学習通信040906
◎「不注意に見遁(みのが)せば見遁されうる、ほんの短い一言の言葉」……。
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あらためての「窮境」より
教育基本法、憲法のこと
大江健三郎
この六月、私は考えを突き合わせて一緒に働きたい人たちと、憲法「九条の会」を呼びかけました。現行憲法を改めようとする策動に反対する、その目的での行動に、憲法九条を軸として置くという思いで会の名をきめたのです。実際にことを起すのはこれからですが、記者会見の際に、容易ならぬという思いをすることがあったので、そこから話します。
まず、会見に出席できた呼びかけ人の者らがそれぞれに話し、集まってもらった記者の質問に答えました。つねづね憲法改正を社論にかかげている新聞社からは出席がありませんでしたが、やはり大新聞の社会部の人で、その署名記事から名前に記憶のある記者の質問が、私にも向けられました。
なぜ、あなた方が、いま、これをやるのか? 私はいま個人の責任で話すのですし、呼びかけ人それぞれが、文章なり講演なりで意見をのべてゆくことになりますから、新聞に要約の載ったアピールと私らの署名を見ていただくとして、ここに個人名はあげません。ただひとつ、九人のうちもっとも若僧の私ですら六十九歳だ、とだけいっておきます。
つまり、年寄りの冷水じゃないか、といわれているのだとしてもそのとおりなので、私は自分の考えをのべました。老年になって、小説家として生きた人生をしめくくる方向で、「後期の仕事」を始めている。そうしながら振り返ると、現在にいたる自分の生き方と仕事の──もちろん俗世間の人間として、逸脱はあるとして──その大筋が、敗戦後二年たっての一九四七年に起った変化に根ざしているのがわかる。
その前に、幼・少年にも感じとられる範囲での私の戦争があった。四国の森の奥に暮らす子供にも、南方でまた中国大陸で行なわれている戦争は、最大の関心事だった。直接の戦火が空襲として日本列島に及び、東京──そして私らの森に近いところでは──松山の大空襲があり、広島・長崎の原爆があり、沖縄の地上戦があり、地方の子供もそれらを不十分な情報なりに知ってゆくことになった。そして敗戦となって、私らの谷間にまで米軍のジープが来た。
それに続く激動の時代に、一九四七年の、憲法の施行と教育基本法の公布・施行とを、明るいこととして受けとめた。憲法については、その年の夏『あたらしい憲法のはなし』が教科書として配られ、熱心に読むことになったが、やはりこの年の四月、村にできた新制中学の一年生になっていた私は、まだ春のうちに、先生や大人たちが重要なものとして話す憲法を読みたいと思った。私は母親から、大切な言葉、大切な文章はノートに書き写せといわれ、従っている子供だったので、それらを写したいと思った。
社会科の先生は、村でいう「在」の、大きい農家の長男だったが、私の申し出を笑わず、憲法は難しいし長いが、教育基本法ならば、子供にもわかるし短い、と教えてくれた。そのようにして写した教育基本法を、私は子供のための憲法として受けとめた。あれ以来、自分が生きて来る過程に、いつもそこから読みとったものが脇に付き添っていると感じてきた。私が、小さな運動であれ、憲法についてやろうとするのは、この思いに立っている。
そのように答えてから、なぜいま、ということについても考えをのべたのです。これまでも憲法の危機ということがしばしばいわれてきたのは確か。それはまず、憲法の解釈において作られるひずみの固定化を懸念していわれた。それを批判し、それにもとづく政府の行動に反対する人々は、専門家にも一般市民にも多かった。反対の集会、デモなどに、自分なりの参加もして来た。
それとは別方向の危機として私が記憶にきざんでいるのは、こうした解釈の積み重ねによって憲法が「空洞化」した、という批判が左派の行動家のコンセンサスとなり、憲法を守るという基本態度そのものが、意識的な若い世代から冷笑されることになった時期のことだ。それに対して、私は意識して「戦後民主主義」を信条として生きていると口に出し、文章に書くようにした。ストックホルムの受賞演説でも、私はそれを中心に置いた。いまもその信条から、憲法と教育基本法の作りかえに反対している。
