学習通信040809
◎戦争……「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と。

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国民を“ほかに道はない”と袋小路に追い込んで、悪政をおしつける

 「二大政党」の動きをみますと、くらしを壊し、平和を壊す悪政をすすめるさいに、「これ以外には方策がない」、「やむをえない選択だ」――こういうふうに、国民をいわば“やむなし論”といいますか、“ほかに道はない”と、袋小路に追い込む政治的キャンペーンをおこなうことと一体にすすめられている。こういう特徴があるのではないでしょうか。

 たとえば、年金改革にかかわって、与党や民主党と議論しますと、かならず持ち出してくる論理は、「高齢化がすすむのだから、負担を増やし、給付を減らすことは、だれがやってもさけられない」。“だれがやっても同じ”論です。

 それから消費税の増税を押しつける論理も、「福祉のためには、ほかに安定した財源が見当たらない。だから、少々つらくても消費税しかないのだ」、こういうものですね。

 さらに、憲法九条の改定を押しつける論理も、「アメリカが日本を守るためにたたかっているときに、日本がアメリカを守らなくていいのか」という、「日米同盟」をあらゆるものに優先させるというものであります。

 このように「アメリカいいなり」、「財界が主役」という古い政治の枠組みを絶対不変とする立場から、この枠組みのなかでの「解決」策しか、「現実」的にはとれないんですよというところに、国民のみなさんを追い込む。そういう袋小路に追い込んで、くらしと平和を破壊する悪政を無理やりのみ込ませる。これが「二大政党」の動きの特質になっていると思います。
(日本共産党創立82周年記念講演会「参議院選挙の結果と今後の国政の課題」志位委員長の講演(大要) 2004年7月23日(金)「しんぶん赤旗」)

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ヘーゲルにおける戦争と平和
 天野和夫(元立命館大学総長)

ヘーゲルの戦争観
 ヘーゲルの戦争観は、当時の一般的な考え方、また今日のそれから見てもきわめて特異である。それは、主要には彼の国家観、そして弁証法の論理にもとづく世界の体系的・包括的把握という方法に起因するものと言えよう。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」。戦争も現実である以上、それは理性によって把握されなければならないのである。彼の戦争観は諸著作の中に断片的に現れているが、それが総括的に述べられているのは『法の哲学』第三部「人倫」の中の「対外主権」以下の各節においてである。そこには、当時の自然法論、なかんずくカントヘの批判的論述が際立っている。

 ヘーゲルの戦争観は、第二次世界大戦中ナチス・ドイツのイデオロギーとしても、また日本の軍国主義的、全体主義的な国家思想においても少なからず援用され、かなりの影響を与えてきた。彼の論述には、確かにそのように受け取られる箇所が多い。

しかし、個々の論述を抜き出すのでなく、まずは全体の論理的展開の中に彼の哲学的思索の跡を読み取ることが必要であろう。同時に、彼の国家観、戦争観を理解するためには、フランス革命、ナポレオン軍のヨーロッパ各国への侵攻と敗退、神聖ローマ帝国の崩壊、また神聖同盟の成立および保守反動体制の復活、そしてヘーゲルが生きた当時のドイツ小邦制における政情など、まさに激動の時代背景を視野に入れておかなければなるまい。

 さて、ヘーゲルによれば、「国家の独立こそ国民の第一の自由であり、最高の名誉である」から、自己の生命や所有をも危険にさらし犠牲に供することによって、国家の独立と主権を維持することが個々人の実体的義務であり、そこに戦争の倫理的契機が存する。

ここでは、国家の究極目的を個人の生命と所有を保障するだけとする常識的な見解、すなわち市民社会的見地は退けられる。個人の生命、所有の保障も、所詮国家の独立が犠牲にされては獲得できないのである。これが、ヘーゲルの戦争観における国家と個々人の関係の基本的なとらえ方になっている。

 すなわち、戦争の意義は、現世の事物という特殊的なものが現実的なものになる契機であること、さらに重要なのは戦争によって諸国民の倫理的健全性が維持されることにある。それは、あたかも「風の運動が海を腐敗から防ぐのと同じであり、永遠平和はいうまでもなく、持続的な平和でさえも諸国民を腐敗させるであろう」と。

