学習通信040817
◎絶対という思想=c…。

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新しいという言葉

そのほんとうの意味
 新しい芸術について語り、芸術は、つねに新しくなければならないと主張するまえに、「新しいということは、何か」という問題をはっきりさせたいと思います。

 まず、新しいという言葉そのものについて、考えてみましょう。意外にも、大きな問題をふくんでいます。だいいち、この言葉の使い方に、混乱が見られるのです。たとえば、新しいということは、無条件に清純で、ちょうど酸素のように、それがあって、はじめて生きがいをおぼえるような、明かるい希望にみちたものです。

 ところで、また、これが逆によくない意味で使われることがあるのは、ご存じのとおりです。つまり、また無条件に、なまっちょろくて未熟、確固としたものがない、軽佻浮薄(けいちょうふはく)の代名詞にもなるのです。

 おなじ言葉に、このような二つの相があり、反対の価値づけをされています。一方にとって強烈な魅力であり、絶対的であればあるほど、それだけまた一方には、対極的に反発し、悪意をもつ気配も強いのです。これが抽象語におわっているあいだは問題はないのですが、いったん社会語として、新旧の世代によって対立的に使い分けをされはじめると、思いのほか深刻な意味あいをふくんできます。いったい、どういうわけで、どんなぐあいにこの対立が出てくるか、見きわめる必要があります。

 新しさをほこり、大きな魅力として押しだしてくるのは、それを決意するわかい世代であり、このもりあがりにたいして、古い権威は、既成のモラルによって批判し、遮断しようとするのです。

 もちろん、今の権威も、かつてはそれ以前の権威を否定して出てきた新しいものだったのです。つまり、つねに若い世代は古い権威を打ち倒し、それにとって代わろうとする。古い側はおのれを守るために、この伸びてくる新しいものを危険視し、押しつぶそうとするのです。たとえ、そのような敵意を意識していないとしても、おたがいの無理解は運命的です。

 若さが、あまえて、ふわふわしているあいだはいい。しかし、ほんとうに何かやろうとしたり、自分の考え、仕事をぶつけていこうとすると、意外に、かならず強い抵抗にぶつかります。その壁はあつい。

 若者の情熱は新しい夢にむかって燃えあがります。それが筋のとおったことであり、十分実力があったとしても、今までなかったこと、新しいことであるという理由で、なかなか通用しない。「青二才の夢」だとか、理想論だとか、かたづけられてしまいます。

 「なまだ」とか、「いい男だが、若いよ」なんて、まるで恥ずべきことのように言われる。それでも断固として主張し、ひるまずぶつかっていけば、「若いくせに生意気だ」と頭からどなりつけられるくらいがオチでしょう。

 このようにいつでも判断の対立があり、そのぶつかりあいの中でこそ、新しい価値が創造されるのです。歴史的に、どっちの側によけいにパワーがかかっているかによって、時代の起伏がわかります。

 世の中が新鮮で動的な時代には、新しさが輝かしい魅力として受けいれられ、若さが希望的にクローズアップされます。しかし反対に、動かない、よどんだ時代には、古い権威側はかさにかかって新しいものをおさえつけ、自分たちの陣営を固めようとします。

 たとえば、われわれの身辺をふりかえってみても、この運命的な攻防ははっきりと見てとれるのです。

 戦争直後の日本は、重い過去のカラから脱皮して、生まれかわったように、若々しく、新しい文化をうちたて、世界にのり出していくように見えました。すべてのものが動揺し、混乱し、模索し、しかしそこからなにか新しいヴァイタリティーがのびていくような希望が燃えていた。激動する時代の生気です。

 だがそのうちに、安定ムードがひろがり、古い秩序がふたたび力をもりかえしてきました。

 若い世代は自信を失います。パチンコやマージャンにうつつをぬかしたり、バカンスムードに流されたりしているのも、自分たちは気がついていないにしても、抑えられて鬱屈したものの、虚無的で非生産的な発散なのです。どうせ、何をやったって、たいしたことはない、世の中はなるようになるんだ。オレたちにはカンケイない、という気分です。

 世の中は沈滞し、惰性がカビのように一般的なモラルを支配しています。新しい世代が牙をとぐことを忘れて小利口になり、いっぽう、古色をおびた権威側も、奇妙に安心して、いちおうものわかりよさそうに、ニコニコ顔でアグラをかいている。どうも、やりきれない気分です。若さの恥辱と、年寄りの不潔。

