学習通信040901
◎「真実に対する柔軟な心」と。

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 いささか自画自賛の嫌いがあるけれども、私は先きに、敢て自らの本質を、真実に対する柔軟な心であると言った。今その柔軟であるという方面からいえば、伊藤氏に対する関係においても、最初私は極めて従順であった。しかし真実に対して柔軟な心を持つためには、人は不真実に対し飽くまでこれを拒否し、これを排斥し、断乎としてこれに反抗するだけの、剛強な勇猛心を持たねばならぬ。

だから私には、柔軟な面と同時に剛強な面が出てくる。非常に脆く、弱く、従順に見えている一つの面と、ひどく頑固で、意地張りで、非人情的で、闘争的に見えている他の面とがある。私が相手に真実性を認めている限り、私には前の面が現われ、私が相手に不真実性を認むるに至るや否や、忽ち後の面が現われる。そうした関係から、若い頃私は慥(たしか)に伊藤証信氏に引きずられたけれども、それには一定の限度があり、それは一定の期間に過ぎなかった。同氏の説くところが真理であると考えている限り私は同氏に師事したが、一旦そうでないと思ってくると、忽ち同氏に背いた。

「ひとたびは同志となり、忽ちにして喧嘩別れを演ずる彼の径行は、すでに端をここに発しているといっていえないこともない。」と杉山は言っているが、そう遠慮した物の言い方をする必要はない。たしかに端をここに発しているのだ。

 そこには人を信じ易い私の軽率さが働いており、物に対する認識の不正確さが現われている。これは私の大きな欠点だが、その代り、その時々の条件次第で紆余曲折を経ながらも、手数をかけて観察したものになると、人物にしても主義思想にしても、やがて私は動かない認識を有つことが出来るようになり、そしてそうなってしまえば、これに対する私の態度は、一時の利害得失、一身の毀誉褒貶に煩わされることなく、終始を一貫して動かない。

 「ひとたびは同志となり、忽ち喧嘩別れを演じる、」もしそうした方面からのみ見れば、私はその時折の天気次第でどうにでも変わる、洵(まこと)にフラフラした存在に見えもするだろう。そこで杉山は、またこんなことをも言っている。

「近頃或る新聞は、佐野学や鍋山貞親らが獄内にて思想的転換を告白したという風聞を報道した。おそらくそれはデマであろう。しかし、わが河上肇が、刑務所内で絶対に周囲から隔離されて五、六年に及ぶとすれば、仏教徒となりあるいはマホメット教徒となってさえ現れ出ようとも、私は甚だ多く驚かないことであろう。」

 杉山がうまいことを言っていると、当時世間の常識家どもは喜んだかも知れないが、その後の事実は果してどうであったか。それは尽(ことごと)く彼の予想を裏切っている。佐野や鍋山こそ獄中で一度ならず二度ならず時勢の変化につれ思想的転換を告白して恥じなかったけれども、私は──佐野や鍋山に比べれば遥(はるか)に弱々しい人間と見えている私の方は──獄中で度々誘惑や脅迫がましい目に逢ったけれど、そのために自分の思想を曲げることは遂にしなかった。満期出獄前の私については、当時の新聞が次の如く書いた。

「下獄以来今日までの博士の学徒としての信念は、いささかも動かなかった。実行運動とは袂を分ったが、依然マルキスト河上肇としての良心を持ち続けて来たのである。……仮出獄の恩典も、その条件たる完全転向とは遥に遠いこの博士の心境のため、その都度空しく却下されていたのだ。かくて出獄の日は来た、待望のその日は六月十五日の早朝だといわれる。中野の博士の留守宅では、夫人の心尽しの柔い布団も仕上って、疲れた博士の帰る日を待ち佗びている。信念のために罪に服し、その信念を通し続けて晴れの身となる河上博士の心境は、思想の当否は別として、「悲壮」の一語に尽きるであろう。」

 ものの本質をつかむことの出来ない杉山のような人間の予言というものは、まぐれ当りの外には、決して当ることのないものである。

 しかし有り難いことには、杉山平助がこんなことを書いた昭和八年から数えると殆ど三十年近くも前になる明治三十九年に、早くも私の本質を見極めてくれた人がある。それは公にされたものでなく私に宛てられた私信に過ぎないが、これを受取った当時の私はよほど嬉しく思ったのであろう、何も彼も無くする私が、その手紙だけはそのままこれをスクラップ・ブックに貼り付けておいたので、いまだに手許に残っている。それは英文で書かれているが、署名はドイツ語の衣服匠を意味するクライヅング・マッヘルとなっている。果してどういう人なのであろうか、固(もと)より知る由もないが、左にその訳文を載せ、序に原文をも写し添えておく。

