学習通信040729
◎「生産的労働における自分の分担分を他人に押しつけること」……。
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ユートピア社会主義者たちは、労働の分割の結果を早くも完全にはっきり理解していた。その結果とは、すなわち、一方では、労働者の発達が衰退することであり、他方では、労働活動そのものが、同じ一つの行為を一生のあいだ単調に機械的にくりかえすだけのものになって、衰退することである。
都市と農村との対立の廃止は、旧来の分業一般を廃止するための第一の根本条件として、フーリエもオウエンも要求している。この二人のどちらにおいても、住民は一六〇〇人ないし三〇〇〇人ずつの群れに分かれて全国に分散することになっており、それぞれの群れは、各自の区域の中心にある一つの巨大な宮殿に住んで、共同の家計を営むのである。
なるほどフーリエはそこここで都市のことを口にしてはいるが、この都市そのものは、これまたかなり近接して隣りあっている四つないし五つのそのような宮殿で構成されているにすぎない。この二人のどちらにおいても、社会のすべての成員が農業にも工業にも参加する。
フーリエでは、工業でおもな役割を演じるのは手工業とマニュファクチュアとであるが、これにたいしてオウエンでは、もう大工業がおもな役割を演じており、また、彼は早くも家事労働に蒸気力と機械とを導入するよう要求している。しかし、二人とも、農業の内部でも工業の内部でも、各人の仕事をできるだけさまざまに入れ替えるよう要求しており、それに見あって、青年をできるだけ全面的な技術的活動のために教育するよう要求している。
二人とも、全面的な実践的活動を通じて人間を全面的に発達させよう、と思っており、また、労働には、分割のせいで失われた・人を引きつけるその魅力を、まずこういう入れ替えと、どの個々の労働にも当てられる「着席時間」──フーリエの〔『産業的・共同社会的新世界』での〕言い回しを使えば──をその入れ替えに見あって短くすることとによって、とりもどさせよう、と思っている。
デューリング氏に受け継がれている搾取階級のつぎのような考えかたに比べれば、この二人のほうがはるかにまさっている。
すなわち、伝来のその考えかたは、〔一〕都市と農村との対立を事柄の性質から言って避けられないものと見なし、〔ニ〕〈或る数の「人間」は、どんな事情のもとでも一つの物品を生産するといういまいましい仕事をしなければならない〉とでもいった偏狭な意見にとらわれており、〔三〕〈暮らしぶりで区別される「さまざまな経済的変種」に属する人びと〉を、つまり、〈ほかならぬまさにこの物の行使〉によろこびを感じ、したがって、自分自身の隷属化と一面化とをよろこぶまでに落ちてしまった、そういう人びとを、永久化しようとしているのである。
「白痴」フーリエの無鉄砲きわまる空想の根本思想に比べてさえ、「粗野でぼやけて貧弱な」オウエンの貧弱きわまる思想に比べてさえ、自身まだまったく〈労働の分割〉の奴隷であるデューリング氏は、出しゃばりの小人でしかない。
社会は、すべての生産手段の主人となりこれを社会的に計画的に使用することによって、これまで人間が自分自身の生産手段に隷属させられていた状態をなくす。
言うまでもなく、社会は、各個人が解放されなければ、解放されることができない。
古い生産様式は、だから、根底から変革されなければならないわけで、ことに旧来の〈労働の分割〉は消滅しなければならない。
これに代わって、つぎのような生産組織が現われてこなければならない。
それは、一方では、だれ一人として人間の生存の自然的条件である生産的労働における自分の分担分を他人に押しつけることができず、他方では、生産的労働が人間を隷属させる手段ではなくなって──各個人にそのすべての身体的および精神的能カをすべての方向に発達させ発揮する機会を提供することによって──人間を解放する手段となり、こうして、かつては重荷であった生産的労働がたのしみとなる、そのような生産組織である。
これは、こんにちでは、もう空想ではない、叶えられることのない願いではない。
生産力の現在の発展〔水準〕では、生産力が社会化されたという事実そのものにおのずからともなって起こる生産の増大だけで、つまり、資本主義的生産様式から生じる阻害および撹乱、ならびに、生産物および生産手段の浪費が取り除かれるだけで、労働時間を──全員が労働に参加することを条件に──こんにちの観念から言ってわずかな長さにまで短縮することが、十分にできる。
(エンゲルス著「反デューリング論-下-」新日本出版社 p172-174)
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第二の角度は、いわば人類史的な見方であります。「生産手段の社会化」が人間社会の本来の姿を取り戻すものであって、そういう意味で人類史の新しい時代を画する変革であることをおおもとからつかむ、この歴史観も大事であります。
人類の歴史をより深く考えますと、だいたい生産手段というのは、人間がそれを使って自然に働きかける手段であります。
少なくとも数十万年は続いた人類史の曙(あけぼの)の段階では、生産者が自分の生産手段をもって自然に働きかける、これが人間本来の姿でした。
階級社会に変わってこの状態が根本から変わりました。階級社会には、奴隷制、封建制、資本主義という主な三つの時代がありますが、時間の長さからいえば、合わせてせいぜい数千年であります。この階級社会では、生産者と生産手段が切り離され、生産手段が支配者の持ち物となりました。そのために、生産者が他人である支配者のために働くというのが、生産の主要な様式に変わりました。
そして最後の搾取社会である資本主義の時代を迎えて、生産手段と生産力が高度な発展をとげ、新しい社会の物質的土台をつくりだす。同時に、一方では個々の企業が生産手段を持った状態では巨大化した生産の管理ができなくなるという矛盾が激しくなると同時に、生産者の側には、それだけ発展した生産手段を集団として動かすことができる力も発展してくる。ここに大づかみにみた資本主義時代の特徴があります。
そのうえにたって、共同体である社会が生産手段を握る、こういう形で生産者と生産手段の結びつきを回復するという新しい段階、人類のいわば「本史」への発展を意味する社会変革が日程にのぼってきたのです。
ここに、「生産手段の社会化」という目標を人類史という大きな視野でとらえた場合の大きな意義があることを強調したいと思います。
(日本共産党第23回大会「綱領改定についての報告」 しんぶん赤旗04115)
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◎「生産者と生産手段の結びつきを回復する」と。