学習通信040727
◎「これまでのすべての生産の基本形態は、労働の分割である」と。

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 労働の生産力における最大の改善と、どの方向にであれ労働をふりむけたり用いたりする場合の熟練、技能、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる。

 社会全般の仕事にたいする分業の効果を比較的容易に理解するには、どれか特定の製造業をとって、そこで分業がどんなふうに行なわれているかを考察してみるのがよいだろう。

世間では、分業がいちばん進んでいるのは、いくつかの、まったくとるにたりない小さい製造業だということになっている。

これはおそらく、こういった製造業のほうが、もっと重要度の高い他の製造業にくらべて、実際に分業の度合がより進んでいるからではなく、これらのとるにたりない小さい製造業は、ごく少数の人々のわずかな欲求を満たすためのものであって、従業員の総数もとうぜん少なく、さまざまな部門の仕事に従事している人々を同一の作業場に集めているので、見る者の一望のもとにおくことが可能だからであろう。

これに反して、大規模の製造業は、大多数の人々の巨大な欲望を満たすためにある。そこでは、さまざまな部門の仕事にどれも多数の従業員が働いているので、これらの人々を同一の作業場に集めることは不可能である。単一の部門で働いている従業員は見えても、その部門以外の人々をも同時に見ることは滅多にないというわけである。

それゆえ、この種の製造業では、それよりも小規模な製造業にくらべて、たとえ作業は実際上はるかに多数の部分に分割されていても、その分割は、それほど目立つことがないので、したがってまた、観察されることもずっと少なかったのである。

 そこで、ここに一例として、とるにたりない小さい製造業ではあるけれど、その分業がしばしば世人の注目を集めたピン作りの仕事をとってみよう。

この仕事(分業によってそれはひとつの独立の職業となった)のための教育を受けておらず、またそこで使用される機械類(その発明をひきおこしたのも、同じくこの分業であろう)の使用法にも通じていない職人は、せいいっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを作ることもできなかろうし、二〇本を作ることなど、まずありえないであろう。

ところが、現在、この仕事が行なわれている仕方をみると、作業全体が一つの特殊な職業であるばかりでなく、多くの部門に分割されていて、その大部分も同じように特殊な職業なのである。

ある者は針金を引き伸ばし、次の者はそれをまっすぐにし、三人目がこれを切り、四人目がそれをとがらせ、五人目は頭部をつけるためにその先端をみがく。

頭部を作るのにも、二つか三つの別々の作業が必要で、それをとりつけるのも特別の仕事であるし、ピンを白く光らせるのも、また別の仕事である。ピンを紙に包むのさえ、それだけで一つの職業なのである。

このようにして、ピン作りという重要な仕事は、約一八の別々の作業に分割されていて、ある仕事場では、そうした作業がすべて別々の人手によって行なわれる。もっとも、他の仕事場ではそれらの二つか三つを、同一人が行なうこともある。

私はこの種の小さい仕事場を見たことがあるが、そこではわずか十人が仕事に従事しているだけで、したがって、そのうちの幾人かは、二つか三つの別の作業をかねていた。かれらはたいへん貧しくて、必要な機械類も不十分にしか用意されていなかった。それでも精出して働けぱ、一日に約一二ポンドのピンを全員で作ることができた。一ポンドのピンといえば、中型のもので四千本以上になる。

してみると、これらの十人は、一日に四万八千本以上のピンを自分たちで製造できたわけである。つまり各人は、四万八千本のピンの一〇分の一を作るとして、一人あたり一日四八〇〇本のピンを作るものとみてさしつかえない。だが、もしかれら全員がそれぞれ別々に働き、まただれも、この特別の仕事のための訓練を受けていなかったならば、かれらは一人あたり一日に二〇本のピンどころか、一本のピンさえも作ることはできなかったであろう。