「名古屋にて、一九〇六年五月二日
 読売新聞寄書家、河上肇様

 拝啓。あなたの文筆経歴に多大の関心を有っている一人の人からのこの手紙を、どうぞお受け下さい。他人は何と言おうとも、私はあなたを、精神的光明を求むることにおいて稀に見る熱意を有する人だと、看なさんとすることに少しの変りもない。

なるほど或る人々は、あなたの思想がよく変わるということを、あなたの欠点としているようだが、私はどうかといえば、あなたの考の中に存在すると思われている、こうした不統一というものは、決してあなたの名誉または功績を損ずるものではなく、それどころか、むしろそれは、どんな真理でもいやしくも自分の前に現われ来ったものは何時でも直ちにこれを受け容れるという心を有った、あなたの真面目さの確かな徴証であると、信ぜざるを得ない。

そればかりでなく、私は更に進んで、こうした矛盾動揺はただ外観に過ぎないということを、考えざるを得ない。何故というに、私は、こうした立ちさわぐ荒浪のもとに、人生の永遠の謎を解かんとする試みを目指している、一つの絶えざる底流の存することを、認めざるを得ないからである。

 いわゆる科学者の浅薄さを免れながら、しかも同時に、「温室的信者」の独断によって拘束されてもいないし頑なにされてもいないあなたは、時代の焦眉の要求に応ずるため十分の資格を具えておられる。かくいうことは余りに多くをあなたから予期するものだとしても、私は少くともあなたが正しい道に立っておられることを信じる。

何故というに、局外者のためにはその生命を失って呪文のようになっている多くの教義は、もはや吾々を満足さすことが出来ないが、しかも吾々は、言葉の本当の意味でともかく生きて行くためには、パンの外に何らかの物がなくては叶わぬからである。

 しかし、かく言うものの、私は決しておべっかを言うつもりではない。そんなことは出来ても、私はしようと思わないし、そんなことをしたとて私にとり何の得にもならぬことは、あなたも認めて下さることと思う。私はただ吾々の日常生活における何らかの根本的なものを把握せんとする、あなたの価値ある努力に対し、いささか讃辞を呈せんと欲するに止まる。

私は精神上の問題に対するあなたの鋭い観察から少からざる利益を得たし、──もちろん意見を異にする点が全くないとはいわないが、──大体において今もなおあなたの足跡を追うている。ところで、こんな問題について一外人が細かな点にまで立ち入ることは不適当であるから、今はこれで筆を擱(お)くであろう、清閑を擾(みだ)した私の無謀をお許し下さい。もっと自由に語ることの出来る機会を与えて下さらば幸甚。エー・クライヅングマッヘル」

──原文 略──

 一九〇六年五月といえば、私が『読売新聞』で無我愛宗を天下の邪説などと排斥するに至った前後の頃であり、当時私はまだ満二十七歳に達せぬ若者に過ぎなかった。自然その文筆経歴もやっと始まったばかりであったのに、かくも好意をもって私の善い方面を──私の本質的な性情を──認めてくれた人のあることは、私の感謝に禁(た)えざるところである。爾来殆ど四十年の星霜を経たる今日、私はこの古い英文の手紙を訳出しながら、しみじみと知己の感を新たにするのである。

 尤もこの手紙の主が、ずっと私の経歴を見ていてくれて、とうとう牢屋にまで入るようになった晩年を眺めていたとすれば、あるいは予期に反したと失望したかも知れない。

だが第二次世界大戦の真只中にあって、──歴史上未曾有なる残酷さを以て行われつつある大量的殺戮、労働力及び物資の無茶苦茶な不生産的浪費、万民の生活苦、かかる地獄の劫火の燃えさかりつつある真只中にあって、──マルクス主義こそが、またそれのみが、間違いもなくこの地球上に永遠の平和をもたらすであろうことを、科学的真理として固く固く信じつつ、半生をこの主義の研究及び流布のために費し来ったことを、自分としては、自己の為しうる最大最上の仕事であったと、現在もなお確信して動かない私は、今この手紙の主に出会っても、自分の方では心にはじる所なくして相対することが出来ると思っている。

