学習通信040903
◎地獄の沙汰も金次第……。

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 金銭に就てもう少し書いておきたい。
 金銭は元来は物々交換の為に人間が発明したものと思う。勿論、僕は学者でないから、経済の問題をここで説こうとは思わない。人間の欲望と金銭の関係を一寸(ちょっと)かいておきたいのだ。前に書いたことを、もう少しはっきり読者の頭に入れておきたいと思うのだ。

 僕達が仕事をするのは金をとる場合が多い。金がとりたいから仕事をする人はいくらでもあるだろう。金をとる為でなければ書かないものも金をとる為には書く。金をとる為でなければ雇われたくないものが雇われる。働きたくなくも働く、詐欺のようなことをする人もある。朝から晩まで金をとることを考えている人もある。金の為には人殺しをするものもあり、貞操を売る者もあり、時間を売り、思想を売る人もある。

 その金をとる理由は、大部分家族の生活の為である。家族の生活の為に主人が働くのは当然のことである。ただ正しい仕事で金がとれないことを残念に思うが、国家で許している仕事で家族の生活の為に必要な金の為に働くということは、今の世では当然なことである。そして多くの人は中々家族を健康に養うだけの金をとることも困難なので、それ等の人が金にがつがつするのは当然すぎる。

 それは生活の為に働くのだ。健康の為に働くのだ。第一の条件の為に働くので、正しい以上必要なことだ。ただ気になることは、一人の人間が余りに機械になってしまって、それ以上のものになれない点だ。金をとるだけが一生の仕事の人が多すぎ、それもあまり面白くない仕事をする人が多い。その結果、人間が生きたり、働いたりするのは金をとる為だという誤解を招き易い点だ。その結果金さえとればいいということになる。

 その結果金をとったり、金をもうけたりする仕事はどんな仕事でもいい、つまり楽して、金の多くもうかる仕事をするものが利口だということになる。

 その結果、百姓の仕事なぞは一番馬鹿気た仕事になり、相場師とか、贅沢品をあつかうものとか、人間の病的欲望を刺戟するとか、その他いろいろ人間の欲望を悪く利用するものが、出てくる。元来人間は、完全に出来ていないで、病的になり易く出来ている。それをうまく利用して金もうけをする人が出来る。

 又一方、食えないでは困る人の弱点をつかんで、少しでももうけを多くする為に、過度の労働をさせる人も出て来る。

 金はいくらもうけても、困るということのないものだから、人間の欲望は無限に発達し、又その欲望をうまく利用するものが出て来て、人間を益々病的にして、人間の本来の欲望の健康さを忘れさす。

 人間の目は美を好めば、健康に必要な着物以上に、人間の極度の好みに応じた着物をつくり、着る為よりも見せる為の着物を考え出す。それを美しい人が着るならまだわかるが、その着物と凡そ不つりあいな婆さん達も着るということになる。又男も、自分が着たって誰も顧みないような恰好のくせして、金持だということを証明して、金で動く人々に感心してもらおうとしたりする。

僕は人間の着物の色彩の美しいことを好むものだが、しかし金をかけることが自慢になるのは馬鹿気ている以上、みっともないと思う。しかしそういう点でも人間はきりがないのだ。このきりのないということはよしあしである。健康の為に着物を着るのなら、必要の程度はきまっている。しかし趣味とか、好みとか、それもまだいいとして金のかかっていることを競争するようになったら、限りがない。又そういう着物をつくる為に、一生を費す人も出てくる。

 僕は役者とか、特別に美しさをもって一般の人を喜ばす資格のあるものには、特に美しい着物を着る特権を国家で与えていいと思う。しかし普通の人が、あまり贅沢な風をするのは賞めたことではないと思う。金がありすぎるということは、その人の利己的な人間であることを示すのだから、あまり自慢にはならないし、他人に反感を起させることで、いいことだとは言えない。しかしそれは着物ばかりではない。

 贅沢をしだしたらきりはないのだ。食いものだって、健康に必要な程度なら人間の食える量も質もそう大したものではない。しかし人間に与えられた味覚を病的に発達させて、美味にあくことを知らない人間になれば、いくらでも贅沢な食いものを考え出し、我等の想像が出来ない贅沢な食事も人間はつくり出すことが出来るのだ。

 健康第一で、進むことが僕には自然と思え、又人間の肉体や精神の為にもそれがいいのだと思う。

 こういう贅沢は、したくないものにとっては、別に反感を持つ程のことでもなく、むしろ滑稽であったり、珍らしかったり、話のたねとして面白いと思うが、しかし一方、十分に飯さえ食えないものがあるのだから、そういう話は、反感や、不平を起させ易いし、それ以上、金というものの魅力をます力をもっている。

