学習通信040807
◎商品……「私的生産物でありながら、……社会的生産物でもある」と。

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第1章 価値について
第1節

 アダム・スミスは次のように述べた。「価値という言葉には、二つの異なる意味がある。それは、ある時はある特定の物の効用を表現し、またある時はこの物の所有がもたらす他の財貨の購買力を表現する。一方を使用価値、他方を交換価値と呼ぶことができる。」続いて彼はこう言っている。「最大の使用価値をもつ物が、交換価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。これに反して、最大の交換価値をもつ物が、使用価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。」と。

水や空気は大いに有用である。なるほどそれらの物は生存にとって不可欠ではあるが、しかし、通常の事情のもとでは、それらの物と交換にはなにも取得することができない。これに反して、金は空気や水と比較すれば、ほとんど有用性をもたないけれども、他の財貨の多量と交換されるだろう。

 そうだとすれば、効用は交換価値の尺度ではない。だが、そうはいっても、効用は交換価値にとって絶対に不可欠である。もしある商品が少しも有用でないなら、──言いかえれば、もしそれがわれわれの欲望の充足に少しも寄与しえないなら、──それは、どれほど稀少であろうと、あるいはどれほどの労働量がその獲得に必要であろうと、交換価値をもたないだろう。

 商品が効用をもっておれば、その交換価値は二つの源泉から引き出される。つまり、その稀少性からと、その獲得に要する労働量からとである。

 商品のなかには、その価値がその商品の稀少性のみによって決定されるものがある。労働はこういう財貨の量をけっして増加することができない。それゆえ、それらの物の価値が供給の増加によって引き下げられることはありえない。いくつかの珍しい彫像や絵画、稀覯(きこう)の書物や鋳貨、広さがきわめて限られている特殊な土壌で栽培されるぶどうからだけしか醸造できない特別な品質のぶどう酒、これらの物はすべてこの種類に属している。

これらの物の価値は、その生産に最初必要であった労働量とは全く無関係であり、それを所有したいと思っている人々の富と嗜好との変動に応じて変動する。

 だが、これらの商品は、市場で毎日交換される商品総量のなかの、ごく小部分を占めているにすぎない。欲求の対象となっている財貨のなかの、きわだって大きな部分は、労働によって取得される。そして、それらの物は、もしわれわれがその獲得に必要な労働を投下する気になれば、ただ一国においてだけでなく、多くの国においても、ほとんど無制限に増加することができるだろう。

 そこで、商品、その交換価値、およびその相対価格を規定する法則を論ずる際には、われわれはつねに、人間の勤労の発揮によってその量を増加することができ、またその生産には競争が無制限に作用しているような商品だけを念頭におくことにする。

 社会の初期の段階には、これらの商品の交換価値、すなわち一商品のどれだけの分量が他の商品との交換において与えられなければならないかを決定する法則は、もっぱらそれぞれの商品に支出された相対的労働量に依存している。

 アダム・スミスはこう言っている。「あらゆる物の真の価格、すなわちあらゆる物がそれを取得したがっている人に真に費やさせるものは、それを獲得する際の苦労と手数とである。あらゆる物が、それをすでに取得していて、それを処分、つまりそれをなにか別の物と交換したいと思っている人にとって、真にどれほどの値打があるのかといえば、それによって彼自身が節約することができ、他の人々に負わせることができる苦労と手数とである。」「労働は、すべての物に対して支払われた最初の価格──本源的購買貨幣であった。」と。

さらに、彼はこうも言っている。「資本の蓄積にも土地の専有にも先立つ社会の初期未開の状態においては、さまざまな物の取得に必要な労働量の間の比率が、それらの物を相互に交換することに対して、なんらかの法則を与えうる唯一の事情であるようである。

例えば、狩猟民族の間では、一頭のビーヴァーを仕止めるのに費やされる労働が、通常は、一頭の鹿を仕止めるのに費やされる労働の二倍だとすれば、一頭のビーヴァーは、当然二頭の鹿と交換されることになる、つまり、二頭の鹿の値打をもつことになる。通常は二日、あるいは二時間の労働の生産物であるものは、当然、通常は一日、あるいは一時間の労働の生産物であるものの二倍の値打をもつだろう。」と。

