学習通信040902
◎「その国富は、必ずしも生活それ自体の豊かさとは比例しない」……と。

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第一章 国家の富の創出
 ──ウィリアム・ペティと『政治算術』

 貨幣とは何かを問うとき、最初に考えなければならないことは、なぜ貨幣は富の絶対的価値基準になりえたのか、であるように思える。

 いうまでもなく、部分的な交換財としての貨幣の成立も、稀少物質や何らかの物が貨幣と同じように交換財として利用されるようになった時代も、はるかに昔まで時代をさかのぼらなければならない。だがそのような貨幣は、本書の対象外である。なぜなら中世後期に入って、都市社会から今日に受け継がれていく「近代的貨幣」が登場してくるまでは、貨幣は交換のある部分を担っているにすぎず、富の絶対的な価値基準ではありえなかったからである。

よく知られているように、それまでの農村共同体内では、交換は共同体的慣習にしたがって主として贈与のかたちでおこなわれていたのであり、このかたちは中世都市でも領主と騎士の間などでしばしばおこなわれていた。貨幣は近代的な商品経済が台頭してくるまでは、普遍的な流通財ではありえず、すべてのものを購入できる普遍的な商品としての機能を確立してはいなかった。とすれば、貨幣が富の絶対的な価値基準になりえたはずはない。

 そのような部分的な交換財としての貨幣が、絶対的な価値基準に変っていく過程はなぜ可能だったのか。一般的にはそれは商人資本の時代を経てマニュファクチュアから産業資本が生まれていく過程をみることによって、すなわち市場経済の成立過程をとおして説明される。もちろん、その歴史が大きな役割を果したことを私も否定しない。とりわけこの歴史のなかで労働力が商品化され、貨幣の普遍性が確立されたこと、第二に産業資本の成立とともに貨幣が資本として機能するようになったことは、貨幣に絶対的な力を与えるようになった。

──略──

「全王国には、以前には金がおびただしくあったが、いまや金・銀ともにはなはだしく払底しているということ、人民のための産業や仕事口はなにもなく、そのうえ土地は人民不足であるということ、……海軍力の競争では、オランダ人がわれわれのすぐあとに追い迫ってきており、フランス人は急速に両者をしのごうとし、いかにも富裕で勢力があるように思われる……」

 一六七〇年代に執筆された『政治算術』の序文に、ペティはこのように記している。実際十七世紀のイギリスは苦難のなかにあった。政治的には、一六四〇年代から一六八〇年代にかけての四十年の間に、ピューリタン革命、王政復古、名誉革命とつづく激動を経験している。そしてその時代はイギリスがオランダの力におびえ、フランスの台頭に震撼した時代でもあった。

 この時代のイギリスは、第一次オランダ戦争(一六五二年−五四年)、第二次(一六六四年−六七年)、第三次(一六七二年−七四年)と、三度にわたる英蘭戦争を経験している。それはイギリスが海上支配権を確立していく過程でもあったが、英蘭戦争自体はつねに圧倒的な力をもつオランダの前に苦戦の連続であった。

 第二次オランダ戦争では、財政難から戦争遂行能力を失い、イギリスは屈辱的な講和を受け入れざるをえなかった。第三次オランダ戦争でも財政難による苦戦はつづき、イギリスの社会は疲弊しきっていた。ペティが書くように、金銀は払底し、街に仕事はなく、農民は農村を見捨てていたのである。その苦難のなかで、結果的にイギリスが海上支配権を強化することになるが、それは一六七四年のオランダとの講和の後、フランスがオランダに侵攻した機に乗じてのことである。だがそのことは、今度はルイ十四世の治政下のフランスの脅威を人々に感じさせることになった。

 十七世紀のイギリスの政治経済学の緊急の課題は、戦争を遂行するための国家財政の確立であった。国家の富、すなわち国富とは何か、それはいかにして増加させることができるのか、それが政治経済学の最大の目標になる。実際ペティの『政治算術』は、国富は何によって生まれ、高められていくのかを説明しながら、台頭してくるフランス脅威論を鎮める目的で書かれている。

 といっても国家にとっての富の研究は簡単なことではなかった。たとえば私たちは山野を歩いて「自然」から採取し、食卓を豊かにすることができるが、そんなものは国家の富の増加には役立たない。つまり生活次元で自己展開し終了してしまうような経済活動は、国富の増加に結びつかないのである。とすれば、当然、農村共同体などで人々が営みとしておこなっている、いわば生活次元の経済活動と、国富の増加に結びつくような経済活動とは、どこかで区別されなければならない。

 今日では私たちは国富として「国民総生産」を基準にすることが多い。この国民総生産でも、市場経済を通過しない生活次元の経済は除外されている。除外されているというより、計算方法がないのである。そしてペティが着目したのも、この計算という方法だった。

