学習通信040730
◎「本とはいったい何ですか?」……。

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 読書の愉しみ

 これはひとりでできる愉しみです。碁を打つには相手がいる。野球を愉しむには自分の他に少なくとも十七人の賛同者が必要でしょう。そういう愉しみは、いつでもどこでも、というわけにゆきません。道具や、設備や、場合によっては途方もなく広い場所がなければ、どうにもならない。読書の方は、設備も要らず、どこかへ出かけるにも及ばず、相手と相談もせず、気の向くままにいつでもどこでもできます。

蛍の光窓の雪というのは、貧富の差が大きく、燈火用の油の値だんが貧乏人に高すぎたむかしの話です。今は電気がいたるところにあるので、誰でも、望めば昼となく夜となく好きな本を読むことができるでしょう。こんな便利な娯楽はめったにありません。

 しかも当方の体力とはほとんど関係がない。老人子供、病人でも、多くの場合には、それぞれ読んで愉しめます。疲れているときでも、易しい疲れない本を選びさえすればよい。しかもカネがかからない。本が高くなったといっても、どこかの「ファミリー・レストラン」で二、三度食事をする値だんで、大抵の本は買えます。それでも買えないほど高い本は、公共図書館にあり、そこから借りればタダですむでしょう。こんなに安くて便利な愉しみを知らぬ人がいるとすれば、その気の毒な人に同情しなければなりません。

 「オーディオ・ヴィジュアル」の情報が、活字情報を駆逐する時代が来た、という人がいます。しばらく前にマクルーハンというハッタリ屋が、そういうデマをとばして、大勢の、あまりアタマのよくない人々をだましたのは、その例です。「ヴィジュアル」とは視覚的ということで、たとえば肖像写真が一人の男または女の顔を示すのは、「ヴィジュアル」な情報です。

しかしその他の誰ともちがう顔の特徴を言葉であらわすのは容易なことではありません。肖像写真は、活字の何十ページ、いや、おそらく何百、何干ページに相当する情報を一挙に伝えることができます。しかしその男または女が、昨日はソバを食べた、明日はウドンを食べるだろう、という活字の一行に相当する情報を伝えることはできません。

肖像写真は人物の顔の現在であって、過去も、末来も、表現できない。「ヴィジュアル」な情報と言葉による情報(その一つが活字情報)とは、互いに他を補うので、一方が他方を駆逐するのではないし、一方が他方に代るのでもありません。

 言葉は耳で聞くこともできます。耳で聞くのが「オーディオ」。活字の文章は、声に出して読んでテープレコーダーに記録することができるでしょう。しかしそうすることが便利な場合と、不便な場合があります。活字の文章でなく音楽の記録ならば、あきらかにテープレコーダーが便利な道具です。六法全書をテープレコーダーに吹きこむのは、あまりに不便だから、誰もしないことです。要するに活字の時代の後に「オーディオ・ヴィジュアル」の時代が来たのではなく、活字情報に「オーディオ・ヴィジュアル」の情報が加わった、というだけのことです。どちらも愉しめばよいので、どちらか一方だけを選ぶ必要は全くありません。

 それでは読書そのものに、どういう種類の愉しみが伴うでしょうか。それは人により、本によってちがうでしょう。もし共通の愉しみがあるとすれば、それは知的好奇心のほとんど無制限な満足ということになるかもしれません。どういう対象についても本は沢山あり、いもづる式に、一冊また一冊といくらでも多くのことを知ることができます。世の中には好奇心を刺戟する対象が数限りなくあるでしょうから、対象を移して、好奇心の満足を拡げてゆくこともできるでしょう。

読書の愉しみは無限です。時間をもて余してすることがない、といっている人の心理ほどわかりにくいものはありません。人生は短く、面白そうな本は多し。一日に一冊読んでも年に三百六十五冊。そんなことを何十年もつづけることは不可能で、一生に一万冊読むのもむずかしいでしょう。それは、たとえば東京都立中央図書館の蔵書一五〇万冊以上の一%にも足りないということです。面白そうな本を読みつくすことは誰にもできないのです。
(加藤周一著「読書術」岩波現代文庫 p215-217)