 人間の勤労によって増加することができない物を除けば、これこそ真にすべての物の交換価値の基礎であるという学説は、経済学において最も重要なものである。というのは、価値という言葉に付きまとっている曖昧な観念ほど、この学問のなかで多くの誤謬や多くの意見の相違を生み出す源泉は、ほかにはないからである。

 商品に実現される労働量がその交換価値を規定するのだとすれば、労働量の増加は必ずその労働が加えられた商品の価値を上昇させるにちがいないし、同様に、その減少は必ずその価値を低下させるにちがいない。

 アダム・スミスは交換価値の本源をきわめて正確に定義した。そこで、彼は首尾一貫して、あらゆる物の価値がその生産に投下される労働の増減に比例して騰落する、と主張すべきであった。〔だが、〕彼はみずから別の標準尺度をたてた。そして、物の価値は、それと交換されるこの標準尺度の増減に比例して騰落する、と説いている。彼は標準尺度として、ある時は穀物を、別の時は労働をあげている。

ただし、ここでの労働とは、ある物の生産に投下される労働量ではなく、その物が市場で支配できる労働量のことである。すなわち、あたかもこの二つのことが同義の表現であるかのように、またあたかも、ある人の労働の効率が二倍になり、したがって彼が二倍の量の商品を生産できるようになったということのために、彼が必然的に労働と交換に以前の二倍の量の商品を受けとりでもするかのように〔彼は考えている〕。

 もしこのことが本当に真実であって、労働者の報酬がつねに彼が生産した量に比例しているなら、ある商品に投下される労働量と、その商品が購買する労働量とは、等しいだろう。そこで、どちらの労働量でも他の物の〔価値〕変動を正確に測定できるだろう。だが、両者は等しくはない。前者は大抵の事情のもとで、他の物の〔価値〕変動を正確に示す不変の標準であるが、後者はそれと比較される商品と同じ程度に〔価値〕変動を免れない。

アダム・スミスは、他の物の価値の変動を確定するためには、金銀のような可変の媒介物では不適当だということを最も巧みに説明した後で、穀物あるいは労働を選定することによって、みずから金銀に劣らぬほど可変の媒介物を選び出したのである。

 金銀は、より豊かな新鉱山の発見によって、疑いもなく〔価値〕変動を免れない。だが、このような発見はまれであり、またその影響は、強力ではあるけれども、比較的短期間に限られている。金銀はまた、鉱山採掘上の熟練および機械の改良によっても、〔価値〕変動を免れない。というのは、こういう改良の結果、同一量の労働で獲得できる金銀の量が増加するからである。

さらに金銀は、鉱山が幾時代にもわたって世界に供給しつづけた後に、その産出量を逓減することによっても、〔価値〕変動を免れない。だが、果して穀物は、〔価値〕変動をひき起すこれらの源泉のどれかを免れているだろうか。穀物はまた、一方では、農業改良や、農耕に使用される機械や道具の改良によっても、また、他の諸国で耕作にひき入れることのできる新しい肥沃地地帯の発見によっても、〔価値〕変動するのではないだろうか。

他の諸国での肥沃地の発見は、輸入の自由なあらゆる市場における穀物の価値に影響を及ぼすだろう。他方では、穀物の価値は、輸入の禁止によって、人口と富との増加によって、また劣等地の耕作に要する追加労働量のために供給の増加分を獲得することの困難の増大によって、騰貴するのを免れないのではないだろうか。労働の価値も同じく可変なのではないだろうか。

というのは、それは他のすべての物と同じように、社会状態に変化が起る度ごとにきまって起る需要・供給間の比率の変動によって影響されるばかりでなく、労働の賃金の支出対象である食物その他の必需品の価格変動によっても影響されるからである。