 ペティは政治経済学への数学的手法の導入を試みた。国富を高めようとするなら、まず第一に国富の総量を認識する方法がつくられなければならない。それも日本の江戸時代の「藩の富」の表現であった石高のようなずさんなものではなく、農業も工業も商業も、すなわち国内の経済活動のすべてを総合した国富をとらえる方法が確立されなければならなかった。この目的を実現するうえでは、数学的手法が有効であるように思われたのである。ペティは次のように述べている。

 「私がこのことをおこなうばあいに採用する方法は、……比較級や最上級のことばのみを用いたり、思弁的な議論をするかわりに、……自分のいわんとするところを数 ・重量または尺度を用いて表現し、……個々人のうつり気・意見・このみ・激情に左右されるような諸原因は、これを他の人たちが考察するのにまかせておくのである」

 この目標を実現しようとするとき、経済の価値尺度としての貨幣が登場してくる。なぜなら、国家の経済力を数量によって表現しようとすれば、あらゆる経済活動を共通の量的な因子によってあらわさなければならず、その因子は貨幣以外には見当らないからである。それは今日の国民総生産が貨幣量によって表現されているのと同じである。たとえばペティは、オランダとフランスの国富を比較して次のように述べている。

 「約二百万トンにのぼるヨーロッパの船舶の価値であるが、私は、……オランダ人が九十万〔トン〕、フランス人が十万〔トン〕……そうすると、フランスの船舶とオランダおよびジーランドのそれのみについていえば、約一対九となり、その値いは、大小・新旧をつきまぜてトン当り八ポンドとして計算すれば、八十万ポンド対七百二十万ポンドとなる」

「フランスから全地域へ輸出される貨物の価値は、……全部で約五百万〔ポンド〕ということになるが、オランダからイングランドヘ輸出されるものの値いは三百万〔ポンド〕、そのほかさらにオランダから世界中へ輸出されるものは、この六倍におよぶのである」

 このようにしてペティは、第一に土地、建物、船舶などの国内の動産、不動産のすべてを貨幣価値によって測定し、第二に農業、工業、商業のもつ生産力をも貨幣量で計算することによって、その合計に国富の現実をみていく。ペティにとって国家の富とは、貨幣量で測定することのできる経済力であった。それが今日の国民総生産と異なるのは、国民総生産はその年の国内の総生産量を貨幣量で表現したものであるのに対して、ペティの国富は、国民総生産と土地をふくむ蓄積された国内の経済的価値をも合算していることである。

 ところで、このような方法で国家の富を測定していこうとすれば、当然国民の富との間にはくい違いが生じることになる。たとえば、前記したように、生活次元では営まれているにもかかわらず市場経済を通過することのない経済、つまり貨幣化されることのない経済は視野から消える。しかしペティが活躍していたのは十七世紀のイギリスである。とすれば、当然、今日よりはるかに多くの人間の営みが非市場経済のなかで展開していたはずであり、それらは国家の富の増加には役立たないことになる。

 ペティの革命性は、非市場経済的な人間たちの営みを、政治経済学の対象から切り離したことにあったといってもよい。彼はなぜそうしなければならなかったのか。それは、いうまでもなく、彼の課題が国家を強化するための政治経済学の確立、戦争を遂行するための国家の経済基盤の確立にあったからである。この視点からとらえたとき、国の経済力とは、第一に貨幣的価値の生産力であり、第二に貨幣的価値の蓄積量にならざるをえなかった。

 こうしてペティは国家の富の計算方法をみつけだした。そのことによって彼の政治経済学の展望は開かれた。なぜなら国富が貨幣量で表現されるものなら、国富の増加とは、貨幣であらわすことができる蓄積量と生産量を増加させればよいことになるからである。

 だからペティは次のように書いた。
 「農業よりも製造業が、また製造業よりも商業がずっと多くの利得がある」

 なぜなら、ペティによれば、農業よりも製造業、製造業よりも商業のほうが、貨幣にあらわされる一人当りの価値の生産量が多いからである。

 「イングランドの農夫は、一週当り四シリングしか稼得しないのに、海員は賃銀・食料(および家屋のような)他の諸設備の形で事実上一二シリングをえているのであるから、一人の海員は、けっきょく三人の農夫に相当するのである」

 その貨幣量で表現される富とは、金、銀、宝石が最良であると彼は考えている。あらためて述べるまでもなく、ペティは重商主義時代の思想家である。

 「産業の偉大にして終局的な成果は、富一般ではなくて、とくに銀・金および宝石の豊富である。銀・金・宝石は、腐敗しやすくないし、また他の諸物品ほど変質しやすくもなく、いついかなるところにおいても富である。ところが、ぶどう酒・穀物・鳥肉・獣肉等々の豊富は、そのときその場かぎりの富にすぎない」

 もとよりペティの時代には、資本の蓄積によってもたらされる生産力が国富の基礎であるという認識は成立しない。産業革命のはじまりは、イギリスでもまだ百年も先のことである。だからこそペティは国の中で生産され、蓄積されている商品の量を問題にし、それゆえに変ることのない普遍的な商品として、金、銀、宝石を重視する。とすれば、当時は金貨でもあり、銀貨でもあった貨幣の増加が、国富の増大としてとらえられることになる。

