学習通信040806
◎ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を

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 美化された降伏

 近所のラジオのまわりに集まり、天皇の放送を聞いた数百万の日本人たちは、「市民」ではなく天皇の「臣民」であった。その臣下たちは、中国と連合国に対する長い戦争を天皇の名において支えてきた。日本では、この戦争は「聖戦」と呼ばれていたから、日本の投降を発表するにあたって、この四四歳の君主は、「聖戦」とは何だったのかを、別の言葉で説明するという仕事に直面した。

 これはなかなか手強い仕事であった。一四年前、即位から六年目に、満州と呼ばれた中国の三つの省を皇軍が武力で奪取したとき、天皇裕仁はこれを黙認した。敗戦の八年前には、日本は天皇の名において中国との全面戦争を開始した。それ以後というもの、裕仁が人前に出るときは、いつも軍服に勲章をつけた最高司令官の姿であった。

一九四一年一三月、天皇は合衆国と欧州諸国に対する戦闘を開始する旨の詔書を発した。それから三年と八ヵ月がたった今、たんに戦いに終止符を打つだけではなく、日本の侵略意図を否定し、日本国家が実行した残虐行為を否認し、かつ、この長年にわたる侵略について、彼個人はなんら責任を問われないようなやり方で、負け戦を終わらせなければならなくなったのである。

 先例をやぶり、電波をつかって臣民に直接話しかけるという方法を考えたのは、裕仁自身であった。放送の原稿は、前日の深夜にようやく最終稿ができあがり、非常な緊張の下で清書され、運般された。降伏に反対する将校たちに知られないよう、隠れて録音し保存するために、大変な苦心が払われた。こうして天皇の詔書は混乱のうちに生まれたが、出来あがってみると、それはよく磨かれた宝石のように見事な出来栄えであった。

 相原ゆうの場合のように、天皇の言葉は多くの人々にとって難解ではあったが、その内容は短波放送で海外の日本人にも同時に送られ、まもなく全員が趣旨を理解した。相原の村にいた東京からの疎開者のように、事情に通じた聴取者が困惑している同胞たちに放送の内容を説明してやったし、ラジオのアナウンサーも、天皇の放送の直後に普通の言葉で詔書を要約し、意味を解説した。新聞社も天皇の詔書全文と編集者のコメントをつけた号外を大急ぎで発行した。

 放送の中の文章や言いまわしは、琥珀に閉じ込められた昆虫のように、すぐに人々の意識の中に固着していった。天皇は、「降伏」とか「敗北」といった明確な言葉はまったく使っていなかった。天皇は単に、「戦局必ズシモ好転セズ、世界ノ大勢マタ我二利アラズ」と述べただけであった。彼は臣民たちに、「堪(た)へ難(がた)キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍」ぶよう命じたが、この表現はその後の数ヵ月、数え切れないほど引用された。

 天皇はこの詔書によって、不可能を可能にしようとした。屈辱的な敗北の宣言を、日本の戦争行為の再肯定と、天皇の超越的な道徳性の再確認へと転換しようとしたのである。まず天皇は、一九四一年に合衆国に宣戦布告したとき臣民に告げたことを、もう一度繰り返した。すなわち、他国の主権を傷つけるような侵略的目的からではまったくなく、日本の生存とアジアの安定を確保するために戦争を開始したのだと。

この考え方に立ち、裕仁は「東亜ノ解放」のために日本に協力した国々にたいして、深い遺憾の意を表明した。つい先頃、広島と長崎に原爆が投下されたことについて触れ、敗戦の決断は狂暴な敵の行為による滅亡から人類そのものを救う、度量の大きい行為にほかならないとさえ述べた。


彼はこう宣言した。「敵ハ新二残虐ナル爆弾ヲ使用シテ、順二無事ヲ殺傷シ、惨害ノ及ブ所、真二測ルベカラザルニ至ル。而モ尚交戦ヲ継続セムカ、終二我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラズ、延テ人類ノ文明ヲモ破却スベシ」。天皇によれば、「万世ノタメニ太平ヲ開」くことこそ、連合国の戦争終結要求に応じた真の目的なのであった。

 次に天皇は、古典的な言いまわしを使って、臣民たちの犠牲は自分自身の苦しみであるといい、みずからを国家の苦難の体現者であり、究極の犠牲者であるとした。戦陣に倒れた者、そしてその遺族に想いを致し、国民すべてが直面している非常な苦難を考えると、「五内(ごだい)為二裂ク」と叫んだ。天皇の放送を聞いた人たちの多くにとって、この言葉が最も感動的な部分であった。なかには、君主の期待にそえず、そのために君主を悲しませたと思うと、自分の恥ずかしさと罪深さに圧倒されると述べた者もいた。

 一九四五年八月にこのような感情を喚起できたということは、見事な成功といえた。天皇の名において実行された戦争によって死亡した日本人は三〇〇万人近くにのぼり、傷をうけたり重病になった者はさらに多く、国土は瓦礫となった。にもかかわらず、天皇の忠実なる臣民たちが深く味わうべきものは、天皇の苦悩なのであった。史上はじめて天皇が公衆に直接語りかけたという事実が、より効果を高めた。

たぶん天皇は、民衆の苦しみの象徴であるばかりでなく、この負け戦の最大の犠牲者であったのだろう。そしてまちがいなく、それまで戦闘と犠牲を奨励してきたのは、天皇の本当の意図によるのではなく、君側の奸が無理にさせたことなのだ。今ようやく、人々は君主の「肉声」を聴いている──。感情過多の皇室崇拝者たちは、ただちにそう解釈しようとした。天皇は、まるで「密雲を破って天日に浴」するかのような存在なのであった。

 天皇は、「忠良ナル爾(なんじ)臣民」への信頼を再言し、「常二共二在リ」と述べたが、同時に、敗戦の混乱と悲惨のなかで自暴自棄にならないようにと警告した。「神州ノ不滅」を固く信じ、ひとつの大きな家族として団結しつづけること、そして日本の伝統を維持しつつ祖国再建に総力をあげ、「世界ノ進運」に遅れないことが絶対に必要であると述べたのであった。

 このような大胆かつ細心な言葉遣いの背後には、敗戦日本でこれから発生するかもしれない革命蜂起への、絶えざる恐怖が横たわっていた。それは天皇がそれまでの数ヵ月間、周囲から警告をうけつづけていた不吉な予想であった。つまり、天皇の放送はたんに負け戦を正式に終わらせる声明であっただけではなく、敗戦国家の社会的・政治的安定を図ると同時に、天皇の支配を維持するための緊急キャンペーンの開始宣言でもあった。
(ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて-上-」岩波書店 p25-29)

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八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏へ這いより折り重った河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠の床の糞尿のうえに
のがれ横わった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで
金ダライにとぶ蝿の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窟が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!
(峠三吉著「原爆詩集」青木文庫 p9-12)

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原爆を許すまじ
【 作曲者名 】中央合唱団 木下航二
【 作詞者名 】南部文化集団 浅田石二

ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
われらの街に

ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
われらの海に

ふるさとの空重く
黒き雲今日も大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
われらの空に

はらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
世界の上に

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のがれ横わった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく

三度許すまじ原爆を