学習通信040802
◎「ゴキブリの世界観」「利己心の世界観」……。

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 われわれは誰でも利己心をもっている。利己心のない人間というごときものは考えることさえもできない、それほどそれは万人に共通なものである。ところが今までの道徳家や宗教家はこれをただ悪いものとして否定して来た。道徳というものは他人のため社会のためにおのれをささげることでなければならない。たとえそこにすこしでも利己心があるならば、それはほんとうの道徳的善の名に値しない、われわれの行為の動機はあくまでも純粋なものでなくてはならないと言うのである。

 しかしもしたんに道徳がそういうものであるならば、道徳の実践というものは不可能であるといわなくてはならない。おもてむきどんなに利他的に見えるような行為であっても、もしこれをどこまでもいつわりなく反省してゆくならば、かならずどこかで利己心につきあたる。全く利己心のない行為などというものはたんなる観念としてならばともかく、現実の人間の世界にはあり得ないのであるまいか。

人によると「自らかえりみて一片の私心もない」とか「俯仰(ふぎょう)して天地にはじない」などという人もあるけれども、実はそういう人は、ほんとうに自己を反省する力のとぼしいということを、自ら告白しているのにすぎず、これをその言葉のとおりにうけとることはできないように思われる。

 しかしこれとともにまた利己心だけで道徳が成り立つことのできるものでないことも明らかである。今日資本家たちは口には「道義の高揚」をとなえたり、「愛国心」とか「宗教的情操のかんよう」とか、いかにももっともらしいことを口にしてはいるけれども、腹の中は要するに「金もうけ」で一ぱいであり、他に一物を入れる余地をももっていない。労働者の生活がどんなに不安であろうと、中小商工業者がどれほど金融にくるしんでいようと、それが自分の金もうけにひびいて来ないかぎり、彼らは痛くもかゆくも感じない。

自分自身は大磯や箱根の別荘に第二夫人をひざまくらにしていながら国民に向かって「耐乏生活の必要」をとくぐらいのことは平気の平左である。自分たちの階級的利益のためには九千万の国民を戦争にまきこむようなことまでわざわざやろうとしている人たちに、いかなる道徳的良心があり得よう。だからわれわれはブルジョアジーや、これと結びついた政治家、官吏、学者、思想家、宗教家などの言うことをどうしても信用することができない。

なぜできないかというと、彼らはほんとうに国民の大多数をなしている貧乏人のためを思ってくれていない。つまりおもてむきのいかなる美辞麗句にもかかわらず、常に極端な利己主義者であって、うっかり信用でもしようものならおそろしいしょいなげをくわされることがあまりにも明らかなことだからである。

 それなら労働者の方はどうであろうか。資本家とちがって労働者の間には、いま新しいモラルが誕生しつつあり、それは何ごとも自分ひとりの利益だけを考えて勝手に行動するようなことをせず、どこまでも全体の協力一致、団結と組織とを通して自分たちの幸福をまもってゆこう、そうしなければ一人ひとりの幸福をまもることは、とうてい不可能であるということが自覚されて来た。

そこで、ここでは「利己的」ということがきらわれ、にくまれ、はずかしいこととしていやしめられる。自分一人の利益のために勝手な行動をしたものは、「うらぎりもの」「脱落者」として、はげしい道徳的非難をあびるようになっている。事実組合活動の中心になって働く人は、どこまでも組合の利益のために働くべきであって、彼自身の個人的利益を考えるようなことをしてはならない。それをやればその人はもはや組合活動をやる資格のない人として排除される。

これらの点を考えると、特別な倫理学者や道徳家の教えをまつまでもなく、労働者階級自身の間では、すでに「利己心」を否定する倫理というものがその生活の現実的要求にもとづいて必然的に形成せられつつあるといってよい。