 その国富は、必ずしも生活それ自体の豊かさとは比例しない。すでに述べたように、当時の農村社会では、市場経済にまわされない経済が確固として存在していたのであり、この経済は農村の人々の暮らしを豊かにすることはあっても、ペティがとらえた国富の増加にはいささかも結びつかないからである。確かに農民が作物を交換することは、農民の食卓を豊かにするうえでは重要でも、この交換を基盤にして国家が大砲を一門つくることさえできそうではない。だからペティは、国富を増加させない農村の人々の営みに対しては、ひどく批判的であった。

 「アイァランドは人民不足であって、土地も、また家畜も非常に安価であるし、いたるところに魚類や鳥類がおびただしい。大地からはみごとな根菜(とくにあのパン類似の根菜すなわち馬鈴薯)がとれ、しかもアイァランド人は、各人が自分の手でつくれるような馬具や索具を用いて、その農耕をおこなうことができ、ほとんど誰れでもが建てられるような家に住み、どの家婦もみな羊毛や毛糸のつむぎ手・染め手なのであって、現在の様式にしたがえば、かれらは金・銀貨幣を使用することなしに生活し、また生存してゆくことができ、一日当り二時間とは労働せずに上述の必需品を自給することができるのである。……アイァランドの貧民にとっては、銀貨は用がないこと、そのために炉税は半分も調達できないこと……」

 ペティはアイァランドの農地に亜麻を植えれば、はるかに多くの貨幣を得られると提案しながら、生活ができるならそれ以上働こうとせず、貨幣をえることに関心の薄い「貧民」たちの行動が、どれほど国富に損失を与えているだろうかと嘆く。

 「穀物がはなはだしく豊富なときには、貧民の労働が比例的に高価であって、かれらをやといいれることはほとんど全くできない、(ただ食わんがため、むしろただ飲まんがために労働する者は、ことほどさように放縦である、)」

 「神があたえたまうこの共同の祝福は、万人の共同の幸福──これは元首によって代表される──のために充当さるべきものであって、みだりにこれを人類中の下劣な・獣的な分子にあたえ、共同の富を害したりするのはもってのほかである」

 国富の増加に結びつくこともなく、貨幣を用いようともしない「貧民」の労働と生活は、ペティにとっては変革されるべきものであった。農民もまた自給的な生活、共同体内の交換で成り立ってしまうような生活に終止符を打ち、商品作物をつくり、貨幣を手にして暮らす農民にならなければならない。しかしそれだけでもまだ不十分である。農民はその職業を工業や商業に転じていく必要もあるだろう。なぜならペティは、前記したように、農業よりも工業、工業よりも商業のほうが、一人の労働によってより多くの富を生産すると考えていたのだから。だから彼は書いた。

 「この利益は約百八十万の人民が、農業というまずしくもみじめな職業から、比較的有利な手工業へ移植させられることから生ずるものであろう」
(内山節著「貨幣の思想史」新潮選書 p14-20)

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 商品生産社会が商品そのものに内属する価値形態をさらに発展させて貨幣形態にまですると、価値のうちにまだ隠されていたさまざまな萌芽が早くも現われてくる。その最初の本質的に最も重要な結果は、商品形態が普遍化することである。

貨幣は、これまで直接の自家消費のために生産されていた物にも貨幣形態を押しつけ、それを交換のなかに引きずりこむ。このことによって、商品形態と貨幣とは、生産のために直接に社会的に結合されていた共同体の内部経済のなかに侵入して、共同社会の紐帯をつぎつぎに断ち切り、共同体を解体して私的生産者の群れにしてしまう。

貨幣は、まずはじめには、インドで見られるように、土地の共同耕作を個別耕作で置き換え、そのあとには、耕地の共同所有──その存在は、まだときおり割り替えがくりかえされたことで明らかになった──を最終的な分割によって解体し(たとえば、モーゼル川流域の農民共同体で、また、ロシアの共同体でも、これが始まっている)、最後には、まだ残っている共有の森林と放牧地との分配へ突き進む。

生産の発展に根拠がある他のどんな原因がこれにあずかっているにせよ、あいかわらず貨幣が、そうした原因が共同体に作用を及ぼすための最も強力な手段になっている。そして、貨幣は、これと同じ自然必然性をもって、いっさいの「法律と行政規則」とをものともせず、デューリング式経済コミューンを──いつかそれができあがるとして──解体してしまうに違いない。
(エンゲルス著「反デューリング論-下-」新日本出版社 p197)

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◎「このことによって、商品形態と貨幣とは、生産のために直接に社会的に結合されていた共同体の内部経済のなかに侵入して、共同社会の紐帯をつぎつぎに断ち切り、共同体を解体して私的生産者の群れにしてしまう。」と。

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