いいかえるとかれらは、さまざまな作業の適切な分割と結合によって現在達成できる量の二四〇分の一はおろか、その四八〇〇分の一さえも、まず作りえなかったであろう。

 すべての工芸や製造業において、分業の効果は、こうした零細な製造業の場合と同様である。もっともそれらの多くは、労働をこれほど多く細分することも、作業をこれほど極端に単純化することもできない。しかしながら分業は、それが採り入れられるだけで、どんな技術の場合でも、労働の生産力をそれにおうじて増進させる。

この利益の結果として、さまざまな職業や仕事がたがいに分化したように思われる。この分化はまた、最高度の産業と進歩を享受している国々で最も進んでいるのが普通である。

すなわち、社会の未開段階で行なわれる一人の人間の作業は、改善された段階では数人の作業になるのが普通である。

すべての文明社会では、農業者は一般に農業者以外の何者でもなく、製造業者は製造業者以外の何者でもない。なにか一つの完成品を生産するのに必要な労働もまた、多数の人手に分割されているのが普通である。

亜麻や羊毛の生産者から、亜麻布の漂白工や伸(の)し工、あるいは服地の染色工や仕上工にいたるまで、亜麻布と毛織物の製造業の各部門に、なんと多くのさまざまな職業が営まれていることだろう! たしかに農業の場合は、その性質上、製造業ほどに労働をこまかく分割する余地はないし、たがいに仕事を完全に分離してしまう余地もない。

大工の仕事は、鍛冶屋の仕事からふつう分離しているが、牧畜に従事する人たちの仕事を、穀物を作る人たちの仕事からそれほど完全に分離するのは不可能なことである。紡績工はたいていの場合、織布工とは別の人であるが、すきで耕す者、馬鍬(まぐわ)で耕す者、種をまく者、刈入れをする者は同一人である場合が多い。

そうしたさまざまな種類の労働を行なう機会は、一年のさまざまな季節とともにめぐってくるものであるから、一人の人間が、このどれかひとつの労働に年中従事するということは不可能である。

このように、農業に用いられる労働のさまざまな部門をすべて完全に分離することは不可能であるが、これはおそらく、農業技術における労働生産力の改善がかならずしも製造業のそれと歩調を合せられないということの理由を説明するものであろう。

なるほど、最も富裕な国民は、一般に製造業はもちろんのこと、農業でも、すべての近隣の国民に勝っているが、しかしかれらは、農業よりも製造業においていっそう抜きんでているのが普通である。かれらの土地は一般によりよく耕作され、またより多くの労働と費用がそれに投じられているから、土地の広さとその自然の豊度のわりには、より多くのものを生産する。

だが、こうした生産上の優越が労働と費用の優越にくらべて、ずっと大きいということは滅多にない。農業においては富んだ国の労働が、貧しい国の労働よりもはるかに生産的であるとはかぎらない。いや、少なくとも、製造業においてふつう生産的であるほどに、大いに生産的であるということはけっしてない。

だから、富んだ国の穀物は、同程度の品質の揚合に、貧しい国の穀物よりも安価に市場に出回るとはかぎらないのである。フランスのほうが富裕と改善の点でポーランドにはるかに勝っているにもかかわらず、ポーランド産の穀物は、同程度の品質の場合、フランス産の穀物と同じように安価である。

フランスはイングランドにくらべて、富裕と改善の点でおそらく劣るであろうが、フランス産の穀物は、穀産諸州においては、イングランド産の穀物とまったく同じように品質がよく、また価格もたいていの年にはほぼ同一である。

けれども、イングランドの穀産地は、フランスのそれよりもよく耕作されており、フランスの穀産地は、ポーランドのそれよりもはるかによく耕作されているそうである。ところで貧しい国は、耕作の点では劣っていても、穀物の安価さと品質の点で、富んだ国にある程度まで対抗できるが、そのような競争を製造業の場合に望むことはとうていできない。少なくとも、それらの製造業が、富んだ国の地味、気候、位置などに適している場合にはそうなのである。