 金がほしい、金持になりたい、金さえあればどんなことでも出来る。
 これが現世であり、人間を病的にする大きな原因になっているのだと思う。

 性的の欲望なぞは人間は実に強いのだから、美しい芸者なぞを見て、金があればと思う人は少ないとは言えまい。

 かくて、人々は、金、金、金になり、金とることにだけ頭が向いて、その結果、金が出来た人はまだいいとして、金の出来ない多くの人は、不幸な恵まれない一生を終ることになる。

 又金をもうけた人は人で、無限に金がほしくなるので、あくことを知らないし、金をつかって贅沢な生活をしたり、享楽的な生活をしたりしても、それは人間の本来の生命に忠実になったのではないから、益々心の内が空虚になり、大事なことを忘れた生活になり、健康な喜びや、安心を得られなくなり、金に媚びる人々の虚偽のお世辞にとりまかれ、人間としての値打は益々下落してゆくことになるのだ。

 ただ金があっても、その金を益々よく生かし、人間の為になる事業をしてゆくよき事業家ならば、金があることは、一概に悪いとは言えない。

 金をもうけたくって仕方がないのに、頭や、心がけが悪くって貧乏な人もほめるわけにはゆかない。大事なのは人間として立派な生活を送ることで、金の有無ではない。金の有無をもし問題とすればむしろ僕は清貧の人を賞める。又質素な生活をする人に厚意をもつ、しかし貧でいじける人よりは、富んでも、積極的に何か人間の喜びになり、国民の生活の為に働く人を讃美する。一番いけないのは、プラスのない人である。マイナスはないが、プラスはない人間よりは、欠点はあっても、長所のある人の方がまだましだ。害のある方は制裁出来るが、いい方のない人は、いいところを引っぱり出すことは困難だから。

 人類は又長所をとって、短所をすてることが名人である。
 しかし金というものは魔物であることはたしかだ。その奴隷にならないことが大事である。
(武者小路実篤著「人生論・愛について」新潮文庫 p53-58〔金〕

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 もしも人間の感情や情などがたんに〔狭〕義の人間学的規定であるだけでなく、むしろ真に存在論的な本質=(自然)=肯定であり、──そしてそれらはただそれらの対象が感性的にそれらにたいして存在することによってのみ、現実的にみずからを肯定するのであるならば、(一)、それらの肯定の仕方はけっして同一ではなくて、むしろさまざまな肯定の仕方がそれらの存在、それらの生の特色をなすことは自明のことである。対象のそれらにとってのあり方がそれらの享受の独特な仕方なのである。

(二)感性的肯定が対象をそれの自立的な形式において直接に揚棄することである(対象を食ったり、飲んだり、加工したり等々すること)場合には、このことは対象の肯定である。

(三)、人間が人間的であり、したがってまた彼の感情等々も人間的であるかぎり、誰か他の人による対象の肯定もまた彼自身の享受である。

(四)、発達した産業によってはじめて、換言すれば私的所有の媒介によってはじめて、人間的熱情の存在論的本質はその全体性においてもその人間性においてもでき上がってくる。したがって人間にかんする学問はそれ自体、人間の実践的な自己証示の一つの産物である。

(五)私的所有──その疎外を解かれたかたちでの、──の意味は、人間にとって本質的諸対象が享受の対象としても活動の対象としても現存するということである。──

 金は、一切を購う特性をもち、あらゆる対象を我がものにする特性をもつがゆえに、すぐれた意味において所有されるところの対象である。それの特性の普遍性はそのものの万能性にある。それゆえに、それは万能なものとして通用する。

……金は必要と対象のあいだ、人間の生活と生活手段のあいだの取持役である。ところで、私に私の生活を取り持ってくれるものは、また私にとっての他人たちの現存をも私に取り持ってくれる。それは私にとって私ならぬ他の人間である。

「なに、べらぼうな、もちろん手や足や
頭や腎(しり)、こいつらはお前さんのもんだ!
でも、何でもあっしが新しく利用すりゃ、
それでそいつはあっしのもんじゃないんですかい?
六匹の馬の代金が払えりゃ、
そいつらの力はあっしのじゃないんですかい?
あっしが突っぱしりゃ、りっぱなもんで、
まるで二四本の足の持主でさあ。」
ゲーテ『フアウスト』(メフイスト)

シェークスピアは『アテナイのティモン』のなかでこう言っている。

「金か? 結構な、ぴかぴかの黄金か? いや
神々さまだ!
わしはだてにお祈りするわけじゃない。
これだけそいつがあれば黒も白、醜も美、
不良も良、老も若、儒(よわい)も勇、賤も貴だ。
そいつは……祭司を祭壇から誘うし、
なおりかけの病人から寝枕をひっこ抜く。
そうだ、この黄金色の奴隷めは神聖な絆を
解いたり結んだり、呪われた者の呪いを払ったりする。
そいつ奴のおかげで癩病もかわいくなり、盗入
は崇められて、
元老院での地位と威光と権勢を手に入れる。そいつ奴は
くたびれた年増やもめに求婚者を連れてくる。
養老院から毒々しい傷の膿で、
反吐(へど)はくように放り出された女を、こいつは芳ばしく五月の若さへよみがえらせる。
いまいましい金属め、
きさまは人々を誑(たぶ)らかす
人類共同の娼婦だ。」

