学習通信040728
◎分業≠ニ労働者……。

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人間らしい活動とは

 職場の合理化の進展と労働戦線の再編、街頭型大衆運動の沈静化、臨調=行革路線による企業内的秩序の公共部門や教育・市民生活などの領域への浸透・拡延など、社会構造のあり方は、「民間活力」の導入で予想以上のテンポと規模で変わりつつある。他方で社会を構成する個人・家族のレベルでも、身体と精神と人間関係のあらゆる局面で問題が噴出しており、これらの諸問題は、多様な問題がたまたま同時に多発したというよりも、人間の日常的な生活世界の構造の動揺・危機が多様な現象としてあらわれているものと思わざるをえない。

 こう考えるとわれわれには、諸現象の背後の社会構造と個人生活の最深部で、一体いかなる変化が今日の時代に、進行しつつあるのか、この点の、腰をすえた検討が求められつつあるように思われる。迂遠のようではあっても、それが、社会運動の再構築という課題へむけて、学問という分野がなしうる、ひとつの努力のあり方ではなかろうか。

 このように考えて、われわれは、社会をなす諸個人の生活の最深部で、いかなる事態が進行しつつあるか、この点を、今日の社会的生産力のひとつの中枢をなす、製造業の大工業の労働者たちの労働と生活について検討しようと思うのである。本章では、このうち労働とその生活と意識への影響とを課題として分担する。

 さて、それではわれわれは、労働をどのような観点から考察すべきであろうか。この点は、人間とはそもそもなんであるか、という点についてのごく常識的な検討から定めることが可能であるように思われる。動物が本能にしたがって無自覚的に生き、これにたいして、人間は意識をもった存在として、本能に規定されながらも本能をこえて、人間生活のあらゆる局面において、自覚的に目的を設定し、その目的にむけて意識的に生きてゆく、人間の本質をひとまずこのように規定することには、おそらく異存がないであろう。

実際にはわが身をふりかえってみると、このように生きることは、まったくむずかしいことであるが、少なくとも動物との対比において、そもそも人間とはなにかと考えてみれば、このようにいわざるをえない。そしてこの目的設定において、多様な目的を設定することが可能であるからこそ、蜂が蜂の巣しかつくれず、蜘蛛が蜘蛛の巣しかつくれないのにたいし、人間は家をつくることもできれば、パンを焼くこともできるし、優れた文学作品を書くこともできる。人間の自由の要件のひとつはここにあるのである。

 この設定した目的を正確に実現するために、自分の身体的、精神的能力を動員・集中し、かつまたより高度の目的にむかって、そのことを繰りかえす。この過程の繰りかえしを通じて、ちょうど、好きなスポーツの練習のばあいと同じように、人間の能力は発達し、かつてもっていなかった能力が、まるでもとからその人間に自然に備わっていたかのように、その人の心身に定着し、その人の人間的自然となる。このように多様にして自由な目的設定と、この目的へむけての人間の諸能力の集中・動員によるその発達、ここに人間世界の豊かさと人間の発展がある。

 さらに目的の設定から目的の実現という活動の過程を通じて、もう一点留意すべきことがある。それは、目的の設定と目的の実現という過程は、なんらかの対象にたいするはたらきかけであるから、この対象が人間をふくめた生物的自然であろうと、無機的自然であろうと、かならず対象はそれに固有の特質をもっており、したがって、目的設定と目的実現の活動はかならず対象からの逆規定をうけるということである。換言すれば、目的設定と目的実現の活動は、対象との対話であり、この対話を通じて、人間は当初気がつかなかった事態を発見し、対象にたいする認識を深め、当初に設定した目的を、対象に規定されて、絶えず修正しながら、その目的を実現してゆくのである。

 人間の本質が目的設定とその目的実現へむけての意識的活動という点にあるという観点から、以上のように考えてきたのであるが、結局、以上をふまえて、まさに人間にふさわしい人間的活動とはなにか、この点を次のように規定することができるであろう。すなわち、目的そのものを、活動主体としてのその人間が直接に設定し、そのうえでその設定した目的にむけて自己の身体的および精神的諸能力を主体的に動員し、さまざまな困難を克服して目的を実現する、その過程の繰りかえしを通じて、その過程をになうにふさわしい活動主体として自己を形成してゆく。

