学習通信040812
◎「公平無私の道徳というものは絶対に存在するものではない」……。

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第二章 道徳の階級性

公平無私の道徳というものは絶対に存在するものではない。一握りの権力者の利益追求の道具、それが既成道徳の本当の姿だ。

道徳は利害をこえたものでなければならないという考え方 

 道徳の階級性というようなことをいうと、それはいかにも一方に偏した物の見方でもあるかのように感ずる人がまだ少なくないかもしれません。私自身も何十年という長い間このような考え方を極力否定してきたものの一人で、階級的な道徳などというものは真の道徳ではなく、真の道徳というものは全人類にとって普遍的なものでなければならないと考えて疑いませんでした。

しかしその底には道徳というものを人間の生活関係からひきはなし、道徳とは生活の利害を超越したものでなければならない。利害によってうごくようなものは商業的取引の道具にすぎず、道徳の名にすら値しない。われわれの道徳的行為というものは、どこまでもこのような物質的利害をこえて純粋に良心の命令にしたがって正義と人道をまもる立場に立つものでなければならない。

それどころか、われわれはばあいによってはおのが生命の全体をさえもそれにささげるほどの覚悟をもつのでなければならない。そこに他の何ものをもってしてもかえることのできない道徳の無上の価値がある。人格の尊厳とか畏敬の感情とかいうものもそこからおこってくるのであると──このように考えていたのであります。

 たしかに道徳にはわれわれの個人的利害をこえた面がふくまれていないわけではありません。最近はわれわれの間にプロレタリア・モラルとか革命的道徳とかいうようなことがいわれていますが、たとえこのような新しいモラルであっても、そういう面が含まれていないわけではありません。現にいままででも、数多くのすぐれた良心をもった人たちが、人類の未来、働くもののしあわせのために、あらゆる誘惑にもとらわれず、困難にもたじろがず、自己一身の利害をのりこえて身をささげてきているのであります。

そして私たち自身も進歩的陣営の中で行動するとき、最悪のばあいを覚悟することなしに甘いことばかり考えていると、ほんとうに大切なときになって動揺したり、目さきの利害のために同志をうらぎったり、敵側の誘惑や弾圧にまけて日和見主義者におちいったりする危険が少なくないのであります。だから道徳と個人的な利害とはけっして同一視されてはならず、そこにはいつも一身の利害をこえて法にしたがうという厳粛な面がふくまれていなければならないのであります。

区別を知って関係をわすれることのあやまち

 けれどもそうであるからといって、道徳というものを人間の生活関係から全くきりはなしてしまうということは、観念論者がいつもおちいるところの重大なあやまちであるといわなくてはなりません。分析論理の立場に立ってものを考える人は、いつも、他とのかかわりあいの中で運動し発展し変化してやまない社会的歴史的存在の全体から、その相互作用的な生きた関連性をすて去り、一つ一つのものを他から区別して、他と無関係に、自己自身の中に存在の原因と本質とをもつ実体としてこれを固定化して考えるのが常であります。

 Aは非Aではなく、非AはAではない、プラスはマイナスではなく、マイナスはプラスではない、こういうふうにわり切ってしまうのでありますが、われわれの現実はけっしてそのような単純なものではなく、すべてのものがたがいにかかわりあっており、ただ区別しひきはなしただけでその生きたすがたがつかめるようなものではありません。昼のないところに夜はなく、夜のないところに昼はありません。昼を成り立たせるところのものが夜をも成り立たせているのであります。

善のあるところ、そこに悪があり、悪があるがゆえに善が善とよばれるのであります。道徳は生活の利害をこえたものでなければならないといいますけれども、このこえるということそれ自身の中にすでに生活の利害への関係がふくまれており、それをはなれて道徳か成り立たないことを示しております。

道徳は人間の社会生活の利害と深く結びついている

 道徳関係というものはそれ自身単なる利害関係ではありませんけれども、そうであるからといってわれわれの生活に縁のない天上や真空の中でのことがらではありません。個人の利害をこえるということは、実はもっと大きな社会の利益、人類の利益とむすびついているとき意味があるのであります。私たちはいま民族の独立のため、平和と民主主義のためにたたかっていますけれども、これらのことはいずれも国民の利益、人類の幸福と深くむすびついております。

どんな厳粛主義、禁欲主義の道徳をとく人でも、道義のためには人類の全体がどんな不幸に陥ってもかまわない、などと考えるものはいないでしょう。それは人類の幸福ということが道徳の内容として、道徳からひきはなすことのできない要素になっているからです。

今日ほど戦争の危機がせまっているのに、平和の問題に対して何ひとつしようとしないような道徳家、われわれの民族の独立がおびやかされて、軍事的にも政治的にも経済的にも文化的にもアメリカ帝国主義への従属性がかくも明らかとなっている。そのために国民の生活がこの上もなく不安となり、失業やインフレや税金高その他のためにくるしめられているというのに、そんなことは物質的利害にかかわることであって、真の道徳とは関係のないことだ、道徳はもっと精神的な純粋なものでなければならないなどというような道徳家──もしそのような道徳家があったとしたら、これに対して私たちは何というべきでありましょうか?

