学習通信040831
◎「これが私の人格の本質である」……と。

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性格について

先天的か後天的か

 「自分の性格、欠点についてなやんでいます。性格とか長所・欠点ということについてどう考えたらいいでしょうか」という投書があった。
 手もとに『性格』という題の本(相場均、中公新書)があったので、読みかえしてみた。

 性格の問題については、対立する二つの考えかたがある、ということがそこに紹介されている。

 一つは、「性格は先天的なものだ」とするヨーロッパ学派の「素質論」であり、もう一つは「性格は後天的なものだ」とするアメリカ学派の「環境論」だという。が、この両者を絶対的に対立させるのはただしくなく、前者は性格のなかのかわらぬ面を問題にし、後者は性格のなかのかわっていく面を問題にしているのであって、両者は統一的にとらえられなければならない、というのが著者の立場であるようだ。

 これは、私の体験(自分自身の体験と観察と)からしてもうなずけるように思う。
 性格の核は素質(あるいは気質)で、これはその人の体質に根をもち、そのかぎりかわらないものであるだろうが、環境とのたたかいのなかで性格は「反応をおこす」──私流にいいかえれば、真に人間的な性格としてつくられていく──という著者の主張は、そのとおりだと思う。

 さらに、「これは哲学的な問題に入ることになるが」とことわりながら「素質そのものとたたかう」という問題を著者は提起しているが、これはきわめてたいせつな問題提起だと思う。

素質とのたたかい

 性格の核をなす素質(気質)が体質に根ざしているというのは、具体的にはつぎのとおりだ。

 「細長型」の体質の人は、一般に「内閉性気質」である。「分裂性気質」とも呼ばれるが、これは精神障害における「分裂病」が、この体質の人におおいことによる。つぎに、「肥満型」の体質の人は、一般に「同調性気質」である。「躁鬱性気質」とも呼ばれるが、これは精神障害における「躁鬱病」が、この体質の人におおいことによる。さいごに「闘士型」の体質の人は、一般に「粘着性気質」である。「癲癇性気質」とも呼ばれるが、これは精神障害における「真性癲癇」が、この体質の人におおいことからくる。

 一般的な傾向として、これはたしかにいえることだと思う。たとえば私は「細長型」だ。そして私の気質が、本来「内閉性」であることも、よく自覚している。私が精神障害におちいるとすれば、躁鬱病や癲癇ではなく、分裂病だろうということも見当がつく。

 だが、私が精神分裂症におちいるとすれば、それは私が「環境とのたたかい」に負けたときだ。それに負けないでいるかぎり、私が「分裂性気質」だということは、私に「精神分裂のケがある」ということを断じて意味したりしはしない。

 それにまた、「環境とのたたかい」は、同時に「素質とのたたかい」でもある。そうであるほかはない。一定の素質、気質をもった個人として、環境にたちむかっていくのだから。そして、事実、そのとおりだと思う。

 私自身についていえば、気質として「内閉性」なのだから、環境にむかってすすんで出ていくというよりは、むしろひっこんで自分のなかに閉じこもろうとしたがる傾きがつよい。いまでも人といっしょにいて、いつまでも黙りこんでいるといったことが、よくある。もともと人前に出るのは大の苦手で、まして自分の名前をだして「人生論ノート」を書きつづけるなど、考えてみるだけでゾッとするような話だ。

 が、環境とたたかうなかでは、そういう自分の気質とたたかっていかざるをえなかった。そのなかで「性格」が育っていった。「ずいぶん性格がかわったな」と昔の友だちにいわれることがある。ほんとにかわったとも思うし、いや、かわっていないとも思う。考えてみると、かわっていないのは生来の素質・気質で、かわったのはその発現のしかただろう。

 そして、かんじんなのはその発現のしかたのほうだろう。素質はかわらないとしても、その発現のしかたはかえられる。素質とのたたかいのなかで、自覚的にかえうる。そこに性格はきずかれていくのだと思う。

長所と欠点

 どのような気質も、それにおうじた長所と欠点をもっている。そして、この長所と欠点とは背中あわせのものだ。

 「長所をのばして欠点をなくせ」という。が、ただしくは、これは、自分の気質が主としてプラスの方向に発現するようにつとめよ、マイナスの方向に発現しないようにつとめよ、というべきだろう。そのように自分の性格をきずいていくことが大事だと思う。

 「自分の欠点ばかり目について……」という人がある。しかし、気質上の欠点は、裏返せばそのまま長所となる。マイナスのがわからばかり自分の気質・素質を見ようとする、そこにその人の現在の性格上の問題点があるのではなかろうか。

 「いくら欠点をなくそうと努力しても、いっこうになくならない」という人もいる。問題のたてかたに問題がある、と私は思う。欠点をなくそうと努力するのではなく、欠点を長所にするように努力すべきなのではなかろうか。