 同じ国で、ある時に一定量の食物と必需品とを生産するのに、遠く離れた別の時に必要であったと思われる労働量の二倍が必要になるということがあるかもしれない。だが、そうなっても、労働者の報酬はおそらくほとんど減少しないだろう。もし以前の時期の労働者の賃金が食物および必需品の一定量であったとすれば、その量が減らされたなら、彼はおそらく生存できなくなっただろう。

この場合の食物および必需品は、その生産に必要な労働量で評価すれば、一〇〇パーセント騰貴しているだろうが、それらの物と交換される労働量で測定すれば、その価値はほとんど上昇していないだろう。

 二つまたはそれ以上の国々についても、同じことが言えるだろう。アメリカとポーランドとの、最後に耕作にひき入れられた土地では、ある一定数の人々の一年の労働は、イギリスの同じ事情のもとにある土地においてよりもはるかに多量の穀物を生産するだろう。いま、かりに穀物以外のすべての必需品がこの三国で同等に低廉だとすれば、労働者に与えられる穀物の分量はそれぞれの国での生産の容易さに比例するだろう、と結論しては大きな誤りになるのではないだろうか。

 もし労働者の靴や衣服が機械の改良によって、その生産に現在必要である労働の四分の一で生産できるようになれば、それらの物はおそらく七五パーセント値下りするだろう。だが、労働者がそのために一着の上着または一足の靴の代りに、四着の上着または四足の靴を永続的に消費できるようになるなどということは、とうてい真実ではない。そこで、彼の賃金は間もなく、競争の効果と人口に対する剌激とによって、賃金の支出対象である必需品の新たな価値に適合することになるだろう。

こういう改良が労働者のすべての消費対象にまで及べば、これらの商品の交換価値は、その製造においてこういう改良が行われなかった他のいかなる商品と比較しても、著しく削減されただろうし、また、これらの商品は著しく減少した分量の労働の生産物となったではあろうけれども、しかし、労働者の保有する享楽品は、おそらくわずか二、三年後には、たとえ増加しているとしても、ごくわずかしか増加していない、ということがわかるだろう。

 そうだとすれば、アダム・スミスとともに次のように言うのは、けっして正しくない。「労働が、時にはより多量の財貨を、また時にはより少量の財貨を購買することがあるからといって、変動するのは、それらの財貨の価値なのであって、財貨を購買する労働の価値なのではない。」それゆえ、「労働は、それだけがそれ自身の価値をけっして変動させないのだから、それだけがいつでも、どこでも、あらゆる商品の価値を評価し、比較することができる究極的な真の標準である。」と。

しかし、アダム・スミスが前述していたように、次のように言うのは正しい。「さまざまな物の取得に必要な労働量の間の比率は、それらの物を相互に交換することに対して、なんらかの法則を与えうる唯一の事情であるようである。」と。つまり、言いかえると、それら商品の現在または過去の相対価値を確定するものは、労働が生産する商品の相対的分量なのであって、労働者に対してその労働と交換に与えられる商品の相対的分量なのではない、ということである。

 もしわれわれが、その生産には、現在も、またいかなる時にも、まさに同一量の労働を要するなんらかの一商品を発見できるなら、その商品は不変の価値をもつだろうし、そこで、それは他の物の〔価値〕変動を測定できる標準として大いに役立つだろう。〔だが、〕われわれはそのような商品を全く知らない。

したがって、なんらかの価値標準を選定することができないのである。しかし、われわれが諸商品の相対価値の変動の原因を知るためには、またその原因が作用すると思われる程度を計算できるようにするためには、標準にとって欠かせない性質とはなにか、ということを確定することが、正しい理論に到達するために大いに有益である。
(リカード著「経済学および課税の原理 -上-」岩波文庫 p17-25)

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 経済学が知っている唯一の価値は、商品の価値である。商品とはなにか? 多かれ少なかれ個々ばらばらな私的生産者たちの社会でつくりだされる生産物であり、したがって、さしあたっては私的生産物である。しかし、こうした私的生産物は、自家消費のためにではなく他人が消費するために、つまり、社会的消費のために生産されると、はじめて商品となる。交換を通じて社会的消費にはいりこむのである。