道徳を生活からきりはなすのは小ブルジョアの思想である

 ですからわれわれの歴史の世界の中で、現実的な生命をもつものとして動きはたらき作用している道徳というものは、はじめからおわりまでけっして生活関係から無縁なものではありません。したがって生活関係がちがうと道徳もまたちがってこないわけにはいかないのであります。

 カントなどは道徳の純潔性ということをまもるために一切の物質的な欲望を非道徳的なものとしてしりぞけ、道徳を「純粋意志」とか「実践理性」とかいうような観念をもとにして考えようとしましたけれども、物質的基礎のないところには人間の生活そのものが成り立たないのでありますから、このような観念論でわれわれの生きた生活をつかむことができないのは当然であります。

こんなことは貧乏と失業の不安になやみ、一年じゅう低賃金のためにくるしんでいる労働者ならだれでもわかりすぎるほどわかっています。だから観念論はいつも生活の問題にいくらかゆとりのあるプチブル階級以上の思想にすぎないのであります。いくら働いても貧乏で生活の不安になやまされている大衆にとっては、生活に無縁な道徳などというものは現実の道徳ではありえないのであります。

時代による道徳の変化

 このようにして生きた道徳というものは、われわれの社会的生活関係の中にあってこれとひきはなしがたく結びついたものでありますから、その生活関係がちがってくると、道徳もまたちがってくるものとなるのは当然のことであります。したがってすべての道徳はけっして観念論者がいうような永遠不変のものでもなければ絶対に固定したものでもありません。時代のちがい民族のちがい、階級のちがい等それぞれの生活関係のちがいに応じてそれぞれちがった道徳が生まれてくるのであります。

同じく日本といっても今から数百年の昔、織田信長や豊臣秀吉などが天下をとっていた時代の日本と、私の少年時代の日清日露の戦争をやっていた時代の日本と、今日のテレビや映画が流行し、ジャズやボクシングなどが青年をとらえている時代の日本とでは、それぞれ全くちがった生活環境がつくられています。もし鎌倉時代や徳川時代の道徳をだれか今の日本の中でそのまま持ちつづけて生きている人があるとしたら、それはまことにこっけいなことになるでありましょう。

 私の青少年時代には天皇制という社会関係の下におかれていたので、「教育勅語」というものが日本国民にとって道徳の最高の基準とされて、全国の小学校でも中学校でも、これが日本の教育をつらぬく第一の原理とされていたのですが、今の青少年たちがこれをよんだら何と感ずるでありましょうか? しかもわれわれの歴史はこれでおわってしまったのではなく、これから十年たち二十年たつとまたさらに新しいモラルがあらわれて今日のわれわれのモラルを古くさいものにしてゆくでありましょう。道徳が時代によってちがうのは彼らの社会生活が歴史的に不断にうつっており同一の状況にとどまらないからであります。

資本主義には資本主義のモラルがある

 今日われわれは資本主義の時代に生きているので、この生活関係がわれわれの道徳意識にまでおよんで、ブルジョア道徳というものが人間一般のモラル、人類永遠の道徳でもあるかのようにせんでんされて、それによって「人づくり」をするなどといわれていますが、現在では資本主義のほかにさらに新しい社会関係として、社会主義というものが生まれはじめており、しかもそれが年々すばらしい力でのび、発展して、資本主義を圧倒するような力をもってきており、そこにはわれわれの社会のモラルとはちがった新しいモラルが生まれてきているのであります。

それなら現代のわれわれがその中に生きている資本主義社会のモラルというのはそもそもどんな特徴をもっているでありましょうか。

資本家と労働者との利害の矛盾

 ここでわれわれが忘れてならないことは、資本主義社会というのは昔の封建主義の社会と同じように一つの階級社会であるということであります。すべての階級社会にあっては、その中にすむ人々の階級的所属がちがうと、生活の利害関係もまたけっして同一であることができないのであります。資本主義社会の中にもいろいろな階層があり、これに応じてそれぞれちがった利害関係というものが生まれてきているのでありますが、その中でも資本家と労働者という二つの階級がこの社会の基本的な相対立する階級となっています。

この二つの階級はもともとどんなに仲がわるいにしても、どうしても相わかれることのできない密接不離な関係をもっております。資本家は労働者を使用することなしに資本の目的(=利潤)を実現することはできませんし、労働者は自己のもっている唯一の財産であるところの労働力を資本家に売りわたして賃金をうる以外に生きることができません。資本主義世界の中ではその社会的存在の構造的必然によって、これほど互いにひきはなしがたく深く結びついた密接不離な関係というものは他にないといってもよいでありましょう。