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 勉強とも生活とも関係のない精神の世界、だがそれなくして人間は豊かな生涯を営むことはできないだろう。読書には、その豊かな生涯の糧を供給するという深い一面があるのかもしれない。それはもはや、何かに役立つからとか体によいからといった現世利益的な次元では計れない効用である。いますぐに役立つかどうかの判断ならどんな人間にもできるけれど、それが何十年先にどう役立つかなんて、だれにも分からないであろうから。

 読書といえば、本を読む年齢というのが、私は思いのほか大事だったことにも気づいた。特に、子供から青年期にかけては発達期だから、これは一生に一度しかない貴重な時期ではないだろうか。若いとか年輩という差こそあれ、大人になってしまえば、何度同じ本を読んでも大人という意識の形で読むしかなくなってしまう。

でも子供から青年期の意識はしなやかで、このときにしか感じられないことを感じるアンテナをもっていると思う。私が椋(むく)文学を原風景として覚えていられたのも、この宝石のような時期に読んだからであって、もしこれが大人になってからの勉強だったら、けっしてこんな感動にはあずからなかったことだろう。

 子供のころに読んでおかねばならない本、読んでおけば素晴らしい宝石となって未来の自分を育む本、読書とはそういう宝石集めではないだろうか。ページを通して原風景を残してくれた椋作品との再会を果たし、私はそんなふうに思わずにはいられなかった。
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニア新書 p56-57)

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はじめに

 二〇〇三年九月、長野県の須坂市というところの、それまで五年間も毎年開かれて来ていた「信州岩波講座」に、講師として招かれました。

 八月から九月にかけて毎土曜日、いろいろの分野──国際情勢・日韓近代史・アメリカと日本の関係など──のすぐれた方々が講演や討論をなさったのです。なぜ私が招かれたかはよくわからなかったのですが、お招きに応じたのちは一生けんめいに準備をしました。最初に準備したのは「日本のあしたへの道」という題のものだったのですが、ふと、うかつにも見落としていた信州岩波講座の通しテーマが、「本を読むのをやめたときに、人は考えなくなる」というものであることに気がついたのです。

 たしかにそのとおり。本は思考というだいじなものを育てるものなのです。でも、逆のことも言えるのではないかしら。「人間が考えはじめたときに本が生まれた」と。

 いつ、だれが、何を考えて書きまとめて「本」にしたのでしょうか。私には大変に興味深く感じられました。

 ですから、「あしたへの道」をお話するかわりに、「本とは何か」を、聴講のみなさんと一緒に考えてみようという気になったのです。

 「本」というものに対して、私は長い間、関心を持っていて、メモをしたりノートをつくったり、「本」の歴史──読書史など含めて「本」と呼ばれるものが何を古代から現代まで意味していたのかの歴史──を調べたりしていたのですが、信州岩波講座に出かけることになったとき、あらためて、「人類文化史」「読書史」を数十冊読み返したのです。そして、あまりのおもしろさに夢中になってしまいました。

 なぜなら、現代の私たちが「本」と名づけるものが生まれ出るまでには、何と一万年近くもかかったのですから。しかも、地球上の東西南北いたるところで、名の知れぬ、名をのこさぬ人々が、「最初の本」を「つくりたい」と考え出して、苦労とよろこび・失敗と成功を味わい、つみかさねながら、創造してきた「人類のドラマ」こそ、いま私たちが何も考えずに、「あってあたりまえ」と思って手に取る「本」の背後に、背景として広がっているのですから。

 講演はわずか一時間二〇分でしたから、内容はきわめて不十分でした。幸いにいま、岩波ジュニア新書のために書くチャンスを与えられたので、大幅に加筆・展開することが出来ました。ではさっそくはじめましょう。

 本とはいったい何ですか?
 本を読むとは何のこと?
 読むべき本とは何ですか?

(犬養道子著「本 起源と役割をさぐる」岩波ジュニア新書)

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◎熱中して本=@ありますか。読み始めましょう知的好奇心≠さらにひろげるために……。