学習通信040731
◎マルクスのいう「なんでもできる人間」の姿……

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類的存在としての人間

 どのような時代のどのような社会においても、社会が成り立ち、人間が生活するために必要なのは人間の労働である。そして、社会のあり方をきめるのは、人間の労働のあり方である。中世の封建社会の担い手であった農民にはその社会に特有の働き方と日課があり、現代の資本主義社会の担い手であるサラリーマンにも独特の労働と生活のスタイルがある。それはけっしてこれから百年も二百年もそのまま続くものではなく、やがては大きく変わっていくだろう。マルクスの考える理想の社会では、人びとはどのようなことをして生活することになるのだろうか。

 『共産主義の原理』にはこんなことが記されている。
 「十八世紀の農民やマニュファクチュア労働者が大工業にまきこまれたとき、その生活様式全体を変え、まったくちがった人間になったのと同じように、社会全体による生産の共同経営や、そこから生まれる生産の新しい発展はまったく別の人間を必要とし、また、これを生み出すであろう」

 新しい社会の新しい人間の生き方としてマルクスが強調するのは、分業の廃止であり、多様な能力と技術の取得である。同じ一人の人間が農業と工業との両方にたずさわることは、共産主義社会の必然的な条件であり、さまざまな仕事の体験は人びとの素質をあらゆる方面に伸ばす機会をあたえると彼はいう。

アダム・スミスは、生産の効率を高めるためのすばらしい方法として分業の原理をほめたたえたが、マルクスの資本主義経済の分析においては、分業の原理は、疎外された労働を生み出し、労働者をひとつの商品にすぎないものに変える原理とされる。

 「労働が分配されはじめるやいなや、各人は一定の専属の活動範囲をもち、彼はこれを押しつけられて、そこから抜け出せなくなる。彼は猟師か漁夫か牧人か批評家かであり、生活の手段を失うまいとすれば、いつまでもそれでいなければならない。これにたいして共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業を積むことができ、社会が生産全般を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ、私はまったく気の向くままに今日はこれを行い、明日はあれを行い、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批評をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人や批評家になることはない」(『ドイツ・イデオロギー』)

 マルクスが共産主義社会における人間の生き方を具体的に描いているのは、この有名な一節のみである。ここにあるのは、固定した職業にとらわれない自由な人間、なんでもできる人間である。さきほど紹介したソローなどは、そういう人間の例にあげることができるが、しかし、彼は町の人びとからは町いちばんの閑人と見なされていたのであった。

彼は、家庭教師、庭師、農夫、ペンキ屋、大工、石工などの仕事をこなし、両手の指ほどの数の職業を持っているといっているが、実は、それらは日雇いの仕事として従事していたものであって、現代風にいえば、フリーアルバイターとして、ささやかな生活費を稼ぐための臨時の仕事にすぎなかった。私は、現代のフリーアルバイターにマルクスのいう「なんでもできる人間」の姿を見つけるつもりはないが、固定的な職業分化がゆるんできたことを最近の傾向として指摘することはできるであろう。多くの人は固定された職業にとらわれないで生きたいという願望を心に抱いているのではなかろうか。
(木原武一著「ぼくたちのマルクス」筑摩書房 p178-180)

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 旧来の〈労働の分割〉を廃止するということも、〈労働の生産性を犠牲にしなければ実行できない〉とでもいった要求ではない。それどころか、大工業のおかげで生産そのものの一条件になったのである。

「機械経営は、〈労働者群をさまざまな機械に配分することを──絶えず同じ労働者たちに同じ機能を身につけさせることによって──マニュファクチュア式に固定化する〉という必要をなくしてしまう。

工場の全運動が労働者からではなく機械から出発するので、労働過程を中断することなしに、絶えず人員を交代させることができる。

……最後に、機械を使う労働が年少時には急速に習得されることも、同様に、特殊な一部類の労働者をもっぱら機械労働者に仕立てあげる必要をなくす」〔『資本論』B、七二七──七二八ページ〕。

