学習通信040822
◎「彼ら夫婦を結んでいるまじり気のない科学的精神」……。

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 マリー・キュリーの生涯は波乱をきわめ、多くのエピソードに富んでいるので、なにか伝説でも語るように彼女の一生を語りたい気持ちにかられる。

 彼女は女性であった。彼女は被圧迫国民のひとりであった。彼女は貧しかった。彼女は美しかった。

 さかんな天分は、彼女をして祖国ポーランドを去って、パリに研究にいかせた。ここで彼女は孤独と難儀の幾年かを過ごした。

 彼女は彼女と同じように天才をいだいたひとりの男に出会った。彼女はその男と結婚した。ふたりの幸福は世に比類のない質のものであった。

 熱烈をきわめた努力、そして砂をかむような無味乾燥な努力の結果、キュリー夫妻は、霊妙な物体ラジウムを発見した。彼らの発見は、一つの新しい科学、新しい哲学を誕生させたばかりでなく、難病の治療法を人類にもたらした。

 学者としての名声がようやく世界に広まってきたおりもおり、マリーの上には喪が襲いかかった。賛嘆すべき彼女の道づれピエール・キュリーは、彼女から一瞬にして死の手に奪い去られた。

 心の痛手と肉体の故障にも屈せず、彼女は着手した研究を独力で続行し、彼ら夫妻によって創造された科学をみごとに発展させた。

 それからあとの余生は、死ぬまで人類への寄与にささげられた。大戦(第1次世界大戦)の負傷者にたいしては、献身的な活動をしてみずからの健康をも犠牲にした。さらに晩年には、彼女の教え子や、世界の各地から集まってきた未来の学者のために、あらゆる時間をさいて知識を授け、助言を与えた。

 富を拒み、受けた名誉にも無関心であった彼女は、みずからの使命を果たし、身心をすりへらしたあげく、消えるようにこの世を去った。


 神話にも似たこの物語に、いささかでも修飾を加えたならば、わたくしは罪を犯したことになるだろう。わたくしはたった一つの逸話でも、自分で確かでないものはいっさい語らなかった。わたくしはたいせつなことばのただ一つをも変形しなかったし、着物の色にいたるまで作りごとはしなかった。書かれた事実は実際にあったことであり、ことばは実際に語られたことばである。

 わたくしはポーランドの親類、とりわけ、母の姉であり、母がいちばん慕っていたドルスカ夫人から、貴重な書簡を借用し、母の娘時代についての直接の証言を聞かせてもらうことができた。

 母自身が残した覚え書きや簡単な履歴、無数の公の文書、フランスやポーランドの友だちとの文通、わたくしの姉イレーヌ・ジョリオ・キュリー、義兄フレデリック・ジョリオ、およびわたくし自身の思い出などの助けを借りて、もっと近年の事実をつづることができた。これらのかたがたの好意にたいしては感謝のことばを知らない。

 わたくしは、この書を読まれるかたがたが、母の生涯の、すぐに移り変わりまもなく消えてしまう事柄のかげに、キュリー夫人という人柄のなかにその業績やその生活の輝かしさ以上に珍重すべきものを、すなわち、確固不抜の性格を読み取られるように希望する。それはつまり、理知の不屈の努力であり、あらゆるものを与え、なにものをも取ることも受けることさえも知らなかった自己犠牲の精神であり、最後に、どのようなめざましい成功も、不運逆境さえもその異常な純真さを変えることのできなかった魂である。

 このような魂をもっていたればこそ、マリー・キュリーは世の常の天才がはなばなしい名声から引き出すことのできる利益を遠ざけてもいっこう痛くもかゆくもなかったのである。

 彼女は世間が彼女に望むような人物であることに迷惑を感じた。天性わがままといおうか、無欲だった彼女は、ややもすれば名誉をかちえたものが示しかねない態度の一つを、なれなれしい態度とか、うわべだけのあいそのよさとか、わざとらしい厳格さとか、見てくれがしのけんそんとか、そういうもののうちのどれ一つをも、身につけることができなかった。

 彼女はおよそ有名人たるの術を心得なかった人である。


 わたくしが生まれたのは母が三十七歳のときであった。わたくしが母の人物を知りうるほどに成人したとき、彼女は有名な老婦人になっていた。しかし、《知名の女学者》という感じはわたくしにとってもっとも縁の薄いものである。──自分が有名であるという考えがマリー・キュリーの頭のなかになかったからにちがいない。かえってわたくしは、わたくしの生まれるはるか以前、多くの夢を描いていた貧書生のマリア・スクロドフスカのそばにいつも暮らしていたような気がする。

