の平等化が飛躍的に進んだ上、配給制のもとで否応なく増えた貯蓄が戦後の消費を押し上げる原動力となったため、平時経済への移行もスムーズに行われた。

 アメリカにも、これと似た現象が見られた。三〇年代の大恐慌および第二次大戦のためにとられた政策のおかげで、所得の再配分が大いに促進され、アメリカの経済力と繁栄の象徴たる強力な中流層が出現した。大多数が経済的繁栄を平等に享受する時代が七〇年ごろまで続いたが、その後は東アジア諸国との競争、労働争議、インフレ、若者の反体制運動などが激化し、その反動で保守勢力が台頭した。

大会社の力を背景に、アメリカ社会の様々な機関が、労働組合や社会福祉制度、市場規制や貿易障壁を激しく攻撃するようになった。七〇年代から八〇年代にかけて、貧困ライン以下の収入しかない労働者の数が激増し、社会全体が、職業や所得を持つ者と持たざる者とに分化していった。

 貧困を解決するにはパイを大きくすればよい、と唱える人々は、一つの重要な事実を見逃している。生活上の必需品を得られるか否かは、所得の絶対額ではなく、相対所得にかかっているのだ。自由市場経済においては、すべての人間が限られた環境資源をめぐって競争している。そして勝つのは、金を多く持つ者と決まっている。

 これまで見てきた通り、経済成長による所得急増という恩恵を手にするのは、貧困層ではなく富裕層である。全員の所得が同率ずつ増加したとしても結果は変わらず、貧富の格差は拡大する一方だ。難しい計算は必要ない。貧困や環境破壊の解決策としてブルントラント委員会が提唱した、一人当たり所得の年間三%増加という目標を考えてみればよい。

これを国ごとの数字に直すと、一年目の増加額は「アメリカ六三三ドル、エチオピア三ドル六〇セント、バングラデシュ五ドル四〇セント、ナイジェリア七ドル五〇セント、中国一〇ドル八〇セント、インドー〇ドル五〇セント。一〇年後に、エチオピアの一人当たり所得が四一ドル──貧困根絶には程遠い額──しか増加しないのに、アメリカのそれは七二五七ドルも増加する計算になる」。アメリカの一人当たり購買力は、エチオピアに比べて実に一七七倍も上昇することになる。

 いくらパイを大きくしても、同時に再配分を行わなければ、すでに豊かな人々だけが得をし、貧富の格差は拡大し、富裕層の支配権が強まるだけに終わる。枯渇する資源をめぐって貧者と富者が必死の競争を繰り広げている以上、支配権の有無は命にかかわる問題だ。

 経済成長こそ貧困脱出の鍵、と主張する人々が本当に貧者の状況に心を痛めているのなら、貧困層が自らの基本的ニーズを満たせるようにすることを第一に考えるべきだろう──高額所得者への減税などではなく。
(デビット・コーテン著「グローバル経済という怪物」シュプリンガー東京 p54-61)

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 これまでずっと述べてきたことから見て、読者は、〈前章で与えられた社会主義のおもな特徴の叙述は、まったくデューリング氏の考えに一致していない〉、と聞いても、驚くことはないであろう。合致していないどころではない。氏は、右の叙述をすべての唾棄されたものどものすみかである底知れぬ深い淵に、ほかの「歴史的幻想と論理的幻想との雑種」・「乱雑な構想」・「混乱したもうろう観念」などなどのところへ、投げ込むに違いない。

なにしろ氏にとっては、社会主義ときたら、「歴史的発展の必然的な産物」などではけっしてなく、なおのこと、ただの食う目的だけに向けられた現代の粗野で物質的な経済的諸条件の必然的な産物などではないのだから。氏はずっとすばらしいものを相手にしている。氏の社会主義は、或る〈究極の決定的真理〉である。