 しかしそこにまた依然として重大な問題がのこされていることが注目される。道徳の基礎は、たといそれが、封建道徳やブルジョア道徳のような旧い支配階級中心の道徳でなくて、新しいプロレタリア階級の階級的自覚にもとづく革命的道徳であるにしても、そこにやはり利己心を否定しなければならないという要求をふくんでいる。ところが最初にのべたように人間は生まれながらにして利己的な存在であって、これをなくするということは実は容易なことでなく、むしろ不可能に近い。

そんなむずかしいことをいま生活においつめられて他をかえりみる余裕すらなくなっている現代の労働者にむかって、いくら強く要求してみたところで、結局できない相談ということになるのではあるまいか。

 たとえば一つのストが行なわれるとき、大抵のばあいはじめのうちはみんな景気のいいことをいって元気よく一致団結しているのであるが、そのうちにだんだんと交渉が行きづまり、勝算がとぼしくなってくると、かならず中に動揺分子がでてくる。そこへ資本家がわからおきまりの分裂政策、現なまやごちそう政策やその他のアヘン剤をフリまいての各個げき破などによって第二組合などの問題がおこってくる。

一文の利益にもならず、首切りだけがまっているにすぎないようなストの陣営にいつまでもがんばっているよりは、早くたくみに身をかわして、資本家の誘惑に応じた方が、一身の利益という点から見ると確実にプラスになるということがはっきりとする段階に達してくると、このような動揺分子は大抵のばあい向こうがわに行ってしまうものである。その時になってこういう人間の「無良心」をせめ、その不徳義を非難することはきわめて容易であるが、しかしそうしたからといってどれだけの効果も期待できるわけではない。利己心を否定する道徳の方がまけるにきまっているのである。

 労働者なかまからダラ幹がでてくる心理もそこにあるのであろう。ながい間貧乏して金に不自由していた人間は何万か何十万かの金でもつかまされると、もう有頂天になって仲間の人たちのことも忘れてしまい、つい資本家側と妥協的になって「マアマア」などといい出す。労組からおし出されて代議士にでもなり、一ヵ月に数十万の金でも入ってみると、自分自身が特権階級の一員になったような気もちで、ぬくぬくとした現状をあまり変革してもらいたくなくなる。

革命も闘争もいつのまにか口さきだけのことになってしまって、それよりか自分がこのまま立身出世して大臣にでもなることの方が直接の関心の対象となる。──略──特別な人はともかくとして、人間というものは大体においてそんなものなのであろう。理想主義や観念論の立場からならいくらでもりっぱなことをいうことはできるが、そういう幻想を去ってありのままの人間というものをみれば大体においてみんなそんなものなのであろう。それではこまるのだが、現実の事実がそうであるということを忘れてはならないのである。

 そこで労働者にとってこれからの道徳というものは具体的にどういうものでなければならないか。それは唯(ただ)むやみに利己心を否定するだけのものであってもならないが、さりとてみんなが自分の目さきの利益のことばかりにこだわっていたのでは、真の組合活動などというものはできなくなり、そうなるとまた労働者は全体として資本攻勢の前に屈服してみじめきわまる敗北を喫しなければならないことになる。

万人ののがれることのできない利己心をどう始末し、どう処理することが正しいか、これは今日の労働者階級にとってもかなり重大な倫理問題であるといわなくてはならない。
(柳田謙十郎著作集「人生論」創文社 p279-282)

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世界観と哲学

 生物学では生物が問題にされ、歴史学では歴史が問題にされる。では、哲学では何が問題となるのか。
 哲学では世界観が問題となる。議論はさておき、事実としてそうであったし、また現にそうである。この事実から出発しよう。

 世界観とは、読んで字のとおり「世界についての見かた」である。ここで「世界」とは、存在するすべてのもの、すなわちものごとの全体を包括してさしている。だから、ひらたくいって世界観とは、ものの見かた考えかた、というふうにいいかえることもできる。ものごとをどう見るかは、どう生きるかということと不可分のものであるから、ものの見かた、考えかた、生きかた、というふうにいってもいい。

 が、そういうひろい意味でなら、べつに哲学などあらたまって問題にしなくとも、だれでもがその人なりの世界観をもっているわけである。日常の生活のなかから、その人なりのものの見かた、考えかた、生きかたをかたちづくってきている。