 母の死の瞬間がやはりこの少女時代に似ていた。きびしくもありまた輝かしくもあった長い長い彼女の生涯は、彼女を大きくも小さくも尊くも卑しくもすることはできなかった。息をひきとった最後の日にも、無名の門出の時代と同じく優しい、一徹でしかも小心な、あらゆることに興味を感じる一女性にすぎなかった。

 このような死者にたいしては、政府がその国の偉人たちにささげるおおげさな葬儀は、神聖を汚す行為をあえてするものだと言わないわけにはいかない。彼女はいなかの墓地に、色とりどりの夏の花に包まれて、あたかもいま終わりを告げたその生命も凡百のほかの生命と少しも変わらなかったかのように、もっともしめやかに、もっとも簡素に葬られた。


 アインシュタインが、「キュリー夫人はあらゆる知名人のなかで名誉によってそこなわれなかったただひとりの人である」と言ったこの永遠の学徒を、その汚れなき、水の流れるように自然な、みずからの驚くべき宿命をほとんど自覚していないかのような生涯をたどりつつ第三者の立場にたって描きだすために、わたくしは作家としての素質がたりないことを残念に思う。
  E・C
(エーヴ・キュリー著「キュリー夫人伝」白水社 p7-9)

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 マリア・キュリーをこのような活動に立たせた力は何であったろう。日夜の過労の間に彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。それはけっして狭い愛国心とか敵愾心とかいうものではなかった。科学者としての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うたときマリアの心に浮かんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景ではなかったろうか。それはケレルマン通りの家で、一通の開かれた手紙を間に置いて坐っているピエールとマリアの姿である。

手紙はアメリカから来たものであった。瀝清ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功した彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それとも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬のやり方をも公表し、人類科学のために開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類のものであった。

その時ピエールは永年の夢であった整備された研究室の実現も考え、また夫として父親としての家庭に対する愛情から、いくらかの特許独占の方法を思わないでもなかったらしかった、が結局は彼ら夫婦を結んでいるまじり気のない科学的精神に反するものとしてそのことを放棄した。

わずか十五分の間にそうして決められた自分たちの一生の方向、それはピエールが不慮の死をとげて八年を経た今日、あれほどピエールが望んでいてその完成を見なかった研究所が落成されている今日、マリアの心を他の方向に導きようのない力となって作用したのであろう。

 ブロンドの背の高い、両肩の少し曲がった、眼ざしに極度の優しみを湛えている卓抜な科学者ピエールは、その父親と違ってふだんは時事問題などに対してけっして乗り出さなかった。

 「私は腹を立てるだけ強くはないんです」と自分からいっていたピエールが、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのために無辜(むこ)の苦しみに置かれていることを知って、正義のために示した情熱。ノーベル賞授与式のときの講演でピエールが行なった演説も、マリアに新しい価値で思い起こされたろう。彼はそのとき次のようにいった。

 「人は一応疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知ってはたして得をするであろうか。その秘密を利用できるほど人間は成熟しているだろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人であります。」

 マリアは愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならないと思ったろう。科学の力が一方で最大限にその破壊の力をふるっている時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、それを動かす科学者としての情熱が必要と思われたにちがいない。

 一九一八年十一月の休戦の合図をマリアは研究所にいて聞いた。嬉しさにじっとしていられなくなったマリアが、はげしい活動で傷のついている例の自分の車の「小キュリー」に乗ってパリ市中を行進した気持は察するにあまりある。

 フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛するポーランドは一世紀半の奴隷状態から解かれて独立した。マリアは、兄のスクロドフスキーに書いた。

 「とうとう私たち(生まれながらに奴隷であり、揺藍の中からすでに鎖でつながれていた)は、永年夢見ていた私たちの国の復活を見たのです。」

 しかしキュリー夫人は歴史の現実の複雑さに対してもやはり一個の洞察を持っていた。その喜びに酔わずに、さながら十九年後の今日を見透したように、続けていっている。

 「私たちの国がこの幸福を得るために高い代価を支払ったこと、また今後も支払わなければならないことはたしかです。」

 第二次大戦によってポーランドは再びナチスの侵略をうけ、南部ロシアのウクライナ地方とともにもっとも残酷な目にあわされた。しかしポーランド人民は、ウクライナの農民が善戦したとおりに雄々しくたたかって、ナチスをうち破った。

たんに自分たちの土地の上からナチスを追いはらったばかりでなく、世界の歴史から、暴虐なナチズムの精神を追いはらったのである。ポーランド人民解放委員会のうちにワンダ・ワシレフスカヤという一人の優れた婦人作家が加わっていることをキュリー夫人が知ることができたらどんなによろこんだであろう。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 p125-129)

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◎「母の生涯の、すぐに移り変わりまもなく消えてしまう事柄のかげに、キュリー夫人という人柄のなかにその業績やその生活の輝かしさ以上に珍重すべきものを、すなわち、確固不抜の性格を読み取られるように……」と。