「社会の自然的体系」であり、その根は「正義という普遍的原理」のなかにある。そして、氏がこれまでの罪ぶかい歴史でつくりだされた現存の状態を改善するためにこれに注意をはらわないわけにいかないのは、純粋な〈正義という原理〉にとってはむしろ一つの不幸と見なさなければならないことである。

デューリング氏は、自分の社会主義を──他のすべてのものと同じく──氏のすてきな二人の男を使ってつくりだす。この二つのあやつり人形は、これまでのように主人と奴隷という役を演じるのではなく、気分転換のために、こんどは権利平等劇を演じる。──これで、デューリング式社会主義の基礎はできあがったのである。

 そういうわけだから、〈デューリング氏の場合、周期的な産業恐慌は、われわれがそれに認めなければならなかったあの歴史的意義をけっしてもっていない〉、ということは、言うまでもない。恐慌は、氏の場合、「正常状態」からのときたまの逸脱にすぎず、せいぜい、「もっと規則正しい秩序を発展させる」きっかけとなるだけである。

恐慌を過剰生産をもとに説明する「普通のやりかた」は、氏の「もっと精密な見解」にとってはけっして十分なものではない。もっとも、そういうやりかたも、「特殊な領域での特殊的恐慌」については「たぶん許され」もしよう。たとえば、「大量販売に適した著作がとつぜん自由に復刻してよいことになって、その諸版が書籍市場にあふれる」、というような場合がそうだという。

ただし、デューリング氏は、〈自分の不朽の諸著作がそのような世界的災難を引き起こすことはけっしてあるまい〉、という快い意識をいだいて寝床にはいることができはするけれども。

大恐慌については、しかし、過剰生産がではなくて、むしろ「人民の消費の立ち遅れが……人為的に生み出された過少消費が……人民需要(!)の自然的増加の阻害が、結局のところ、在庫高と売れ行きとのあいだの溝をそれほどにも危機的に拡げるのである」。そして、氏は、自分のこの恐慌理論にたいして、幸いにもお弟子を一人みつけたのである。

 ところが、残念なことに、大衆の過少消費ということは、つまり、大衆の消費が生計を維持し繁殖するのに必要なものに限られるということは、いまに始まった現象ではない。

それは、搾取する階級と搾取される階級とが存在する限り、ずっと続いてきた。大衆の状態が持別によかった歴史的時期にさえ、したがってたとえば一五世紀のイギリスにおいてさえ、大衆は過少に消費していた。自分自身の毎年の総生産物を自由に消費できるどころではなかったのである。

さて、こうして、過少消費が数千年このかた恒常的な歴史的現象であるのに、生産過剰の結果として恐慌において勃発する全般的な売れ行き不振はやっと五〇年このかた見られるようになったものであってみれば、この新しい衝突を──過剰生産という新しい現象をもとに説明しないで──過少消費という数千年来の古い現象をもとに説明するためには、デューリング氏ほどの俗流経済学的な皮相さをもちあわせている必要がある。

それはちょうど数学で、一つは不変量で一つは変量である二つの量の比の変化を──変量が変化したということをもとに説明するのではなくて──不変量が前のままであるということによって説明しよう、と思うようなものである。

大衆の過少消費は、搾取にもとづいているすべての社会形態の、したがってまた資本主義的社会形態の、一必要条件ではあるが、恐慌は、資本主義的生産形態がはじめてもたらすのである。

大衆の過少消費は、だから、恐慌の一つの前提条件であり、恐慌において或るずっと昔から認められている役割を演じるわけではあるが、こんにち恐慌が存在することの原因についても以前に恐慌が存在しなかったことの原因についても、なにも語ってはくれないのである。

 そもそもデューリング氏は、世界市場について奇妙な観念をもっている。さきに見たとおり、生粋のドイツの文筆家らしく、ライプツィヒの書籍市場における空想上の恐慌を例にとって現実の特殊的な産業恐慌を説明しよう、と努めている。つまり、コップのなかの嵐を例にとって海上の嵐を説明しよう、というわけである。