そしてもっと後のほうでは、

「こやつ、かわいい王様殺し奴、息子と父の高価な
縁切り! ヒュメナイオス〔婚礼の神〕の
至純の臥所の絢爛たる冒涜者! 勇ましいマルス〔軍神〕!
この永久に栄えるいとしの求婚者、
その金色の輝きはディアナ〔貞操の女神〕の浄い膝の聖なる雪も溶かす!
目に見える神、お前は不可能事どもを密に睦ませ、否応なしに口づけさせる!
お前はどんな言語ででも、どんな目的のためにでも、語る!
おおこやつ、人々の心の試金石奴!
お前の奴隷である人間が背くことを思ってみるがよい!
お前の力で彼らすべてを掻き乱して滅ぼしてしまえ!
そうすりや、この世の支配は獣どものものだ!」

 シェークスピアは金の本質を的確に描いている。彼を理解するために、まずあのゲーテの箇所の解釈から始めよう。

 金によって私のためにあるもの、私が代価を支払いうるもの、換言すれば金が購いうるもの、……金そのものの持主である私とはそれなのである。金の力の大きさが私の力の大きさである。金のもつ性質は私──金の持主──のもつ性質であり本質力である。したがって私が何であり、何ができるかはけっして私の個人性によってきまっているのではない。私は醜いが、しかし私は絶世の美女を購うことができる。だから私は醜くないのである。というのは、醜さの効果、人の顔をそむけさせる力は金によってなくされているのだからである。

私は──私の個人としてのあり方からすれば、──びっこであるが、しかし金は私に二四本の足をもたせてくれる。だから私はびっこではない。私は性の悪い、不誠実な、非良心的な、才気のない人間であるが、しかし金は尊ばれており、したがってその持主もそうなのである。金は最高によいものであり、したがってその持主もよい人間であり、のみならず金は私に、不誠実であるという厄介なあり方をしなくてもすむようにしてくれる。だから私は誠実だと頭ごなしに推定される。

私には才気はないが、しかし金は一切万物の現実的な才気である。どうしてその持主が才気のないはずがあろうか? それにまた金の持主は才気に富む人々を自分のために購うことができるのであって、才気に富む人々を自由に使う力をもつ人間は、才気に富む人よりももっと才気に富む人間ではないか? 人の心が渇望するどんなことでも金のおかげでできる私、その私はあらゆる人間的能力を所有するではないか? したがって私の金は私の無能をことごとくその反対物に変えるではないか?

 金は私を人間的な生活へ結びつけ、私に社会を結びつけ、私を自然と人間たちに結びつける絆であるならば、それはあらゆるかのなかの絆ではないか? それはあらゆる絆を解いたり結んだりできないだろうか? だからそれはまた普遍的な分離剤なのではなかろうか? それは真の分離貨幣〔補助貨幣〕であるとともにまた真の接合剤でもあり、社会の〔……〕化学的力なのである。

 シェークスピアは金においてとくに二つの属性を取り出している。

(一)、それは目にみえる神であり、あらゆる人間的および自然的諸属性の、それらの反対物への転化であり、諸事物の普遍的な混同と転倒であり、それはもろもろの不可能事を睦み合わせる。

(二)、それは人間たちと諸国民との普遍的娼婦、普遍的取持役である。
 あらゆる人間的および自然的性質を転倒し混同し、もろもろの不可能事を睦み合わせるという金の神通力は、金の本質がじつは疎外されたところの、手放し〔外在化し〕、譲渡される人間の類的本質にほかならぬところにある。それは外在化された人類の能力である。

 私が人間としてできないこと、したがって私のあらゆる個人的本質力にとってできないこと、それが私には金のおかげでできる。したがって金はこれらの本質力のどれをでもそれの本来の力とはちがったもの、換言すればそれの反対物たらしめる。

 私が何か食べものを欲しがるとか、歩いていけるほど丈夫でないので駅逓馬車を使いたいとかいう場合、金が私にその食べものと駅逓馬車を得させてくれる。ということは、それが私の願望を表象としてのあり方から変え、それらの願望を、それらの考えられ表象され望まれたあり方から、それらの感性的、現実的なあり方へ、表象から生へ、表象されたあり方から現実的なあり方へ転じるということである。この媒介として〔金〕は真に創造的な力なのである。