 本質的な権威でないからこそ、とことんまで対決しようとはしない。ムキになるよりも、なるべくなら馴れあってという戦術なのです。

 この気分にそって、若い世代がまた適当にいい子になり、権威側の枠に順応して、その中でうまくやろうとする。断絶しないで、順番を持って、いずれその座につこうとしているのです。

 先日、東京大学法学部の学生たち、つまり現代のエリートを対象とした世論調査の結果が発表されました。まことに優等生。ちんまりと小市民的な生活の中に安定して、危険のすくない、実現可能な幸福を手に入れたいという、年寄りのような精神があらわれていました。尊敬する人物が、シュヴァイツァー、リンカーン、父母なんて、だいたいそんな順序です。小、中学生の答案みたい。これなら無難で、文句のつけようがない。就職試験には都合がいいかもしれませんが、青年の精神の振幅はそんな中におさまるのでしょうか。

 たしかに実社会、ことに役所とか会社というような組織の中では、処世術としてもモラルとしても、そうなってしまうのは、ある程度やむをえないことかもしれません。しかし、真に人間的な本質まで見失っては生きるかいがない。

 新しい側も古いほうも、お互いに、はっきりとした、透明な、必死な対立はごまかし、狡猾なやり方で問題をそらしています。結果としての空虚感はどうにもなりません。

 芸術の世界にもこの気分はひろがっています。だから、おていさいのいいものはあるが、ほんとうに思いつめたような、激しく独自なものはうちでてこないのです。このように、古い世代が巧妙に権力を保持し、若いものがスポイルされている文化には希望はもてません。

 新しい世代は聡明にこのメカニズムを見とおし、理屈にあわない惰性的な習慣をくつがえし、若さと生きがいを、誇らかに歌いあげなければなりません。文化における新旧の無慈悲な対立こそ、歴史を進め動かしてきたことを思うべきです。
(岡本太郎著「今日の芸術」知恵の森文庫 p48-53)

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「絶対という思想を憎む」ということ

 忘れることのできない歌があります。

右翼の父もちて迷いしことあれば
絶対という思想を憎む
(木本幸子、赤旗編集局一九七九年度文芸作品短歌の部、選外佳作)

 右翼がどのように「絶対という思想」を説いていたか、戦時中におけるその見本を紹介しておきましょう。

「天皇は神なり。生きたもう神なり。万世一系にして天壌無窮。大中至正にして無上絶対」

「天皇ありてわれあり。……絶対なり、不動なり、帰依なり、帰命なり、南無なり、法悦なり。生くるも 天皇のため、死するも 天皇のため」

「天津日嗣天皇を奉じ、以て万有を修理固成し、全世界を光華明彩ならしむる、これわが神国本来の大使命なり。この使命や絶対にして、これを離れて日本なく日本人なし。これを賛するものは即ち真善美。これを害するものは即ち偽悪醜」

「吾々の勤皇は功利的・相対的・偶然的な勤皇ではない。絶対であり、無二無三であり、やむにやまれざるに出づるものである。日本人として当然至極のことをやろうとするものである」
(影山正治『維新者の信条』一九四二年)

 「絶対」とは、ひらたくいえば無条件、文句なし、ということです。「絶対という思想」をこのようにふりかざして人に迫るのは、りくつはいわさぬぞ、ということです。りくつぬきに天皇を神とし、「生くるも天皇のため、死するも天皇のため」と心得ろ、ということです。この「絶対なる国体信仰」に異議をとなえるものがあるとすれば、「かくの如きことは、何よりも日本人の血が許さぬ。真情が許さぬ。魂が許さぬ」とたたみかけてくるのです。

「たとえ頭はうなづいても血が承知しない。たとえ心は傾いても血が承知しない」(同)とも。これを神がかりといわばいえ。「吾々は神がかりであることを自ら誇りとする」(同)とも断言されています。

 中世ヨーロッパのキリスト教も、これと似かよった「絶対という思想」をふりかざしていたということ、そして近代のヒューマニズムはこれにたいするたたかいのなかからスタートしたのだということは、すでに述べたとおりです。ヒューマニズムの積荷目録は、「絶対という思想を憎む」ということを本質的なものとしてそのなかにふくんでいる、といえるでしょう。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友 p46-47)

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◎「たとえば、新しいということは、無条件に清純で、ちょうど酸素のように、それがあって、はじめて生きがいをおぼえるような、明かるい希望にみちたものです。」と。