 ところがこのいちばん親密な切ってもきれない関係にある資本家と労働者が、その利害において和解すべからざる矛盾をもっているのであります。しかもその最初から最後にいたるまで、資本主義が資本主義であるかぎり永久に解決することができないというような徹底的な矛盾をもっているのであります。現に資本主義の下で資本と労働のたたかいのないところはありません。しかも資本主義が発展すればするほどこのたたかいはいよいよはげしくなってきております。
(柳田謙十郎著作集第8巻「人生論」創文社 p425-430)

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道徳と哲学

 マルクスはプルードンを「矛盾の化身」として特徴づけた。この評価は、トルストイにたいするレーニソの特徴づけを思いださせる。しかし、プルードンは芸術家として活動したわけではなかった。彼が哲学者として登場したかぎり、マルクスが彼に投げつけた言葉は「哲学の貧困」というのであった。

 プルードンは、社会主義の説教者としてあらわれた。プルードンにおける「哲学の貧困」は、この面では彼に何をもたらしたか。マルクスは「矛盾の化身」としてあらわれるのが小ブルジョアー般の特徴であることを指摘しながら、つぎのようにのべている。

「彼〔小ブルジョア〕は矛盾の化身です。もし彼が、そのうえブルードンのように才気のある人間であれば、じきに彼自身の矛盾をもてあそぶことをおぼえ、そのときどきの事情しだいで、あるいはめざましい、あるいはそうぞうしい、ときにはいまわしい、ときには輝かしい逆説に、それをしたてあげるでしょう。

科学におけるほらふきと政治における日和見とは、こういう立場とは切っても切れないものです。残されている動機はただ一つ、当の人物の虚栄心だけです。そして、すべて虚栄家の場合にそうであるように、目先の成功、つかのまの評判だけがかんじんなのです。こうして、単純な道徳的節度は当然に消えうせてしまいます」

 すなわち、哲学の貧困は道徳における節操の貧困につながる、ということである。「道徳的な節操」と「認識の首尾一貫、認識の節操」とは一体のものだ、と戸坂潤も書いている。「科学的認識の上での論理の欠乏は、道徳意識の上での節操の欠乏に対応する」と。

 そうならざるをえないのである。なぜなら、哲学は世界観であり、そして「もともと世界観というものは、そのひろがりからみれば、この世界にぞくするすべてのものについての見かたである」のだから、それは「たとえば恋愛観や結婚観や女性観、それから教育観や宗教観や芸術観、さらにまた国家観や戦争観や歴史観や自然観など」をその内容としてふくむことになるのだが、これらの「……観」相互のあいだに首尾一貫性が欠けている場合、

たとえば政治観、社会観一般においては民主主義的でありながら、異性観、恋愛観、結婚観、家庭観(あるいは「観」以前の生活スタイル)においては非民主主義的であったり、あるいは異性観、恋愛観、結婚観、家庭観等々において一般論としては十分に民主主義的でありながら、具体的な自分の恋人観、夫観、妻観、子供観等々となるとすこぶる非民主主義的であったり、といった場合、とりもなおさずそれは道徳的な首尾一貫性の欠如ということにほかならないからだ。

 このように、世界観における首尾一貫性の欠如と道徳的な首尾一貫性の欠如とは表裏一体の関係にある。倫理学が伝統的に哲学の重要な一領域、一側面としての地位をしめてきたゆえんである。
(高田求著「人間の未来への哲学」青木現代叢書 p8-10)

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 プルードンは天性からして弁証法にむいていました。しかし、真に科学的な弁証法をついに把握しなかったため、たんなる能弁家に終わってしまったのです。じっさい、このことは彼の小ブルジョア的な立場と関係がありました。小ブルジョアというものは、歴史家ラウマーと同じように、一方では、と。

他方では、とからなりたっています。その経済上の利害がそうであり、したがって、その政治も、その宗教上、科学上、芸術上の見解も、そうです。その道徳もそうなら、すべての点でそうです。彼は矛盾の化身です。

もし彼が、そのうえプルードンのように才気のある人間であれば、じきに彼自身の矛盾をもてあそぶことをおぼえ、そのときの事情しだいで、あるいはめざましい、あるいはそうぞうしい、ときにはいまわしい、ときには輝かしい逆説に、それを仕立てあげるでしょう。

科学におけるほらふきと政治における日和見とは、こういう立場とは切っても切れないものです。残されている動機はただ一つ、当の人物の虚栄心だけです。そして、すべて虚栄家の場合にそうであるように、目先の成功、つかのまの評判だけが肝心なのです。こうして、単純な道徳的節度は当然に消えうせてしまいます。そして、たとえばルソーのような人が、つねに現存の権力との外見上の妥協をさえいっさい避けたのは、この道徳的節度のおかげだったのです。
(マルクス・エンゲルス全集第16巻「P・J・プルードンについて」大月書店 p30)

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◎「世界観における首尾一貫性の欠如と道徳的な首尾一貫性の欠如とは表裏一体の関係にある」と。

みなさんはいかがでしょう。プルードンと同じですか。学習通信2004.08.02 も合わせて深めて下さい。