 需要≠ヘ金をもたない者にとっても確かに現に存在しはするものの、しかし彼の需要はたんに観念的なものにすぎないのであって、私にも、第三者にも、爾〔余の〕人々にもどんな影響もあたえず、どんな現実性ももたず、したがって私自身にとってどこまでも非現実的、没対象的である。

有効な、金の裏づけをもった需要と、私の必要、私の欲情、私の願望等々にもとづく需要との区別は、存在と思惟のあいだの区別であり、私のうちに存在するだけのたんなる観念と、現実的な対象として私の外に私にたいして存在するような観念とのあいだの区別である。

 私が旅をする金を一文ももたなければ、私は旅をする要求、つまり現実的で、そして満たされる要求をまったくもたない。私が学問をする天分をもっていても、そのための金をもたなければ私は学問をする天分、つまり発揮しうる、真の天分をまったくもたない。

これに反して、私が学問をする天分などは現実的にまったくもたなくても、しかし意志とそして金をもっていれば、私はそのために発揮しうる天分をもっているわけである。金は観念を現実性に変え、そして現実性をたんなる観念にすぎないものたらしめる手段、力であって、それは人間としての人間、そしてまた人間的社会としての社会から由来するのではないところの外的な、普遍的な手段であり力である。

そのようなものとしての金は現実的な人間的および自然的本質力をたんに抽象的な観念、したがってまた不完全性、悩ましい妄想に変えもすれば、他面また現実的な不完全性と妄想、個人の想念のなかにしか存在しない、現実的に無力な彼の本質力を現実的な本質力と能力に変えもする。

したがってこうした規定の面からしても、金はもろもろの個人性の普遍的転倒なのであって、この転倒によってもろもろの個人性はそれらの反対物に転じられ、それらの属性に、それらとは矛盾する属性が付与されるのである。

 かくて金は個人にたいしても、また社会的等々のもろもろの絆──これらの絆はそれら自体として本質であることを要求しているのであるが、──にたいしても、こうした転倒を起こさせる力としてあらわれる。それは誠実を不誠実に、愛を憎しみに、憎しみを愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、奴隷を主に、主を奴隷に、愚鈍を分別に、分別を愚鈍に変える。

 金は、現存していてそのはたらきを実際にみせるところの、価値の概念として、あらゆる事物を混同し交換するのであるから、それはあらゆる事物の普遍的な混同と交換であり、したがって転倒された世界であり、あらゆる自然的および人間的性質の混同と交換である。

 勇敢さを購うことができる者はたとえ臆病者であるにしても勇敢である。金はある特定の性質、ある特定の事物と人間的本質力を交換するのではなくて、人間的および自然的な対象的世界と自らを交換するのであるから、したがってそれは──その持主の立場からみれば、──あらゆる属性をあらゆる属性や対象──たとえそれと矛盾した属性や対象であろうとも──と交換する。それはもろもろの不可能事を睦み合わせ、矛盾しあうものを否応なしにくっつかせる。

 人間を人間として、また世の中にたいする彼のあり方を人間的なあり方として前提するならば、きみは愛をただ愛とのみ、信頼をただ信頼とのみ、等々、交換することができる。きみが芸術を楽しみたいならば、きみは芸術的な教養のある人間でなければならない。

きみが他の人々に影響力を及ぼしたいならば、きみは実際に他の人々を活気づけ鼓舞するようなはたらきをもつ人間でなければならない。

きみの人間にたいする──および自然にたいする──どんなあり方でも、それはきみの現実的個人的な生き方のある特定の、きみの意志の対象に見合った表現でなければならない。

きみが愛することがあっても、それにこたえる愛をよび起こすことがないならば、換言すればきみの愛が愛として、それにこたえる愛を生み出すことがないならば、きみが愛する人間としてのきみの生活表現によって、きみ自身を、愛された人間たらしめることがないならば、きみの愛は無力であり、一つの不幸なのである。
(マルクス著「1844年の経済学・哲学手稿」マルクス・エンゲルス全集第40巻p484-489)

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◎「金は、現存していてそのはたらきを実際にみせるところの、価値の概念として、あらゆる事物を混同し交換するのであるから、それはあらゆる事物の普遍的な混同と交換であり、したがって転倒された世界であり、あらゆる自然的および人間的性質の混同と交換である。」……と。

「きみの愛が愛として、それにこたえる愛を生み出すことがないならば、きみが愛する人間としてのきみの生活表現によって、きみ自身を、愛された人間たらしめることがないならば、きみの愛は無力であり、一つの不幸なのである」「きみの意志の対象に見合った表現」なのだから。

「きみが他の人々に影響力を及ぼしたいならば、きみは実際に他の人々を活気づけ鼓舞するようなはたらきをもつ人間でなければならない。」