 ゴキブリでさえも、そういう意味ではゴキブリなりの世界観をもっている、とゴリキーがいっている。

「ひろい意味の世界観は、人間である以上だれでも必ずもっているものだ。なぜならそれは、世界についての、また世界における自分の役割についての、その人なりの考えをいうのだから。そういう意味ではゴキブリでさえ世界観をもっている。その証拠には、われわれの大多数がほかならぬゴキブリの世界観をもっているではないか。つまり、われわれは、あたたかい場所に一生すわりこんで、ヒゲをひくひく動かしながらパンを食べ、ゴキブリどもをとめどなくふやしているのだから。」

 ゴリキーがここでいっているのが、直翅目ゴキブリ科の昆虫そのもののことでないことは、いうまでもない。

 ゴキブリの世界観についてと同様、私たちは利己心の世界観について語ることもできる。これについては、マルクスがつぎのように書いている。

「小心で、冷淡で、精神を失った利己的な利害の魂は、自分が侵害されるというただこの一点だけしか見ない。これはちょうど、だれかある通りがかりの人が自分のウオノメをふんだからといって、こいつはおよそこの世のなかでもっともいまいましい無頼のやからだ、と思いこむ粗野な人間のようなものである。

このような粗野な人間は、自分のウオノメを、ものごとを見たり判断したりする目にかえてしまう。彼は、通りがかりの人が自分に接触した一点を、この人間の本質が世界と接触する唯一の点にしてしまうのである。……諸君は諸君のウオノメでひとを判断してはならない。」

 また、つぎのように書いている。

「利己心は、人間をはかり測定する尺度、秤を二つもっている。つまり世界観を二つ、一方は地味な色で他方は派手な色をした二つの眼鏡をもっている。他人を犠牲にして自分の道具とし、表裏ある手段をかざりたててもっともらしくみせかけねばならないときには、利己心は派手なほうの眼鏡をかけて、自分の道具や自分の手段が自分の目に幻想的な光に照らされてみえるようにし、自他の目を迷わせて、慈愛と信頼の魂にあふれるこころよい現実ばなれした夢幻の境地にさまよいこむのである。

このとき利己心の顔面にあらわれるしわですら、すべてにこにこしてお愛嬌をふりまいている。利己心は自分の敵の手を傷つけるほどつよくにぎりしめるが、それも信頼のあまりのしわざ。ところが突然、自分の利益が問題となるや、舞台の幻想が消えうせた楽屋裏で、その道具と手段の有効性を念入りに吟味することが必要となる。

世事に通じた厳格主義者である利己心は、疑いぶかく用心しながら世故にたけた地味なほうの眼鏡、すなわち実践の眼鏡をとりあげる。ちょうど老練な馬仲買人のように、利己心は人びとをながいあいだじろじろと検視する。そうすると利己心の目には、人びとが自分自身とおなじようにちっぽけで、みすぼらしく、うすぎたないものに見えるのである。」

 ゴキブリの目ではなく、ウオノメではなく、世界をそのあるがままのゆたかさでとらえうるような、そんな目を私たちはもちたい。ゆがんだ眼鏡は、世界をゆがんで見せる。私たちは、ちゃんとした眼鏡がほしい。哲学への要求がそこからはじまる、というのが、過去・現在をつうじての事実であることはまちがいない。フランシス・ベーコンがその「学問の大革新」を「四つの幻影」の検討からはじめ、三浦梅園が「なずみを去る」ことを哲学への道の入口においたのも、このためであった。

 ちゃんとした眼鏡をかけたことのある人は知っていよう、はじめてそれをかけたときのことを。それまで、木の葉はぼうっとかすんで見えていた。木とはそんなものだと思っていた。が、眼鏡をかけたとたんに、木の葉の一枚一枚が、したたる緑とあざやかな輪廓をもって目にとびこんできた。世界がそのあるがままの新鮮さで私たちに追ってくる、そんな眼鏡を求めて、私たちは哲学にむかうのである。
(高田求著「人間の未来への哲学」青木現代叢書 p3-6)