(付記。―この原稿を書き進めて、丁度昭和三年末の出来事を書いている時に、私は一人の知人から、夏目漱石氏の書簡集を読んでいたら、次のようなものがあった、と言って、知らせてもらった。それをここに書き添えておく。明治三十九年二月三日付を以て、野間真綱に宛てられたものである。

「拝啓。……小生例の如く毎日を消光、人間は皆姑息手段で毎日を送っている。これを思うと、河上肇などという人は、感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とはいわれない。人はあれを精神病というが、精神病ならその病気の所が感心だ。君の憂鬱病はどうなった。金を百円計(ばか)り借りて大に青楼に遊んで見たまえ。大抵の憂鬱病はきっと全快する。放蕩は長く続くものではない。放蕩をつづけると、放蕩の方の憂鬱病が出てくる。そうしたらまた勉強〔を〕する。また憂鬱病になる。また何か道楽をやる。これで沢山だ。これを姑息手段という。普通の人間は大概やる。君はこの姑息手段さえやらんから病気になるのである。

 近頃は訪問者が少々減じて難有い。忙しい事は依然として忙しい。生涯この有様であろう。而して生涯落ちつくことはない。僕のキューキューしているのもまた姑息手段に過ぎぬ。要するに大俗物になって益々大俗物たらんとアセルのだね。これではどこがえらいか分らない。人間は他が何といっても、自分だけ安心して、エライという所を把持して行かなければ、安心も宗教も哲学も文学もあったものではない。頓首(とんしゅ)。」

 私は冷かされているのかも知れないが、別に恥しい気もしないから、初めて知ったこの手紙を、序(ついで)にここに書き入れておくのである。)
(「河上肇 自叙伝@」岩波文庫 p137-146)

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 このように、科学的社会主義の理論は、(イ)それまでの人間知識の価値ある成果のすべてを受けつぎ、(ロ)その「科学の目」で現実の社会と自然を徹底的に研究する、こうして到達され、仕上げられたものです。

 マルクス、エンゲルスが科学的社会主義の創始者だというとき、その意味あいは、宗教の創始者の場合とはまったく違います。

 宗教の場合には、キリスト教なら創始者であるキリストの言説、仏教なら釈迦の言説、イスラム教ならマホメットの言説が、最高の原理です。ですから、創始者の言説を研究し、これをいかに正しく解釈するかが、その宗教にとって最大の問題になります。

 ところが、科学的社会主義の場合には、創始者であるマルクス、エンゲルスの言説であっても、その値打ちは、それが真理をきちんと反映しているかどうかが、評価の基準です。マルクス、エンゲルスが述べたことであっても、この基準にあわないものは、間違いなのです。

 ですから、私たちが、マルクス、エンゲルスから「科学の目」を受けつぐという場合には、そういうことも頭において、受けつぐべきものをきちんと受けつぐ必要があります。

 いま述べてきた立場──マルクス、エンゲルスであれ、レーニンであれ、科学的社会主義の先輩たちの個々の言説を絶対化しないということは、日本共産党が早くから明確にしてきた立場でした。

私たちは、いまからニ十五年前、一九七六年に開かれた党大会(第十二回臨時党大会)で、この立場を、党の綱領と規約のうえで、より鮮明に規定づけることにしました。それまで、世界で何十年にもわたって使われてきた「マルクス・レーニン主義」という用語をいっさいやめて、日本共産党の理論的な立場を表現する用語は、綱領の上でも規約の上でも、すべて「科学的社会主義」という言葉で統一するようにしたのです。

それは、マルクスやレーニンの言っていることを絶対化しない、金科玉条にしないという私たちの立場を表すには、この理論を個人の名前と結びつけた「マルクス・レーニン主義」という呼び名は適切でない、と考えたからです。

 私たちの党は、この問題を、そこまで徹底して考えてきたのです。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p19-20)

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◎「マルクス主義こそが、またそれのみが、間違いもなくこの地球上に永遠の平和をもたらすであろうことを、科学的真理として固く固く信じつつ、半生をこの主義の研究及び流布のために費し来ったことを、自分としては、自己の為しうる最大最上の仕事であったと、現在もなお確信して動かない」と。

河上肇自叙伝……一読を勧めます。