その上で、なぜいまかといえば、いまを私がかつてない憲法の危機と見なすからだ。イラク戦争に自衛隊が送られて、それが国会での議論もなく多国籍軍への参加に置きかえられようとする現実がある。国民の世論はそれを批判するが、野党はよく闘いえていない。解釈による憲法のねじ曲げを、それもかつてなく大きい歪曲と新規の立法を現実が追認する。そして固定化する。政府与党によるその「慣行」が、小泉政権下では大規模に公然と進行している。
それがこの国をブッシュ戦略のただなかに組み込ませ、引き返しようのない所へ押し出している。その全体を一挙に合法化するものとして、新憲法第九条を否定する新々憲法が成文化することになれば、この国をアメリカの覇権から自立させる手がかりの、最後のものがなくなり、アジアから寄せられてきた不信は動かしがたいものとなるだろう。
私が答えたのは、このようなことでした。記者会見の後、私のまだ座っている所へ近づいて来たさきの記者が、こういいました。あなたは、いまの危機について、私の新聞もそれを指摘しているとおり、といったが、うちの論説委員の半ばは、改憲派だ。そういって、いったん立ち去った後、引き返して来て、憲法を改定して、国際貢献をするということだ、と付け足しました。
年をとっても世間知らずの小説家が、こうした席にしゃしゃり出る、その悪い意味でのナイーヴさがたしなめられた、ということでしょうが、私には骨身にしみたのです。それではマスコミの中核で地殻変動が起っている、ということなのか…… 電車に乗って家に帰る間も、このところ続けている小説の草稿に向ってからも、私は心ここにあらずでした。憲法の解釈によるねじ曲げの、また現にある空洞化の実状を、じつに永い間感じとって来ていながら、自分はしかし、その文章としての作りかえについては、まだ押しとどめることができる、と信じていた、と私は自分の楽観癖を認めました。
ついこの春も、大きいテロ直後のマドリッドで、まさに正気の市民たちの巨大なデモとそれに結ぶ選挙結果を頭におきながら、日本に小泉政府のブッシュベったりの暴走があっても、いったん憲法改訂の国民投票となれば、とくに女性票の結集は力を発揮し、若者の大群もにわかに目ざめるだろう、と現地のマスコミに話してきました。それが憲法のもとの戦後半世紀の、日本人が積みあげた力だから。しかしそれを薄笑いするジャーナリストは、ほかならぬ東京にいる。
おおむね書斎に閉じこもっている者には思いもつかぬ、事態の変化が生じており、いまやそれこそが力を持つ常識ではないのか? どちらが現実とマスコミの内情に通じているかといえば、孤独な老作家よりあの記者であることは明瞭なのだから……
そのような思いをベッドまで持ち越した私に、あきらかな将来の風景として、改憲後の、自分の身の処し方が浮かんで来ました。これまでやってきたようなエッセイ、評論の文章を書いたり、その種のことをしゃべったりすることはなくなるだろう、と。なぜなら、いかなる専門家でもない私にそうした文章、講演というようなものを可能にしてきた動機づけは、あの教育基本法と憲法を基盤にすえて生きている、ということのみであったからだと、それらが棄て去られた後、身も蓋もなく思い知っているだろうからです。
それでも長くはない余生をなお生きるとして、その自分はどういう生きものであるかと私は考え、W・B・イエーツの「おかしくなった老人」、それもひたすら怒りによっておかしくなっている自分を、生なましく思い描いたわけなのでした。
しかし数日たつと、イエーツ晩年のいつまでも怒りの声を発し続けている詩集を再読したりもするうち、「おかしくなった老人」らが死んで行った後この国で生き続けねばならぬ若い人たちに、いらぬお世話かも知れないが、自分もまた若かった頃、憲法と教育基本法をどのように受けとめたかを話しておくことにしよう、と思い立ったのです。
(大江健三郎「あらためての「窮境」より 教育基本法、憲法のこと」月刊:世界04年8月号 岩波書店 p48-51)
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無産者運動の実践への関与が、一切の予定を狂わした。
