学習通信040829
◎「健康で文化的な生活をいとなむことは、すべての人の権利です。」

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憲法第25条

1)すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

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第25条
すくなくともこれだけは、というレベルの、健康で文化的な生活をいとなむことは、すべての人の権利です。
国は、生活のあらゆる分野に、社会としての思いやりと、安心と、すこやかさがいきわたり、それらがますます充実するように、努力しなければなりません。
(池田香代子訳「やさしいことばで日本国憲法」マガジンハウス p46)

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基本的人権

 くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけただれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生きいきとしげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、ただ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。

 人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、自分のすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっしてうばわれてはなりません。また国の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。

 またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。

 国の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等はみなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを、「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に与えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。

 しかし基本的人権は、こゝにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の国の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい国民にならなければなりません。国はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権利を憲法で与えられているのです。この場合はみなさんのほうから、国にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的な人権ですが、これを「請求権」というのです。争いごとがおこったとき、国の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。

 それからまた、国民が、国を治めることにいろいろ関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。国会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、国や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です。

 みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を与えられました。この権利は三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。

 こんなりっぱな権利を与えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることとを、わすれてはなりません。国ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。
(文部省「あたらしい憲法のはなし」中学校社会科第1学年用)

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「文化」ということばのいろいろな用法

 「文化」ということばは、ずいぶんいろんな使われ方をする、その点ではかなりあいまいなことばであるようです。

 たとえば「文化住宅」などという使い方があります。戦後の初期には「文化鍋」なんていうのもありました。こういう場合の文化は「文明が進んで、生活が便利になること」(『新明解国語辞典』)「進んだ技術を利用した便利さがあること」(旺文社『詳解国語辞典』)というくらいの意味であって、「文明開化」の略語と思ってもいいでしょう。

 しかし、その「文明」ないし「文明開化」とは区別された特別な意味に「文化」ということばが使われることもあります。「広義に文化≠ニいえば、いわゆる文明≠煌ワめて精神物質両方面の成果をさす。しかし狭義には、技術の発展を中心とする都市化を文明≠ニいうのに対して、人間の精神的な価値の成果を文化≠ニいう」と角川書店の『類語国語辞典』にあるように。『広辞苑』の「文明」の項にも、「宗教、道徳、学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の技術的、物質的所産。文化の根源性、統一性に対して文明の皮相性、無性格性を対置する場合がある」と注記されています。

なお、右に引いた『類語国語辞典』の説明のなかで 「都市化」ということがとくに記されているのは、「文明」に相当する英語(シビリゼーション civilization)ドイツ語(チビリゼチオン Zivilisation)が、語源からいって「市民化」「都市化」を意味することばだということを意識しているのだろうと思います。

 ちなみに、「文化」を意味する英語カリチャー cultureやドイツ語クルトゥール Kulturの動詞形はカルティヴェート  cultivate 'クルティヴィーレン  kultivierenで、ともに「耕す」「つちかう」「栽培する」「育てる」を意味します。「文明とはちがって、文化とは、もっぱら人間の心を耕すこと、心をつちかい育てるいとなみをいう」と、ここでの説明を補うこともできるでしょう。

さらに、学研の『新世紀百科辞典』で「文化」の項を見ると、「フンボルト以来物質的文化を文明、精神的文化を文化と呼び分けることが多い」と結ばれていて、こうした使い分けがフンボルトにはじまることが示されています。フンボルト(一七六七〜一八三五)というのはヘーゲル(一七七〇〜一八三一)の同時代人で、哲学的にはカントの流れをくむ言語学者であり、プロイセン政府の閣僚をつとめたこともある人物です。

 ここでふと気がついたのですが、「文化人」という場合には、もっぱら学者、芸術家などをさしていい、技術者などはふくまないのがふつうなようです。もしかしたら、これも、文化ということばのこのような用法とつながっているのかもしれません。

 でも、その「文化人」ということばが、そのような精神的威厳にみちたことばとして今日も通用しているかといえば、必ずしもそうではなさそうです。この点では「文化住宅」の方にも似たような事情があるみたいで、というのは、「文化住宅」ということばが生まれたのは大正末年のことらしいのですが、そのころ「文化住宅」といえば、庶民にはしょせん高嶺の花でしかない、赤レンガ造りの高級住宅を意味していたそうですから。それにくらべれば、今日のいわゆる「文化住宅」は、ずいぶん格が落ちたものになってきているみたいで、それと同じように「文化人」の方も、かなり格が落ちた存在になってきているような気がします。

 もっとも、いわゆる精神文化についてにせよ、物質文化についてにせよ、文化の「格」のこのような相対的下落は、それが大衆化ということと結びついているかぎり、けっして悪いことではない──少なくとも悪いことばかりではない、ともいえるでしょう。

 では、日本国憲法第二五条が「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と述べている、この「文化的」とはどういう意味でしょうか?

 憲法学者によれば、ここでいう「健康で文化的な最低限度の生活」とは、世界人権宣言が「人間の尊厳にふさわしい生活」といい、ワイマール憲法──\に説明があります──が「人間に値する生存」といったのと同じ意味だということです。とすれば、ここでいう文化とは「文化住宅」という場合の文化とも、「文化人」という場合の文化とも、単純にイコールではありえないでしょう。それは、この両者をふくみつつも、人間の人間たるゆえん、人間の本質ともいうべきものと、もっと直接的に結びついているように思われます。

 ただし、この憲法第二五条がうたっている権利は、これまでの判例や憲法学者の多数説によると、具体的な内容をもつ請求権ではないそうで、つまり、この規定をもとにして個個の国民が国家にたいして具体的・現実的な権利を主張しようとしても、それはダメ、ということになるのだそうです。こうなると「文化的」とは「えてして文化の敵のこと」という、ある皮肉な辞書の説明を思いださざるをえません。
(高田求著「学習のある生活」と学習の友社 p58-62)

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◎「文化……それは、……人間の人間たるゆえん、人間の本質ともいうべきものと、もっと直接的に結びついているように思われます」と。