学習通信040804
◎資本の文明化作用=c…と。

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 もちろん、〈旧来の《労働の分割》を都市と農村との区分けともども取り除いて生産全体を変革することになるであろう革命的諸要素、この諸要素は、すでに現代の大工業の生産諸条件のうちに萌芽として含まれていて、こんにちの資本主義的生産様式のためにその展開を妨げられているのだ〉、ということがわかるためには、プロイセン・ラント法の施行区域──すなわち、シュナップスと甜菜糖とが決定的に重要な工業生産物であり、商業恐慌を書籍市場で詳しく調べることができる、そういう国──よりも、いくらか広い視野をもっていなければならない。

そのためには、本当の大工業の歴史とその現在の実情とを、とくにこの大工業の生まれ故郷であり大工業が古典的な発展をとげた唯一の国〔イギリス〕で、見て知らなければならない。そうすれば、〈現代の科学的社会主義を浅溥化してデューリング氏のプロイセン特有の社会主義にまで引きずりおろそう〉などとは、だれも考えなくなるであろう。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p179)

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第十回 資本の文明化作用≠ニいうマルクスの言葉

 −前回までうかがった、生産力の巨大な発展のなかに資本主義の矛盾をとらえるというお話は、いまの時代に生きている私たちの実感にも、非常にぴったりですね。

「文明化作用」−資本主義の歴史的な役割

 不破 そうですね。しかもマルクスは、資本主義のこういう役割を、実は生産力の面だけでなく、さらに広い視野で見ているのです。『経済学批判要綱』という最初の草稿(一八五七〜五八年)では、「資本の文明化作用」という言葉でそれを表現していました。哲学的な用語をふんだんに使った文章なのですが、生産力を発展させるために、資本主義の時代を通じて、人間そのものも歴史的な発展をとげる、という見地が、この「文明化作用」の大きな柱として強調されています。

 この人間の発展についても、二つの側面を論じていますね。
一つは、搾取する人間集団と搾取される人間集団の間の関係が、封建社会とは根本的に変わってくる、という問題です。だいたい、個性をもった人間、平等な権利意識や、政治的には主権者の意識をもった人間というのは、資本主義社会になってはじめて生まれるわけです。

殿様に農民が隷属していて、土地に縛りつけられている関係のなかでは、主権者の意識なんて生まれようがない。労働力を売買し、その限りでは、資本家と労働者は対等の関係にあるというなかでこそ、平等の意識も生まれる。もちろん、そういう意識や権利が現実のものになるには、人民の側からの長い闘争が必要なのですが、その客観的な基礎は、資本主義の条件のなかにあるのですね。

 もう一つは、資本主義が、生産力を発展させる必要から、人間の欲求を発展させ、また能力も開発させる、こうして、多面的な欲求と多面的な能力をもった「社会的な人間」を生みださざるえない、という問題です。

 こういうことすべてを含めて、マルクスは、資本が生み出す「社会段階」が人類史のうえで「偉大な」意義をもつことを、さまざまな角度から強調し、「この社会段階に比べれば、それ以前のすべての段階は、人類の局地的諸発展として、自然崇拝として現われるにすぎない」とまで論じました(『資本論草稿集』A一八ページ)。

−なかなか壮大な見方ですね。

新しい社会へのテコになる「できあいの形態」も

 不破 もう一つ大事な点は、資本主義の発展のなかで、生産力だけでなく、経済のしくみのなかに、新社会への足がかりとなりうる「できあいの形態」ができてくる、ということです。第九回で、『空想から科学へ』が、株式会社とか、トラストや国有化などの形態を、生産力の社会的な発展に対応したものと位置づけたことを、紹介しましたね。それらは、資本主義の枠内では、資本主義的な経済支配の手段でしかありませんが、社会的な交代が歴史の日程に上ってくる変革の時期には、新社会に移行するテコともいうべき新しい役割をにないうるはずなんです。

 実は、マルクスは、『資本論』のなかで、そういう角度から、将来の社会主義的な変革のさいに、テコとして役立つ経済形態が、資本のしくみのなかに生まれていることを、すでに発見していました。これは、第三部の信用論(「第五篇 利子と企業者利得への利潤の分裂。利子生み資本」)のなかの話です。マルクスは、銀行制度のなかに「社会的規模での生産諸手段の……一般的な記帳および配分の形態」があるとし、そういうしくみをもった信用制度が、「資本主義的生産様式から結合された労働の生産様式〔社会主義のこと〕への移行の時期」には、経済的変革の「有力な槓杆」として役立つだろうという、大胆な展望を展開しているのです。

 マルクスが示したこの展望は、トラストや国有化についてのエンゲルスの考えと、相通じるものがあります。エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかでこの文章を書いた時には、マルクスの信用論をまだ目にしていませんでした。科学的社会主義の創始者たちの見解は、こういう問題でも期せずして一致するものなんですね。

 レーニンも、十月革命の前後に書いた諸論文で、マルクスのこの命題に導かれながら、国家独占資本主義を経済的変革のテコにするという同じ考えを展開しました。これらを新しい社会が利用できる「できあいの形態」とよんだのは、レーニンなんです。

 −なるほど、マルクスからレーニンまで、同じ基調が流れているんですね。

 不破 社会の社会主義的な発展というのは、資本主義の廃墟のうえに、外から青写真をもちこんで新しい経済制度をつくりあげるといったことではないのですね。物質的生産力とともに、新社会のにない手となるべき人間、さらに新しい経済制度への足ががりとなる「できあいの経済形態」──資本主義社会が生み出したこういうものをすべて受け継ぎながら、より高度な経済形態、社会形態に移行してゆく。資本主義が生み出した価値あるものすべてのうえに、新しい社会をきずいてゆくという法則性をマルクスが発見したというのは、たいへんな大事なことだと思います。
(不破哲三著「対話 科学的社会主義のすすめ」新日本新書 p77-81)

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◎「物質的生産力とともに、新社会のにない手となるべき人間、さらに新しい経済制度への足ががりとなる「できあいの経済形態」」……「ものすべてのうえに、新しい社会をきずいてゆくという法則性」と。