まだ大学にいる時、私は、漸く自分を本当のマルクス学者として仕上げたかと思うようになった頃から、ポツリポツリ無産者運動の実践に交渉を有って来たことは、すでに述べたところである。内部的な思想の変化は、当然にも、それに適応する変化を、外部的な行動の上に惹き起さざるを得ないのであるから、こうした二つの事柄が時を同じうして重なり合っているのも、実は不思議でない。──大学を退いた当座の私は、残生を主として『資本論』の翻訳に献げたいと思って見たけれど、それは遂に一時の夢に終った。
この頃、私の心には、いつも無視することの出来ないものとして、エンゲルスの次の言葉が、一種督励(とくれい)者の役を演じていた。これについては、先年「入獄記」の緒章に書いておいたが、これは大事なことで省略する訳に行かぬから、重複を厭わずまた書き加えておく。
マルクスの『資本論』の遺稿整理の任に当っていたエンゲルスは、一八八五年に第二巻を刊行してから、実に九年目の一八九四年になって、漸く第三巻を出すことが出来た。その時彼は、この第三巻への序文において、その刊行がかくも後れたのは、自分の視力がひどく衰えた上に、(彼は一八九四年には已に七十五歳の高齢に達しており、その翌年には永眠したのである、)実際運動に関する当面の仕事が非常に増大し、その方へ自分の時間を奪われたためであることを述べた後に、注意すべき次の言葉を吐いた。
「こうした(実際運動に関する)仕事は、吾々にとっては拒むことの出来ない、即刻果さねばならぬ、一つの義務である。十六世紀におけると同じように、現代のような変革期には、社会公共の問題に関する領域では、単なる理論家はただ反動の陣営に存するのみであり、正にそれゆえに、かかる人々は断じて真実の理論家ではなく、ただかかる反動の単なる弁護者たるに過ぎないのである。」
いわゆる変革の時期に七十余年の経歴を経たマルクスの無二の親友エンゲルスが、晩年に臨んで吐露しているこの一言は、いやしくもマルクス主義を学ばんとする者にとって、──差当り納得できようが、できまいが、──断じて無視することの出来ない一つの大きな断案である。およそ天下の学者、この一句に逢うて忽と(かいこ)として過ぐる者は、たとい如何に博学多識といえども、断じて真正のマルクス学者というを得ないであろう。思うにマルクスの『資本論』の価値を認むることにおいて、恐らくエンゲルスにまさる者はあるまい。
またマルクスの遺した読みにくい草稿を一々整理して、これを一冊の著作に纏め上げるという仕事のためには、エンゲルスを舎(お)いて外に適任者があろうとも思えない。しかもエンゲルス自身は已に高齢に達し、いつどうなるかも知れない老人になっている。しかるにもかかわらず、彼は当面の実践運動のため惜気もなくその時間と労力を割き、『資本論』第三巻の刊行を九年も後らしているのである。彼は何故かかることを敢てしたかについて、包むところなくその意中を漏らしている。
彼は注意深くも、「現代のような変革期」という言葉で時代を制約し、「社会公共の問題に関する領域」という言葉で問題を制約している。例えば、数学物理学などいう学問の領域では、もちろん無産者運動の実践から遊離した学者が存在し得るであろう。また社会が安定期に入っていて、学者は学者として分業的に自分の専門に没頭しうる時代であれば、社会公共の問題に関する領域においても、実践から遊離した学者が存在し得るであろう。しかし今はそういう時代ではないと、エンゲルスは明言しているのである。
エンゲルスがこの言葉を吐いてから数十年を経ていた昭和三年は、すでにロシヤではソヴェート連邦が成立しており、我国でも日本共産党が権力階級のため大弾圧を蒙(こうむ)った時代であ。如何なる意味においても、それは一大変革の時期であることに疑はない。こう考えて来ると、『資本論』の翻訳は、私にとって最も相応しい仕事であり、無産者運動の実践に関与するなどは、また如何にも不適当極まる仕事であるということは、何人よりも自分自身に最もよく分かっているにかかわらず、私は眼前の運動に眼をつぶって静かに書斎に閉じ龍(こ)もり、自分の最も好きな文筆の仕事に没頭する、という生活に安んずることが出来なかった。
『資本論』の原本ですら、当面の実践運動のためには、十年近くもその刊行を延ばされていたものだ。何人かこれが翻訳に従事することを以て、実践から遊離する口実となす権利を有(も)とう。如何にその翻訳が必要な仕事であるとはいえ、私はこれに没頭していて差支ないのだと安心し切る訳に行かなかった。