さらには、〈こんにちの企業家生産は、「その販路についてはおもに有産階級自身の範囲内をぐるぐる回りする」ほかはない〉、と想像しているのであるが、それにはおかまいなく、そのわずか一六ページ先で、よく知られたやりかたで、鉄工業と綿工業とを決定的に重要な現代的工業だと言っている。

つまり、その生産物のほんの極小部分が有産階級の範囲内で消費されるにすぎず、ほかのすべての生産部門にまさって大衆消費をたよりにしている、まさにそのような二つの生産部門を名ざしているのである。氏の本のどこを見ても、からっぽの・矛盾だらけの・とりとめのないおしゃべりのほかにはなにもない。

しかし、われわれは、綿工業から一つの例をとることにしよう。オールダムという比較的に小さい一都市──これは、それぞれ五万人ないし一〇万人の綿工業を営む住民をもった、マンチェスター周辺の一ダースほどの都市の一つである──この一都市だけで、一八七二年から一八七五年までの四年間に、三二番手の糸だけを紡ぐ紡錘の数がニ五〇万錘から五〇〇万錘にふえ、その結果、イングランドの一つの中都市だけで、そもそもエルザスを併せた全ドイツの綿工業が所有しているのと同じ数の紡錘が、ただ一つの番手の糸を紡ぐことになった。

また、イングランドおよびスコットランドの綿工業のその他の部門と地方とでも、これとほぼ同じ割合で拡張が行なわれた。それなのに、〈綿糸と綿布との売れ行きがこんにちまったく不振におちいっているのは、イギリスの大衆の過少消費によるのであって、イギリスの錦工場主たちの過剰生産によるのではない〉、と説明しようとするのには、大量の根底的なずうずうしさをもっていなければならない。

〔原注〕恐慌を過少消費をもとに説明することは、シスモンディに始まる。そして、彼の場合には、まだいくらか意味がある。シスモンディからロートベルトゥスがこれを借用し、そして、ロートベルトゥスからさらにデューリング氏が、例によって浅薄化しながら、書きうつしたのである。

 もうよい。だいたいライプツィヒの書籍市場を現代工業の意味での市場と見なすほどに経済学に無知な連中とは、〔まともな人間なら〕言いあらそいはしないものである。

だから、われわれは、〈デューリング氏が恐慌についてこのほかにわれわれに知らせることができるのは、ただつぎのことだけだ〉、ということを確認するだけにしておこう。

それは、〈恐慌で問題になっているのは、「過度の緊張と弛緩とのあいだに通常みられる動き以外の」ものではない〉、ということ、過度の投機は、「私企業の無計画的な累増から生じるだけではなく」、「個々の企業家の性急さと個人的な思慮ぶかさの欠如とを、やはり供給過剰を生じさせる原因に数えなければならない」、ということ、である。

つぎに、この〈性急さと個人的な思慮深さの欠如と〉を「生じさせる原因」は、なになのか? まさに資本主義的生産の同じ無計画性なのであって、これが私企業の無計画的な累増となって現われているのである。一つの経済的事実を一つの道徳的非難に翻訳したものを二つの新しい原因の発見〉ととり違えるとは、これまた、まさしくはなはだしい「性急さ」である。

 これで恐慌については終わりにしよう。前の章で、恐慌が資本主義的生産様式から必然的に生み出されることを、恐慌がこの生産様式そのものの危機という意義・社会改革を強制する手段という意義をもっていることを、証明したので、この題目についてのデューリング氏の浅溥な見解を反駁するのにこれ以上ただの一語をも費やす必要はないのである。氏の積極的な創造物である「社会の自然的体系」のほうへ移ることにしよう。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p161-165)

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◎「自分自身の毎年の総生産物を自由に消費でき」ない資本主義の生産様式……。生産のための生産……。