私的生産者たちは、こうして、一つの社会的連関のなかにおり、一つの社会を形成している。だから、彼らの生産物は、各人の私的生産物でありながら、同時に──しかし、そう意図してではなく、いわば不承不承に──社会的生産物でもあるわけである。では、こうした私的生産物の社会的性格とはどういうものか? 明らかに、つぎの二つの性質である。

すなわち、第一に、〈そうした私的生産物は、すべて人間のなにか或る必要=欲求をみたすもので、その生産者にとってだけでなく他人にとっても或る使用価値をもっている〉、ということであり、第二に、〈それは、さまざまな私的労働の生産物であるにもかかわらず、同時に、ずばり人間労働の、一般的人間労働の、生産物である〉、ということである。

こうした生産物は、総じて、他人にとっても使用価値をもっている限りで、交換にはいることができるのであるし、一般的人間労働が、すなわち、人間労働力の単純な支出が、そのすべてに含まれている限りで、それぞれに含まれているこの労働の量に従って交換において互いに比較され、〈等しい〉とか〈等しくない〉とかとされることができるのである。

二つの等しい私的生産物には、社会的諸条件が同一のままであれば──不等の量の私的労働が含まれている場合があるが──いつでもただ等しい量の一般的人間労働しか含まれていない。未熟な鍛冶屋は、熟練した鍛冶屋が蹄鉄を一〇個つくるのと同じ時間に、五個しかつくることができない。しかし、社会は、前者がたまたま未熟だということを価値に変えはしない。

そのときどきの通常の平均的熟練度をもった労働だけを〈一般的人間労働〉と認める。未熟な鍛治屋がつくった五個の蹄鉄の一つは、だから、交換において、熟練した鍛冶屋が等しい労働時間のうちに鍛えた一〇個の蹄鉄の一つよりも多く価値をもっているわけではない。私的労働は、ただ社会的に必要である限りでだけ、一般的人間労働を含んでいるのである。

 だから、私は、〈或る商品にこういう特定の価値がある〉、と言うことによって、つぎのことどもを言っているわけである、−(一)これは、社会的に有用な生産物である、(二)或る私人が私的な勘定で生産したものである、(三)私的労働の生産物であるにもかかわらず、同時に、そして言わば知らず知らずのうちに、あるいは、欲しもしないのに、社会的労働の生産物でもあり、しかも、一つの社会的な仕方でつまり交換を通じて確かめられた一定量の、社会的労働の生産物である、(四)私はこの量を、労働そのもので、つまり、あれこれの労働時間数で言いあらわさずに、もう一つ別の商品で言いあらわす、と。

だから、私が、〈この時計にはこの反物と等しい価値があり、どちらにも五〇マルクの価値がある〉、と言えば、〈時計と反物と貨幣とには、等しい量の社会的労働が含まれている〉、と言っていることになる。

私は、つまり、〈こうした物に表わされている社会的労働時間は、社会的に測られて、等しいことがわかった〉、と確認しているのである。

しかし、それは、普通に労働時間を測るときのように直接に絶対的に労働時間数または日数などなどで測られたわけではなく、回り道をして、交換を仲だちとして、相対的に測られたのである。

だから、私には、この確かめられた労働時間の量を労働時間〔数〕で言いあらわすことができないわけである。労働時間の数は、私にはいつまでもわからないままであって、やはり、回り道をして、相対的に、等しい量の社会的労働時間を表わすもう一つ別の商品で、言いあらわすより仕方がないのである。すなわち、〈この時計には、この反物と等しい価値がある〉、と。
(エンゲルス著「反デューリング論 -下-」新日本出版社 p190-192)

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◎「そうだとすれば、効用は交換価値の尺度ではない。だが、そうはいっても、効用は交換価値にとって絶対に不可欠である。」

「こうした私的生産物は、自家消費のためにではなく他人が消費するために、つまり、社会的消費のために生産されると、はじめて商品となる」と。