更にまた、レーニンが『国家と革命』の第一版の跋(ばつ)に書いている次の文章も、エンゲルスの先きの文章と同じように、書斎に閉じ籠もることから私を妨げた。レーニンはいう、──
「この小冊子は、一九一七年の八月と九月とに書いたものである。私はすでに第七章の 「一九〇五年および一九一七年のロシヤ革命の諸経験」の腹案を調えていた。だが、章の題名の外には、それについて一行も書くことが出来なかった。私は政治的危機によって、即ち一九一七年の十月革命の前夜によって、「妨げ」られたのである。かかる「妨げ」は、誠に結構なことだ。小冊子の第二部(「一九〇五年および一九一七年のロシヤ革命の諸経験」に充てられている部分)は、恐らくずっと遅くなる外はあるまい。「革命の諸経験」について書くよりも、それに参加する方が、より愉快であり、より有益である。」
革命の前夜においては、「国家」に関する偏見(それは支配階級が絶間なく全力を挙げ、あらゆる機会にあらゆる機関を動員して、大衆の間に流布しているもの)から大衆を解放することが、特に極めて必要である。(第二世界大戦の真只中にあって、私は今この原稿を書きつつ、実にその必要を痛感せずにはいられない。)だからこそレーニンは、あの困難の事情のもとにありながら、この『国家と革命』に筆を執ったのである。
この著作は、ただそれ自身を見れば、研究室内の労作の如き観を呈しているもので、そこには革命の焔の匂いすら感じることの出来ないような、極めて冷静な理論的著作である。だがそれは、実際には洵(まこと)に容易ならざる事情のもとで執筆されたものである。ア・ショトマンの追憶記には、当時のことが次の如く書かれている。
「レーニンが姿を剛(かく)してから既に一ケ月も経過した。……ブルジョア新聞は、口角泡を飛ばす勢で、どうでもこうでもレーニンを逮捕しなければならぬと書き立てた。ケレンスキーの密偵は、昼夜到るところで眼を光らせた。犬さえもが、その中には有名な警察犬トレフまでが、姿を隠すに巧なレーニンの捜索に動員された。……ある日のこと、将校五十名から成る決死隊が、レーニンを発見するか、然らずば生きて還らずと、誓を立てたという記事が、新聞に現われた。」
事情が次第に切迫したため、ラズリーフの沼沢地(しょうたくち)の刈草小屋に潜伏していたレーニンは、ひげを剃り落し、かずらをかぶり、機関車の火夫に化けて国境を逃げ出し、フィンランドの一寒村に身を隠すことになった。『国家と革命』は、こうした事情のもとで執筆された。それほどまでに、彼は、マルクス主義の国家理論を明かにすることが、当面の革命にとって欠くべからざる要件だと考えたのである。しかも、それほど大切に思った著作すら、実践への参加のため、彼は中途半端でこれを打ち切った。そして「革命の諸経験について書くよりも、これに参加する方が、より愉快であり、より有益である。」と言っているのである。
ただに口で言うばかりでなく、身を以てこれを実行しているこれら先人の芳縦(ほうしょう=あしあと)。それは、たとい『資本論』や『剰余価値学説』を残る隈なく読んでおり、どこに何か書いてあるかを空に暗記していようとも、これを軽々に看過しているものは、決して真正のマルクス学者ではない。私にはそう思われた。エンゲルスの言葉にしろ、レーニンの言葉にしろ、不注意に見遁(みのが)せば見遁されうる、ほんの短い一言の言葉ではあるが、それは私の書斎の壁に大書されてあるものの如く、いつも私の心に映じていた。
(「河上肇 自叙伝@」岩波文庫 p252-257)
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◎なぜいまか「こうした解釈の積み重ねによって憲法が「空洞化」した、という批判が左派の行動家のコンセンサスとなり、憲法を守るという基本態度そのものが、意識的な若い世代から冷笑されることになった時期のことだ。」
「解釈による憲法のねじ曲げを、それもかつてなく大きい歪曲と新規の立法を現実が追認する。そして固定化する。政府与党によるその「慣行」が、小泉政権下では大規模に公然と進行している。」
「ただに口で言うばかりでなく、身を以てこれを実行しているこれら先人の芳縦(ほうしょう=あしあと)。」と。