しかもその過程で思わざる事態に遭遇し、その事態の合理的解釈の獲得によって、目的と目的実現活動を対象との関係によりふさわしいものに修正し、かつ自己の認識が深まり、視野も拡大する。これがまさに人間的活動の本質であり、したがってまた本来的な人間的活動である。

 あらためていうまでもなく、意志なき存在として、非合理の世界に身をゆだねて、時代の荒海に漂う小舟のようではありたくない、せめて自分が自分の人生の主人公でありたいと思うのは、市井の生活者にとっても心の奥にある痛切な願いであろうから、人間の本来的活動をこのように規定することは、われわれの感性にも合致するものと思われる。

人間らしい労働とは

 さて、人間の本来的活動がそうしたものであるとすれば、そのような性格は、人間の活動の全過程にわたって、つらぬかれなければならない。労働ではそのことを断念し、趣味や余暇の世界でだけそれを追求するというわけにはいかないのである。

なぜなら、いかに労働時間が短縮されるとはいえ、今日、勤労者がその生活のなかで、もっとも時間とエネルギーを集中するのは依然として、労働生活であり、かつ気ままにとりかえることができず、長期にわたって反復しておこなわれる過程のなかでこそ、特定の能力が発達するから、そういうものとして、労働生活は人間にとって規定的である。したがって、労働過程においても、いや今日、量的にも質的にも労働過程にこそ、さきに示した人間的活動の本来的性格が実現しなければならないのである。人間が、人間らしくあるためには、そのことが必要なのである。

 今日、勤労者の多くの労働が、こうした人間的労働の本来的性格からあまりに遠ざかっていることは周知の事実である。だからまた、仕事のうちにではなく、余暇の趣味や、家庭生活のうちに、もっぱら生きがいを求めるという傾向があらわれざるをえないのも自然なことである。しかし労働生活がさきに述べたように主要な位置を占めているかぎり、現実が人間的労働の本来的な性格からどれほど遠ざかっていようとも、この性格の回復を求める動きは、多様な姿をとりながらも、絶えず再出するのである。

 そしてこの人間的労働の本来的な性格は、たんに結合労働者とか集団的労働者とかいわれる労働者集団の全体に確保されていれば足りるというものではない。企画や構想がもっぱら特定の人びとにゆだねられ、あとの労働者たちはもっぱらただ機械的に手足を動かすだけというのでは、社会の圧倒的多数の人びとにとってさきに述べた人間の本質は実現できていないことになる。

 一人ひとりが、人間としての本来的活動を日々に営みながら、その繰りかえしのなかで身体的かつ精神的な諸能力を発展させ、そのことによって、人間が自己の心身の外部の自然・社会と、内部の自然・社会(本能、生体や経験など)とを均衡させ、そうすることによって、一個のまとまりある安定的存在となる。そのうえで、そうした諸個人が連帯する。こうした方向が、人間の本来的活動のさきに帰結するところであろう。どんなに社会システムが、「よく」なっても、一人ひとりが主体的存在になれなくては、われわれは、人間になったとはいえないのである。

もとより資本制大工業下の分業社会で、こうした事態が一挙に実現されるはずもないが、少なくとも、そうした方向にむかっているか、あるいは日常の労働生活のうちで、わずかでも、あるいは瞬時でも、人間の本来的活動の存在がたしかめられ、その余地がひろがっていくか、この点が大切であり、この点こそが毎日の労働を考察するときのわれわれの観点となろう。理想の実現とは、なにか社会や人間の外にある観念の獲得=現実化ではなく、社会と人間のうちにすでにあって、絶えず踏みにじられ、かきけされながら、なお再出しつづける萌芽の全面開花のことである。

 以上のように考えてきて、あらためて日々の労働を考察する観点を確認しておこう。目的そのものを労働する主体が直接に設定し、そのうえで、その設定した目的にむけて、自己の身体的および精神的諸能力を主体的に(つまり自分の意志で積極的に)動員し、さまざまな困難を克服して目的を実現する。その過程の繰りかえしを通じて、その過程をになうにふさわしい労働主体として自己を形成してゆく。

しかもその過程で、予想していなかった思いがけない事態にであい、ああでもない、こうでもないと考えたすえに、その事態の合理的解釈を獲得する。そうすることによって、目的と目的を実現する労働と働きかけられる対象との関係によりふさわしいものに修正し、かつ自己の認識が深まり、視野も拡大する。