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 小心で、冷淡で、精神を失った利己的な利害の魂は、自分が侵害されるというただこの一点だけしかみない。これはちょうど、だれかある通りがかりの人が自分のウオノメをふんだからといって、こいつはおよそこの世のなかでもっともいまいましい無頼のやからだ、と思いこむ粗野な人間のようなものである。このような粗野な人間は、自分のウオノメをば物ごとをみたり判断したりする目にかえてしまう。

彼は、通りがかりの人が自分に接触した一点をば、この人間の本質が世界と接触する唯一の点にしてしまうのである。しかしながら、ある人間が私のウオノメをふんだからといって、そのためにその人が誠実な、いやそれどころかずばぬけてりっぱな人間ではなくなってしまうというわけのものではないだろう。したがって、諸君は諸君のウオノメでひとを判断してはならないし、同じようにまた、諸君は諸君の私的利害の目でひとを判断してはならない。

ひとは私的利害に目をうばわれるならば、ある人間がある部面で自分の利害に敵対的な態度をとると、この部面がこの人間の生活領域のすべてだときめこんでしまうことになる。私的利害は法律を鼠とり人夫にかえてしまう。鼠とり人夫は自然研究者ではないから、鼠は有害なことしかしない動物だと思いこんで、この有害動物を全滅させようとするのである。

──略──

 いまはじめてわれわれは、告発権をもつ保安官が一つの監督を、しかも厳格な監督を必要とするということを耳にする。いまはじめて、森林保安官は人間であるばかりでなく、馬でもあることがわかる。というのは、鞭とパンとが彼の良心を刺激する唯一の手段であり、終身的任命は彼の義務筋肉をたるませるばかりでなく完全に麻痺させてしまうといわれているからである。

ここでわれわれには、利己心が人間をはかり測定する尺度と秤を二つもっていること、つまり世界観を二つ、一方は地味な色で他方は派手な色をした二つの眼鏡をもっていることがわかるのである。他人を犠牲にして自分の道具とし、表裏ある手段をかざりたててもっともらしくみせかけねばならならないときには、利己心は派手なほうの眼鏡をかけて、自分の道具や自分の手段が自分の目に幻想的な光に照らされてみえるようにし、自他の目を迷わせて、慈愛と信頼の魂にあふれるこころよい現実ばなれした夢幻の境地にさまよいこむのである。

このとき利己心の顔面にあらわれるしわですら、すべてにこにこしてお愛嬌をふりまいている。利己心は自分の敵の手を傷つけるほどつよくにぎりしめるが、それは信頼のあまりすることなのである。ところが突然、自分の利益が問題となるや、舞台の幻想が消えうせた楽屋裏で、その道具と手段の有効性を念入りに吟味することが必要となる。

世事に通じた厳格主義者である利己心は、疑いぶかく用心しながら世故にたけた地味なほうの眼鏡、すなわち実践の眼鏡をとりあげる。ちょうど老練な馬仲買人のように、利己心は人々を長いあいだじろじろと検視する。そうすると利己心の目には、人々が自分自身と同じようにちっぽけで、みすぼらしく、うすぎたないものに見えるのである。

 われわれは利己心の世界観を相手どって口論しようとはおもわない。ただわれわれは、その世界観をどうしても首尾一貫したものにしてやりたいのである。われわれは、利己心の世界観が処世の才をひとりじめにして、他のものには幻想しか与えないのには満足できない。われわれはしばらくのあいだ、私的利害の能弁的精神なるものがいったいどのような帰結を生みだすものかを吟味してみよう。
(マルクス著「木材窃盗取締法にかんする討論」大月書店マルクス・エンゲルス全集@p140-148)

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◎「利己心の世界観が処世の才をひとりじめにして、他のものには幻想しか与えないのには満足できない」と。声を大にして叫びたい。

退職したからといってどうだというのだろうか。「実践の眼鏡」に変えなければならないのかと。なにも変わっていないのだから。