 そうではなくて、ただ欠点をなくそうなくそうとだけー面的につとめていれば、どうなるか。その極限は、長所までがなくなってしまうということにしかならないだろう。どんな長所も欠点もない人間──これはもうにんげんではない。無性格のノッペラボーだ。

 「欠点」さえもそのまま長所でありうるような、そんな人のことを私たちは、プラスの意味で「性格の人」と呼ぶのだと思う。反対に、「長所」さえもそのまま欠点となるような、そんな人のことを私たちは、マイナスの意味で「性格の人」と呼べるだろう。田中角栄氏や鬼頭史郎氏は、そのような意味でたしかに「性格の人」だろう。袴田里見という人も、プラスの意味の勝った「性格の人」から典型的なマイナスの意味での「性格の人」へと、「環境」とのかかわりのなかで急速度の「反応」をおこしてしまったようだ。

性格の花ひらくとき

 社会主義社会についてはもちろん、共産主義の高度な段階についても、私はそれを「人間がどんな欠点ももたなくなるような社会」などとは思わない。そんなのは非人間的なノッペラボーの社会だ。

 反対に、ゆたかな個性が花ひらく、それが共産主義社会ということで、ゆたかな個性が花ひらく社会とは、各人の欠点でさえもそのまま長所でありうるような、そのような各人の性格の人間的成長を不断に保障する、そういう人間的結合の社会、ということだ。

 「そうだ、諸君、あたらしい時代はもうきたのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才がいっしょに、おたがいを尊敬しあいながら、めいめいの仕事をやっていくだろう」──宮沢賢治は『ポラーノの広場』のなかでこのように、そのイメージを形象化した。

 「もうきたのだ」とはどういうことだろう、まだそんな時代はきていないのに、と私は考える。そして、かってになっとくする──そんな未来をめがして現在をがんばっている人びとのなかに、そういう未来がもうはじまっているのだ、と。それは、ゴーシュたちのオーケストラだ。思いもかけぬ能力の花、性格の花が、その連帯のなかから育っていくだろう。それは、仲間との連帯のなかで、仲間に責任をはたそうとするなかで、自分自身によって育てられるものだ。
 忘れるな、君もそんなゴーシュたちの一人だということを。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p79-84)

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 書いてあることそれ自身に興味を感じたために、つい必要以上の引用をしたが、これで見ると、西行という人は、「極めて純情な好い方面」をもっていたと同時に、他面では「気むずかしい、その時その時の刺戟で気分の動揺する」付き合いにくい人であったらしい。畢竟(ひっきょう)その歌におけると同じく、その人物、性格にも、際立って出来不出来の方面が相互に交錯しており、どこを取って見ても同じというのではなく、むしろ極めてむらの多い肌合の人であったらしく思われる。

ところで、かようにむらの多い人間は、その一方面のみを引抜いて見ると、余りに善過ぎる人物になったり、また余りにつまらな過ぎる人物になったりするので、評論者がしっかりしていないと、表面的な現象にばかり眼を奪われて、いま満点近い点を付けたかと思うと、すぐにまた落第点を付けて見たり、評論者自身がふらふら、ふらふらして、何をいうのか分からなくなる。

 こうしたむらの多い点では、私は西行型に属する。ところで杉山平助という男は、そういう型の人物を取扱う方法を心得ていないので、昭和八年三月、私が共産党員として検挙されて間もなくの頃、彼が『文藝春秋』に載せた評論は、支離滅裂、矛盾撞着を極めており、一体私という人間に対し何点を付けたのか、結局訳の分からないものになっている。

表面の現象形態に心を取られる素人の読者は、写真を引き伸ばしたペンキ絵のような、こうした画像を、なかなかよく似ているなどと誉めるかも知れないが、それは皮膚を写しただけのもので、肉も骨も描けてはおらず、況(いわ)んや眼に見えない心や魂は問題にもされていないので、何れにしても対象とされた当人にとっては甚だ不満足なものである。順序を追うて少しばかり彼の文章を書き抜いて見よう。

──略──

 今度はまた急に点がよくなって来ている。先きには、「何らの自主的な性格を持ちあわせない、人間としては極めて鈍くて平凡な、」「いつも何かに影響され、支配され、」「多く畏敬するに足らぬヨタヨタした存在」に過ぎなかったはずの私が、ここでは「一種特異なネバリを具えた人格的存在」となって現われ、時代に対し「教師的役割」を演じ、「社会に影響を与え」「世間を動かして来た」ものとして、その「存在意義の大きさは過少評価されてはならず、」それは「心からの脱帽」に値するものとなっている。だが、これはおかしなことだ。

何故というに、一種特異なネバリを具えるためには、人は何らかの自主的性格を用意せざるを得ないのに、私という人間は、そうした性格など持ち合せてもいないヨタヨタした存在でありながら、しかも一種特異なネバリを具えた人格的存在として立ち現われているというのだから。