 以上が人間的労働の本来的性格である。この本来的労働とどれほどの距離にあるか、そしてその距離が労働者の生活と意識にどのような影響を及ぼしているか、およびその距離のもとにおかれた労働が、労働の本来的性格の回復=実現にむけて、どのような動きを示しているか、以上が現実の労働を考察するにあたっての基本的観点となるのである。
(佐々木・野原・元島著「働きすぎ社会の人間学」労働旬報社 p70-76)

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 分業の発達とともに、労働で生活する人々の圧倒的部分、つまり国民大衆のつく仕事は、少数の、しばしば一つか二つのごく単純な作業に限定されてしまうようになる。ところで、おおかたの人間の理解力というものは、かれらが従っている日常の仕事によって必然的に形成される。

その全生涯を、少数の単純な作業、しかも作業の結果もまた、おそらくいつも同じか、ほとんど同じといった作業をやることに費やす人は、さまざまの困難を取り除く手だてを見つけようと、努めて理解力を働かせたり工夫を凝らしたりする機会がない。そもそも、そういう困難が決して起らないからである。

こういうわけで、かれは自然にこうした努力をする習慣を失い、たいていは神の創り給うた人間としてなり下れるかぎり愚かになり、無知になる。

その精神が麻痺してしまうため、理性的な会話を味わったり、その仲間に加わったりすることができなくなるばかりか、寛大で高尚な、あるいはやさしい感情をなに一つ抱くこともできなくなり、結局、私生活のうえでの日常の義務についてさえ、多くの場合、なにもまともな判断が下せなくなってしまう。自分の国の重大で広範な利害についても、まったく判断が立たない。

そして、かれをたたき直すために、よほど特別の骨折をするのならいざ知らず、戦争になっても、かれは自分の国を護ることが、これまたできない。淀んだようなかれの生活は十年一日のごとく単調だから、自然に勇敢な精神も朽ちてしまい、そこで、不規則不安定で冒険的な兵士の生活を嫌悪の眼で見るようになる。

単調な生活は、かれの肉体的な活力さえも腐らせてしまい、それまで仕込まれてきた仕事以外は、どんな仕事につこうと、元気よく辛抱づよく自分の力を振るうことができなくなってしまう。自分自身の特定の職業での手際というのは、こういうふうにして、かれの知的な、社会的な、また軍事的な美徳の犠牲において獲られるもののように思われる。これこそ、進歩した文明社会ではどこでも、政府がなにか防止の労をとらぬかぎり、労働貧民、つまりは国民大衆の必然的に陥らざるをえない状態なのである。

 野蛮な社会と普通呼ばれているような狩猟民や牧羊民の社会では、これと事情が異なり、製造業の発達と外国貿易の拡大に先立つ原始的な農業の段階にある農耕民の社会でさえも事情が異なる。こういう社会では、だれもが多種多様の仕事をやるから、だれもがその能力を発揮しないわけにゆかないし、また、絶えず起ってくるさまざまな困難を取り除く手だてを発明せざるをえなくなる。

発明力は活き活きと保たれ、人の心は、文明社会でほとんどすべての下層階級の人たちの理解力を麻痺させてしまうかに見える、あの半分寝呆けたような愚昧(ぐまい)に落ち込ませられることはない。これらいわゆる野蛮社会では、すでに述べたとおり、だれもが戦士である。しかも、そのだれもが、ある程度は政治家でもあり、社会の利害や社会を統治する人たちの行動について、一応の判断を下すことができる。

かれらの首長が、平時にはどこまで立派な裁判官か、戦時にはどこまで立派な指揮官か、かれらのひとりひとり、ほとんど皆が観察してよくわかっている。もとより、こうした社会では、もっと文明の進んだ状態で、一握りの人たちがときとして備えているような、鍛え上げられ、洗練された理解力を身につけることは、とてもだれにもできそうにない。未開社会にあっては、各個人個人の仕事こそ相当に多種多様だけれども、社会全体の職業の種類はそれほど多様ではない。

だれもが、他人のすること、やれることは、ほとんど皆、自分もするし、やれもする。だれもがかなりの程度に知識も創意も発明の才ももっているが、その代り、十分にもっている者はめったにいない。けれども、普通だれもがもっている、この程度のものでも、社会の仕事も単純だから、そのすべてを片づけてゆくのに総じて十分なのである。

これとは逆に、文明の進んだところでは、大部分の人が、一個人として従う職業の種類にはほとんど多様性がない代りに、社会全体の職業はほとんど無限に多種多様である。こういう多様な職業は、自分自身は決まった職につかず他人の職業を研究する暇と意向をもつ少数の人々にたいして、ほとんど無限の多様性を備えた思索の対象を提供する。

