学習通信040821
◎ヒューマニズムとは何か、……それは「人間くささを大切に」……と。

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一ロにいってヒューマニズムとは

 何事も「一口でいってみろ」といわれると、たいへんむずかしいものです。たぶんそれは、どんな物事もいろいろと入り組んだ複雑な要素をもっていて、それをあえて一口でいおうとすると、どうしてもそこからこぼれるものが出てくるためでしょう。

 「ヒューマニズム」ということばなどは、とりわけそうだと思います。一口ではいいきれないものだからこそ、それについてこのように一冊の本を書くことが求められもするのでしょう。

 それでも、「あえて一口でいえばそれはどういうことか」と問うてみることは、何事につけ大切なことだ、と私は思っています。たとえば、ネコだって、耳もあればヒゲもあり尻尾もあり、いろいろと複雑ですが、背くびのところをつかんでもちあげれば、生きたままの全体をそっくりもちあげることができます。耳や尻尾をつかんでひきあげようとしても、そうはいきませんね。

 「一口でいってみる」ということは、つまり物事の「背くび」をとらえようとつとめる、ということです。「かんどころをおさえる」といってもいいでしょう。

 というわけで、ヒューマニズムとは何か、あえて一口でいってみると──どういったらいいのでしょうか?

 「ヒューマニズム」ということばは、もう日本語になりきっているみたいですが、もとは英語で、直訳すれば「人間主義」ということになるのでしょう。でも、これだけではヨコのものをタテにおきかえただけです。「ナウい」とはつまり「イマい」だよ、というようなもので、説明にはなりません。

 ヒューマニズムとは何か、一口でいってみろ、といわれたら、それは「人間くささを大切に」ということだ、と私はさしあたり答えたいと思います。

人間らしさと人間くささ

 「人間くささを……」というかわりに「人間らしくあることを……」とか「人間らしさを……」といってもいいと思いますし、じきにそういういいかたも場所に応じて並用していきたいと思っていますが、あえてまず「人間くささ」という表現をえらんだのには理由があります。

 それは、「人間らしく」とか「人間らしさ」とかいうと、何かとりすました感じがして反発を感じるという人に、しばしばぶつかったことがあるからです。たぶんそれは「人間らしく」とか「人間らしさ」とかいうと、ともすれば人間のあるべき姿というか、その理想像のほうにもっぱら焦点がおかれるような感じがしてくるためでしょう。現実の人間は、そんな理想像からはおおいにへだたっていて、はみだすところだらけ、足りないところだらけ、そこが視野から切りすてられているみたいで、そんな高いところからのお説教はまっぴらだ、ということでしょうか。

 この反発は、とても人間くさい反発だ、と思います。「人間くさい反発」といいましたが、「人間くさい」とか「人間くささ」とかいうことばには、人間の現実の弱さや、おろかさや、みにくさも、目いっぱい視野に入れられてくる感じがあります。そしてこのことは、ヒューマニズムというもののかんどころにかかわる重要な事柄につながっている、と思うのです。

 というのは、ヒューマニズムというものは、けっして現実ばなれのした、とりすましたお説教などではないからです。そもそも、そういうお説教のたぐいに反発するところから生まれてきたというのが、すぐあどで紹介するように、このヒューマニズムということばの歴史的な成立事情だったのですから。

 現実の人間、生身の人間、それがヒューマニズムの土俵なのです。現実の人間、生身の人間、そこには弱さや、おろかさや、みにくさもいっぱいあります。同時に、それだけでもありませんね。いろんな弱さや、おろかさや、みにくさにまといつかれながらも、花を愛し、キャンプ・ファイヤに夢中になり、不当なしうちにはいきどおり──これも人間の現実の姿であり、人間の人間くさいところです。そういう人間の現実の姿全体をしっかりふまえるということ──それがヒューマニズムの出発点です。

 『どん底』の作者ゴリキーが書いています−「人間は、そのあらゆるみぐるしさにもかかわらず、地上最高のものである」と。私はこれを、ゴリキーの「ヒューマニズム宣言」と呼びたいと思います。

 「寅さんは、そのあらゆるおろかさにもかかわらず……」とこれをいいかえてみれば、この「ヒューマニズム宣言」の意味がいっそう身近に具体的にイメージにとらえられるかもしれません。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p8-11)

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『資本論』は「人間」をどうみているか

 さて『資本論』での「人間」ですが、まず商品の分析のところでは、すべての人格は商品生産者とか貨幣所持者として位置づけられています。第四章いごでは、貨幣所侍者は資本家に転化し、その資本家は資本そのものの人格化としてあつかわれ、労働者は労働力の担い手、その売り手として位置づけられています。

 叙述がすすむにしたがって、それは剰余価値のみなもと、搾取材料ということになっていきます。労働日をあつかう第八章では、フルタイマーとハーフタイマー(今日のパートタイマー)という資本による区別をとらえて、マルクスは労働者は「人格化された労働時間」にされているのだとしています。