また私は、いつも何かに影響され、支配され、ひきずられてばかりいながら、同時にその存在意義を充分に認めさすだけの影響を社会に与えて来た、というのだが、そんな風に他動的でありながら同時に自動的であるという、それ自身互に矛盾した働きを、私はどんな魔術によって演じ出したのであろうか。

 いやしくも評論の筆を執るからには、かように矛盾した現象をただ羅列しただけでは意味を成さぬので、少しは頭を働かして、どうしてかくも矛盾したように見えている諸現象が生れ出るかの理由を、詮索して見なければならない。それでなければ、言うことが前後矛盾して、説明さるべき対象は支離滅裂になってしまう。

杉山の欠点は、表面に現われている現象に眩惑して、それら諸現象の奥に潜んでいる本質を把握しえない点に、横たわっている。彼は相互に矛盾している諸現象を一つの本質において統一するという能力を持ち合わしていない。

 なるほど私はむらの多い人間であろう。優れた方面(があるなどと自分で書くのは気がひけるが、無遠慮に書いておく)と劣った方面とが、はっきり際立っている、言わば玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の肌合なのであろう。だが、玉石混淆といったところで、私は生きた一人の人間なのだから、その玉(玉というほどの立派なものではないが)と石とは、ただばらばらになっている訳のものではなく、それは必ず何らかの或る精神的なものによって融合統一されていなければならぬはずである。

しからば、かかる矛盾した対立物を相互に牽引(けんいん)せしめ、これを一つの中心に向って統一せしめている本質的なものは、果して何であるか、それを明かにすることこそ正に評論家の任務であらねばならぬ。

 いささか自画自賛の階(ろう=を免れ場所が狭いこと。また、見識が狭いこと、あるいは卑しいこと。)を免れないが、私はそれを真実を求むる柔軟な心であると考える。(杉山がその評論に「求道者河上肇」と題しているのは、おぼろげにこれを感じているのである。)

もっと委しく言うなら、いやしくも自分の眼前に真理だとして現われ来ったものは、それが如何ようのものであろうとも更に躊躇することなく、いつでも直ちにこれを受け入れ、そして既にこれを受け入れた以上、飽くまでこれに喰い下がり、合点のゆくまで次から次へと掘り下げながら、依然としてそれが真理であると思われている限りにおいては、敢て身命を顧慮せず、毀誉褒貶(きよ‐ほうへん=(「毀」はそしる、「誉」「褒」はほめる、「貶」はけなすの意)を無視し、出来得るかぎり謙虚な心をもって、無条件的にかつ絶対的に徹底的に、どこどこまでもただ一図にそれに服従し追随してゆき、遂には、最初はとても夢想だもしなかったような、危険な、無謀な、あるいは不得手な境地に身を進めなければならなくなっても、逃避せず尻込みせず、無上命令に応召する気持で、いのちがけの飛躍をなすことを敢て辞しないが、しかし、こうした心持で夢中になって進んでゆくうちに、最初真理であると思って取組んだ相手がそうでなかったことを見極めるに至るや否や、その瞬間、一切の行掛りに拘泥することなく、断乎として直ちにこれを振り棄てる。

 これが私の人格の本質である。そして私の色々な特徴は、それらが外見上如何に矛盾対立したものに見えていようとも、みなこの本質を中心にして放射しているのであり、いずれもみなこの本質の光を浴び、総てがこの本質的なるものの色合に染め出されている。だからまたその矛盾対立には、おのずからなる限度があり、統一があり、調和がある。

 私がいかにもやすやすと他人に影響され支配され引きずられる場合があるのは、こうした本質の一つの現われであり、一つの面である。

実際私は、杉山平助が言っているように、「若い頃には、無我愛を提唱せる伊藤証信にも影響された。ロイド・ジョージにも、オーエンにも、マルクスにも、レーニンにも、スターリンにも、大山郁夫にも、山本宣治にも、細迫兼光にさえも、ひきずられて来た人物」である。

そればかりか、大学教授としての末期には、すでに五十歳になんなんとしていたけれども、私は三十も年下の、自分の教えている学生たちから、絶えず刺戟され影響され引きずられもして来た。

だがそれは、期間からいっても範囲からいっても、私が相手に真理性を認めている限りのことである。これはいかんと信じて来れば、私はいつでもこうした影響から脱却する。また周囲の者が何といっても、自分がそうだと信じない以上、決してその影響を受け入れはしない。以下具体的に私はその点を明かにするであろう。
(「河上肇 自叙伝 @」岩波文庫 p98-106)

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◎評論家「杉山」……「彼は相互に矛盾している諸現象を一つの本質において統一するという能力を持ち合わしていない。」