これほど千差万別の対象を考え抜くとなれば、かれらは、どうしても際限もない比較と脈絡づけに脳漿(のうしょう)を絞ることになり、その理解力は異常なまでに鋭くかつ博(ひろ)くなる。

けれども、こうした少数者が、たまたまごく特殊な地位につかぬかぎり、その偉大な能力は、本人にとっては名誉であるにせよ、かれらの社会の優れた統治や幸福にはろくに寄与しないだろう。少数者だけは偉大な能力をもっていても、国民大衆のあいだでは、人間性のうちの高貴な部分はすべて、はなはだしく抹殺され消滅させられてしまうだろう。
(アダム・スミス著「国富論 V」中公文庫 p143-145)

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 生産が自然生的に発展していくどの社会──こんにちの社会もその一つである──でも、生産者が生産手段を支配するのではなくて、生産手段が生産者を支配する。

そのような社会では、なんであろうと生産の新しい挺子は、必ず急変して生産者を生産手段に隷属させる新しい手段となる。

このことは、なによりもまず、大工業が導入されるまで生産の最も強カな挺子であったものに──労働の分割に、あてはまる。

最初の大きな分業である都市と農村との区分けが、すぐさま、農村住民には幾千年にもわたる愚鈍化の運命を、都市住民には各人が個々それぞれの手工業に隷属させられるという運命を、宣告した。

それは、前者の精神的発達と後者の身体的発達との基礎を破壊した。農民が土地をわがものにし、都市住民が自分の手工業をわがものにするとき、それとまったく同じ程度に、土地が農民をわがものにし、手工業が手工業者をわがものにするのである。

労働が分割されることによって、人間も分割される。ただ一つの活動を発達させるために、他のすべての身体的および精神的能力が犠牲にされる。人間の発達のこの衰退は、分業が進むのと同じ度合いで進行し、そして、分業は、マニュファクチュアにおいてその最高の発展をとげるのである。

マニュファクチュアは、手工業をその個々の部分作業に分解し、それぞれの部分作業を個々の労働者に生涯の職業として割り当て、こうして彼を一生のあいだ特定の部分機能と特定の道具とにしばりつける。

「それは、生産的な衝動および素質をすべて抑圧することを通して労働者の細部的熟練を温室的に助長することによって、労働者大不具にし奇形者にしてしまう。

……個人そのものが分割されて、一つの部分労働の自動的駆動装置に転化される」(マルクス〔『資本論』B、六二六ページ〕。

──この駆動装置は、労働者が文字どおり身体的および精神的に不具化されるときにはじめて完全なものになる場合が多いのである。大工業の機械は、労働者を一つの機械という地位から格下げして一つの機械のただの付属物にしてしまう。

「一つの部分道具を扱うことを終生の専門としていたのが、一つの部分機械に仕えることを終生の専門とするようになる。

機械は、労働者自身を幼少時から一つの部分機械の部分に転化させるために悪用される」(マルクス〔同B、七二九/七三〇ページ〕)。

そして、労働者ばかりでなく、労働者を直接にまたは間接に搾取する諸階級も、分業を手段として自分の活動の道具に隷属させられるのである。

頭のからっぽなブルジョアは、自分自身の資本と自分自身の利潤欲との奴隷となる。法律家は、自分の骨化した諸観念の奴隷となり、こうした法観念が一つの自立した力となって彼を支配するのである。

「教養ある身分」は、総じて、さまざまな局部的な狭さと一面性との、自分自身の身体的および精神的な近視性の、奴隷となり、また、一つの専門向けにアレンジされた教育を受けこの専門そのもの──この専門がまったくののらくら生活である場合にさえ──に一生涯しばりつけられることによる不具化の、奴隷となる。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p170-172)

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◎「結局、私生活のうえでの日常の義務についてさえ、多くの場合、なにもまともな判断が下せなくなってしまう。自分の国の重大で広範な利害についても、まったく判断が立たない。」とスミスはいっています。

日本の労働時間は異常です。意識は如何でしょう? 

◎「そして、労働者ばかりでなく、労働者を直接にまたは間接に搾取する諸階級も、分業を手段として自分の活動の道具に隷属させられるのである。頭のからっぽなブルジョアは、自分自身の資本と自分自身の利潤欲との奴隷となる。」とエンゲルスはいいます。