フランスの絹はイングランドの絹よりも品質がよく、また安価であるが、これは絹織物の製造にとって、イングランドの気候がフランスの気候ほど十分には適さないからである。ただし、これは、少なくとも原料絹糸の輸人に高い税が課されている現状での話である。ところが、イングランドの金物や粗製毛織物は、フランスのそれらとはくらべものにならないほどすぐれていて、同程度の品質の場合にははるかに安価である。ポーランドでは、一国の存立に不可欠の粗末な家内製造業が少数あるだけで、ほかにどのような種類の製造業もない、という話である。
(アダムスミス著「国富論 上」中公文庫 p9-15)

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 いずれにせよ、経済コミューンは、自分の労働手段を生産の目的のために思いどおりに使うことができる。この生産はどのように行なわれるのか? これまでにデューリング氏から聞いたことすべてから判断すると、まったく昔のままのやりかたによってであって、違っているのはただ、コミューンが資本家に取って代わることだけである。われわれが聞き知るのは、せいぜい、職業選択がいまはじめて各人にとって自由になるということ、平等の労働義務が存在しているということ、くらいのものである。

 これまでのすべての生産の基本形態は、労働の分割である。すなわち、一方では社会の内部における分業であり、他方ではそれぞれ個々の生産施設の内部における分業である。デューリング式「公正社会」は、これとどう関係するのか?

 最初の大きな社会的分業は、都市と農村との区分けである。この敵対関係は、デューリング氏によれば、「事柄の性質から言って避けられないもの」であるという。

しかし、「〈農業と工業とのあいだのこの溝は……埋めることができない〉と考えることが、そもそも疑念をいだかせる。本当の話、或る程度の連続性のかけ橋はもう存在しているのであって、この度合いは将来さらにいちじるしく増大することが見込まれるのである」。

いまでももうニつのエ業が農業と農村経営とのなかにはいりこんでいる、という話である、──「まず第一に蒸溜酒製造であり、第二には甜菜糖(てんさいとう)製造である。……アルコール生産の意義はきわめて大きいので、過大評価されるよりもむしろ過小評価されがちである」。

そして、「なにか或る諸発見の結果としてもっと広い範囲の諸工業が形成され、しかもそのさい、経営を農村に立地させて原料の生産〔地〕にじかに依拠させるように強制することができるのであれば」、それによって都市と農村との対立は緩和されようし、「文明の発達のためのこの上なく広大な基礎が得られよう」。

けれども、「なにかこれと似た成果は、別の方法でも期持できるかもしれない。技術上の強制のほかに、社会的必要=欲求がますます重視されるようになっており、もしこの後者が人間活動〔デューリングの原文では「経済活動」〕を編成するうえでの規範とされるようになれば、田舎の仕事と技術的な変換労働とを系統的に緊密に結合することから生じる利益は、もうなおざりにできないであろう」。

 さて、経済コミューンでは、まさに社会的必要=欲求が重視されるのだからこそ、たぶんコミューンは、急いで、右に言われているような農業と工業との結合から生じる利益をあますところなく完全に手に入れようとするのではなかろうか? デューリング氏は、間違いなくわれわれにこの問題にたいする経済コミューンの立場についての自分の「もっと精密な見解」を、いつもの長ったらしい文章で伝えてくれるのではなかろうか? そんなふうに考えた読者は、いっぱい食わされることになろう。

デューリング氏が現在および将来の〈都市と農村との対立〉についてわれわれに語ることができるのは、前に記した陳腐な議論、つまり、貧弱な・まごついた・またしてもシュナップス〔蒸留酒〕製造および甜菜糖製造に従事するプロイセン・ラント法の施行区域内をぐるぐる回りする陳腐な議論、ただこれだけなのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p168-169)

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◎「社会の未開段階で行なわれる一人の人間の作業は、改善された段階では数人の作業になるのが普通である。」と。