これに反して、戦争の結果は民族がただ強くなるだけでなく、国内において反目している国民は対外戦争によって国内の平穏を手に入れるのである。ここには、平和の危険を鋭く指摘することによって、カントの永遠平和論を根底から批判しようとする意図が観取される。そして、カントが戦争の根絶のために提案した国際連合に関しても、国家は個体であって、それには否定の働きが含まれているのだから、この結合体は必ずやおのれの対立物を作り出し、敵を産み出すに違いないと言う。

 そして「国家としての民族は、実体的に理性的であるとともに直接的に現実的な精神であり、したがって地上における絶対的威力である」。だから、国家は互いに他に対して主権的に独立しているのであり、またこうした国家の存立にとっては、他の国家によって承認されていることが絶対的条件である。

そこで、国家間の争いは、それぞれの国家の特殊意思が合意を見出さない限り、戦争によって解決するほかはないのである。ここに戦争の必然性がある。すなわち、国際法の規定は、これを現実化する権力が存在しないがゆえに、どこまでも当為たるにとどまり、また国家間には法務官は存在せず、たかだか仲裁者か調停者がいるだけだからである。

 概略右のようなヘーゲルの戦争観に対しては、これまで内外の学者によって様々な論評や批判が行われてきた。その最大のものは、何と言っても彼の論述が戦争の美化、正当化につながったというイデオロギー的批判であろう。しかしまた、一方で国家を倫理的理念の現実性であり、絶対的威力であるとしながら、他方でその存立に相互承認という前提条件を付けていることの矛盾などを突く内在的批判も行われてきた。

さらに、戦争は人道的に行われるという楽天的な戦争観にも非難の矛先が向けられよう。だが、もっとも根本的な批判は、『法の哲学』における市民社会から国家へという体系的序列の展開に関するものである。ヘーゲルによれば、市民社会は国家に揚棄され、「諸個人が客観性、真理性、倫理性をもつのは、かれが国家の一員である時だけ」とされるが、このような市民社会に対する国家の絶対的優位を説く国家観こそ揚棄されなければなるまい。

平和の地平

 戦争についてのヘーゲルの論述は、われわれの脳裏にきわめて強烈な印象を与える。しかし、彼は戦時においても国家間の絆が残されており、平和の可能性が維持されていると説く。しかも戦時において捕虜の取扱いなど国家が相互に関係する態度、また平時において国家が私的交渉のための権利を他国の国民にも保障しているところを見ると、そこには共通する諸国民の習俗があると言う。すなわち「ヨ一ロッパ諸国民は、立法、習俗、教養の一般的原理に従って一つの家族をなしている」。だが、これはまだ一時的な戦争から平和の可能性へのプレリュードに過ぎない。

 理性が現実的なものとなるのは、国家の特殊性、民族精神の特殊性が揚棄され、普遍的精神、すなわち世界精神が出現する世界史の圏においてである。「世界史は世界審判である」。そこでは、世界精神がおのれの法を至高の法として各民族精神に対して執行する。世界史が審判であるのは、その普遍性の中では特殊的なもの、すなわち諸民族精神はただ観念的なものに過ぎないからである。

しかも世界史は普遍的精神による単なる審判ではなく、理性の諸契機の必然的発展であり、普遍的精神の現実化にほかならない。ヘーゲルにおいて、ここに真の平和の地平が切り開かれるはずであった。しかし、世界精神の発展段階の担い手である支配的民族について、彼は東洋的、ギリシア的、ローマ的、ゲルマン的の四つの治世を区分し、この最後の段階において「客観的真理と自由との宥和」があるとしたが、そこにはなお平和へ到達する具体的な道筋は描かれていない。
(田畑忍編著「近代世界の平和思想」ミネルヴァ書房 p63-66)

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夾竹桃のうた

【作詞】 藤本 洋
【作曲】 大西 進

1.
夏に咲く花 夾竹桃
戦争終えた その日から
母と子供の おもいをこめて
広島の 野にもえている
空に太陽が 輝くかぎり
告げよう世界に 原爆反対を

2.
夏に咲く花 夾竹桃
武器をすてた あの日から
若者たちの 願いにみちて
長崎の丘に もえている
空に太陽が 輝くかぎり
告げよう世界に 原爆反対を

3.
夏に咲く花 夾竹桃
祖国の胸に 沖縄を
日本の夜明け 告げる日を
むかえるために もえている
空に太陽が 輝くかぎり
告げよう平和と 独立を

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「国民をいわば“やむなし論”といいますか、“ほかに道はない”と、袋小路に追い込む政治的キャンペーンをおこなうことと一体にすすめられている」……。