 相対的剰余価値の分析にすすむと、労働者の協業──「社会的労働者として展開する生産力」は「資本の生産力」であるとされています。分業による協業で問題になる、労働者の部分労働者への転化のところでは、人間は「彼自身の身体の単なる一片である」という引用がでてきます。「一人の人間を細分するとは……彼を暗殺することである」という、もう一つの引用が、それにつづいています。自動車部門の大工場で働いて自覚に達し、日本共産党の地区委員長の責につくことになった人は、『資本論』第二一章のこのような分析をよんで、最大限ともうけとれる反応と共感をしめしました。

 機械設備のもとでは、労働者は機構の「生きた付属物」として合体されるということになっています。この規定はさらに展開されて、蓄積過程において「社会的観点からみれば、労働者階級は……資本の付属物である」ということで、いわばきわめつけになっています。

 このような規定の展開と深まりを追うにつれて、マルクスは古い、『資本論』は古いというたぐいの職場での思想攻撃や反共風潮とたたかう力が、体内からわきあがるようにして、つくりだされてくるのではないでしょうか。

いま「人間らしく」ということの意味はなにか

 人間はいつの時代でも社会をつくり、その社会のなかでの位置づけ地位、階級、役割などをうけて生きるということになっています。問題がおきるのは、その社会的存在からのこととしてです。

 たとえば賃金が妥当でないとして問題になるのは、労働力商品の価値としてのことです。人間一般のこととしてではありません。いきなり人間一般を問題にするなら、労働者がうけとるものの大きさと比べての、雇い主をふくむ有産者の階級の収入との、あまりにも大きい不当な格差とか、働くものが働くための手段からきりはなされていること自体とか、働くことなく搾取と遊惰で生きるものの存在そのものとかというような、はるかに根源的なことを、とりあげなくてはならないでしょう。

しかもそれらが解決されるとしても、それで人間としてのあり方が、ただちに確立されるというわけではありません。人間の必然性からの解放と「自由の王国」の到来は、はるかに先のことになっています(『資本論』第三巻、第四八章、一四三四〜五ページ)。現実の賃金要求は、はるかに、あるいは極めて「目の前のこと」的です。たとえばまた労働時間の短縮要求もまた同じことでしょう。それはあくまでも、やとわれて働くことで生きていくという、そのわくの中での、そこでおきるギリギリのこととしてだされていることです。

本当に人間らしく生きようとするなら、少なくとも毎日毎日を資本家、あるいはその代理者にやとわれて、その拘束と専制と横暴のもとに働くというようなことから、自らを解放しなくてはならないでしょう。労働時間の長さ程度のことを問題にするのは、決して真に、あるいは十分に人間らしいこととはいえないでしょう。それは、余儀なくされた一つの矯小化ともいえることでしょう。

 それでは、いま、この国でわたしたちが「人間らしく生き、働くために」というようなことを口にして、たとえば賃金の不当な差別やレベルを問題にし、労働時間の短縮を要求する、「ヒューマン・ライフ」「人間生き生き」を求めて、団結力を行使するというようなことになっているのは、どういうことなのでしょうか。

 それは人間が余儀なく資本の「とりこ」にされて、賃金労働者としての社会的規定をうけて、利潤追求の犠牲にされる、生きることそのものを危うくされる、つまり人間的存在を深く広く、生存そのものにまでいたって否定される、そのことにたいする人間としての当然の反発が、目の前にある形をつかって、つまり賃金の改善や労働時間の短縮という形に依存して、人間的欲求をつらぬこうとするということになっているのでしょう。

 ついでのことになりますが、社会生活とか、あるいは社会科学にあって、「人間」という概念を、具体的なあり方の分析を欠いたままで、つかうことは、目の前の問題の具体的な追求や分析から遊離したり、あるいは歴史をとびこえようとする空想性のあらわれであったりすることとむすびつくこととして、不用意な使用をはばかられるというふうに、従来はなっていました。

 その言葉や概念が真の意味で妥当性をもつことができるのは、資本主義的搾取を廃止することをとおして、搾取一般からも人類を解放してしまう方向へすすもうとする、さらにそこから「自由の王国」にまでいたろうとする、共産主義者の広大な展望と運動のなかでのことになっていました。いまこの国の共産主義運動で「人間らしさ」が問題になっているのは、そこにこそ本質的でリアルで、真にふさわしいこととして、うけとめられ、追求されているといえるように、わたしは思っているのですが。

 わたしたちのまわりに、「人間らしさ」を追い求めるうごきをそらせるために、「人間らしさ」という表現をつかって、労働者の資本への従属のふかまりを受容させようとする、一つの「言葉の氾濫」がありますので、一言ふれてみた次第です。
(吉井清文著「どうやって「資本論」を読んでいくか」清風堂書店 p189-194)

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◎「「人間らしさ」という表現をつかって、労働者の資本への従属のふかまりを受容させようとする」……と。個性、自立……の扱いも……。