機械の資本主義的な利用方法が、しかし、特殊性を骨化させた旧来の〈労働の分割〉を──技術的には不用になったにもかかわらず──引き続き維持しなければならないのにたいして、機械そのものがこの時代錯誤にたいして反逆する。大工業の技術的基礎は、革命的である。

「現代工業は、機械と化学的過程とその他の方法とによって、生産の技術的基礎とともに、労働者の諸機能と労働過程の社会的諸結合とを絶えず変革する。

そうすることによって、社会内部における〈労働の分割〉をも絶えず変革して、大量の資本と労働者の大群とを絶え間なく一つの生産部門からほうりだして他の生産部門へ投げ入れる。

大工業の本性が、だから、労働の入れ替え・機能の流動・労働者の全面的可動性の原因となるわけである。

……すでに見たように、この絶対的矛盾〔本性がそうであるのに、大工業は、その資本主義的形態では、旧来の骨化した分業を再生産する、という矛盾〕は、……労働者階級の絶え間ない生け贄の祭典・諸労働力の切りのない浪費・社会的無政府状態の荒廃のなかで、暴れ回る。これは、否定的側面である。

しかし、労働の入れ替えが、いま、ただ圧倒的な自然法則としてだけ、そして、いたるところで障碍にぶつかる自然法則の盲目的に破談的な作用をともないながら、貫徹されているにしても、大工業は、自分が引き起こした破局そのものを通じて、つぎのことを、すなわち、〈労働の入れ替えと、したがって労働者のできる限りの多面性とを普遍的な社会的生産法則であると承認し、そして、この法則が正常に実現されるように諸関係をそれに合わせる〉、ということを、死ぬか生きるかにかかわる問題としているのである。

〈資本のいろいろに変化する搾取の必要=欲求に応じられるように、困窮した労働者人口が予備として保有され自由に使用できる〉、という奇怪事の代わりに、いろいろに変化する労働の必要のために人間を絶対的に使用できる状態に置くことを、一つの細部の社会的機能の担い手にすぎない部分的個人の代わりに、さまざまな社会的機能を自分の代わるがわる行なう活動の仕方として果たす全面的に発達した個人をもってくることを、死活の問題としているのである」(マルクス『資本論』〔B八三七/八三八ページ〕)。

 大工業は、多かれ少なかれどこででもつくりだせる分子運動を技術上の目的で物体運動に転化させることをわれわれに教え、それによって工業生産を大きく場所的制限から解放した。水力は局地的であったが、蒸気力は自由である。水力は必ず農村的であるが、蒸気力は必ず都市的であるわけではけっしてない。

その資本主義的な利用のせいで、蒸気力はおもに都市に集中するようになり、工場村はつくりかえられて工場都市になるのである。

これによってしかし、同時に、蒸気力の資本主義的利用自身の経営の諸条件が掘りくずされることになる。

蒸気機関にとって第一に必要とされるもの、大工業のほとんどすべての経営部門にとっておもに必要とされるもの、それは、比較的にきれいな水である。工場都市は、しかし、水という水を悪臭を放つ汚水に変えてしまう。

だから、都市への集中がどれほど資本主義的生産の根本条件であるにせよ、個々のどの産業資本家も、資本主義的生産で必然的につくりだされた大都市を去って農村での経営に移ることに、絶えず努力するわけである。この過程は、ランカシャーおよびヨークシャーの繊維工業地域で詳しく調べることができる。

資本主義的大工業は、絶えず都市から農村へのがれることによって、そこで絶えず新しい大都市を生み出しているのである。金属工業地域でも事情は似たようなもので、そこでは、部分的には他の諸原因が同じ結果を生み出しているのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p174-176)

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◎「大工業のほとんどすべての経営部門にとっておもに必要とされるもの、それは、比較的にきれいな水である。」と。

「ぼくたちのマルクス」は1995年に出版されたものです。これを鵜呑みにしてはなりません。科学的社会主義の古典の古典読みをすすめます。